小説 | ナノ

仕事が早く終わった。

ぶらぶら、僕は頭の隅っこにしまわれた記憶を引っ張り出しながら帰り道を歩く。

高校時代常連だった地元の小さなパン屋さんは改装したらしく、鮮やかな黄色の壁を光らせて記憶のそれよりも少し大きくなって佇んでいた。 赤信号でぶつかる度にうちしおれていた長い待ち時間の信号はLEDのものに新しく変わっていて、おまけに待ち時間まで短くなったようだ。この街が変わったぶん、僕が年を重ねていることは確実らしい。


転勤先が地元になったことは住み慣れた環境である点で幸運だったと思っていた。しかしどうも僕の予想とは違ったようだ。高校を出てこうして社会人になって戻ってくるまでほとんど地元には帰っていなかったものだから、今のこの場所は僕の記憶にある街と全く変わってしまったと言っていい。そこは僕の知らない街だった。
時々、昔と同じ風景に触れたときには知らずのうちに微笑んでしまう。こんな歳になっても、きっと僕は置いていかれたことがさみしいのだ。


「雷蔵せんぱい?」


不意に聞こえた自分の名前に反射的に振り向いた。

「やっぱり、先輩だ。お久しぶりッス!」
「きり丸?うわあ、久しぶりだね。」
「ホントですよ!先輩全然こっちに顔見せないんだもんなあ。」
「ごめんね。でも今は勤務先がこっちになったから暫くはここにいるよ。」
「ホントっすか?でも暫く…ってことはまた異動もあるんですね。大変っすねえ。」
「はは。ま、ね。きり丸は、元気そうだね。」
「そりゃもう。ガンガン稼いでますよ。」
「変わってないな。安心するよ。あの頃からアルバイトをいくつも掛け持ちしてたもんね。」
「あの時は本当お世話になりました。先輩んちが公園の近くで助かりましたよ。受験だったのにアルバイト手伝ってもらって申し訳なかったなって思いますけど。でもそれで良い大学行っちゃうんだものなあ。」
「あのアルバイト、すごく良い気分転換になったんだよ。」
「ただのゴミ捨てでですか?」

きり丸が顔を少しゆがめて、先輩お人よしすぎですよ、と言った。本当なんだけどな。

「もうあの公園はないのかな。」
「あーまだありますよ。だいぶ古びてきてますけどね。」


まだ、あるんだ。僕はひとり内心で喜ぶ。
公園のブランコに乗る彼女の姿がぱっと脳裏に浮かんで、丁度その時に周りがとっぷり闇に包まれかけていることに気がついた。

「あ、もう暗い。」
「うわ、本当だ。全く気がつかなかった。ホント冬って日暮れるの早いですよね。」
「ん…本当にね。」
「じゃあ俺もう行きます。また、飯食べに行きましょ!」
「うん。奢るよ。」
「やりい!ありがとーございまーす!」

走っていくきり丸を見送って、僕はもう一度周りを見渡した。夜はすぐそこまできている。行くのならはやく行かないと。

世界が闇に落ちる前に、二度とない今日という日が終わってしまう前に。

足は無意識のうちに速くなっていた。





確かに、あの時のままで公園はそこにあった。
本当は昔よりも古びてきているのだろうけれど、大分見づらくなった視界のおかげというか何というかで僕の記憶のそれと違っているところはほとんど無いようだ。僕はひとつ、安堵の息をついてゆっくりと足を踏み入れる。砂と落ち葉と僕の靴がかさりと擦れ合う。

入ってすぐのブランコがまず目についた。
近づいて、冷たい風で震えているように小刻みに揺れるブランコの鎖を持ち上げる。つめたい感触と一緒に、無機質な音が響いた。
揺れる木の板にそっと腰をおろせば、そのあまりの低さに笑いそうになる。そうか、あの子はこんな風に世界を見ていたんだ。


そのとき、すぐそこにゴミの袋を抱えた女の子がいることに気がついた。


制服に身を包んだ高校生のようだ。暗がりでよく見えないが、僕の方をじっと見つめている。
この子も、かつての僕のようにゴミ捨てのアルバイトをしているのだろうか。

「こんにちは。」

か細い声でされた挨拶に僕はにこりと笑ってこんにちは、と返す。
彼女はそのまま僕にどんどん近づいて、ついには目の前までやってきた。僕はブランコに乗りながら、だんだんと明瞭になった彼女の顔を見つめる。
どことなくあどけなさの残る、整った顔、僕は何故か釘付けになった。
彼女の小さな口が、少し開いた。



「早く帰らないと、終わりに飲み込まれちゃいますよ。」





* * *





思いきってごみ収集の人に尋ねてみると、やっぱり公園のごみ捨てはアルバイトであることがわかった。
気が付けば私は「働けますか?」なんて口走っていて、
気が付けば雷蔵さんと同じようにごみ捨てをしていた。

雷蔵さんと同じ、月曜日と金曜日。それと水曜日。
水曜日に関しては希望していなかったが入れられてしまったから仕方がない。正直さびれた公園のゴミの量なんてたかが知れているんだからそんなに頻繁に回収しなくても、とは思う。それでも私は雷蔵さんの影を追いかけていると感じるだけで幸せだから特に問題はないのだ。


だから、嘘だと思った。

でも私の記憶にずっと生き続けていたその人は確かに、目の前にいたのだ。
記憶よりもすこしがっちりした体つきのスーツ姿。それでも間違いない。
雷蔵さんだ。

見るだけにしようという気持ちは、挨拶だけにしようという気持ちに変わり、
ついには思い出して欲しいなんて考えてしまった。


終わりに飲み込まれちゃいますよ。


そう口にしたあとに、少し後悔した。雷蔵さんが、そんなことを覚えているわけがないのに。恥ずかしさで顔がかっと熱くなる。



「…うん、そうだね。でも、その前にもう少し花子ちゃんとお話がしたいな。」


驚いた顔をしてしまったのは仕方のないことだと思う。まさか、覚えていたなんて。
間抜けな顔をしているであろう私ににこりと笑う雷蔵さんは、昔となんにも変わっていなかった。どうしようもなく嬉しくて、私は言葉に詰まる。

「な、んで私だって、わかったんですか。」
「それは僕のセリフだよ。ずっと会っていなかったのによくわかったね。」
「…覚えてましたから、ずっと。雷蔵さん、ひどいですよ。暫くお別れだなんて…曖昧すぎです。」
「ごめんね。」

雷蔵さんはブランコから立ち上がった。辺りは完全に闇に包まれてしまったから、雷蔵さんの微妙な表情までは読み取れない。

「きれいに、なったね。花子ちゃん。」
「あり、がとうございます。」
「僕がいない間に、色々なものがずいぶん変わった。」

きれいになった。これまで幾度となく言われたその言葉がこんなに嬉しいのは初めてだった。でも、雷蔵さんはどこか寂しそうにじっと暗闇を見つめていた。
それがひどく、切なかった。


「雷蔵さん、」
「ん?」
「私は夜がまだ怖いままです。変わってなんていません。」

だってずっと雷蔵さんをまだ、追いかけているから。


「…ありがとう、花子ちゃん。」
「雷蔵さん、私高校生になって、やっとあの時の雷蔵さんに追いついたんですよ。
「うん。」
「でもそれだけで。私なんにも変わっていないんです。」

闇という名の空間が私と雷蔵さんを隔てていく。私を飲み込んで雷蔵さんも飲み込んでいく。やがて訪れる朝はまだ果てしなく遠い。遠すぎる。
朝が訪れる前に、私たちは終わりを迎えてしまうような気がした。

「雷蔵さん、だから私、雷蔵さんが必要なんです。私の傍に居て欲しいんです。」


そこで雷蔵さんは丸い目をさらに丸くさせた。
私もびっくりしていた。ずいぶん大胆な発言をしたものだ。


少しの沈黙のあとに雷蔵さんは、丸くなった目を今度は細めて、昔みたいに私に目線を合わせてきた。近くなる雷蔵さんの顔。同時に胸の早鐘が鳴りひびく。

「…花子ちゃん、きっと君はこれから色々なものを見るよ。その中で夜の終わりが怖くなくなるかもしれない。いや、多分なくなるよ。」

ひとつひとつ、選ぶように雷蔵さんは言葉をつないでいく。その言葉に精一杯抵抗するように、私は首をふるふると振った。
肩に、雷蔵さんの大きな手が乗る。

「だからね。その日が来るまでで良ければ、僕は君の傍にいよう。それまではずっと。」

その言い方は、決して子供をあやすような文句ではなかった。雷蔵さんは、私と向き合ってくれているのだ。少しだけ、朝が近づいたような気がして私は必死に答える。

「ほんと、ですか?」
「ほんと。」
「じゃあ、覚悟してください、ね。」

動揺も見せずに穏やかに笑う雷蔵さんは、私の頭のなかにどれだけ雷蔵さんが沢山いるのかきっとわかってない。でもそれでいい。雷蔵さんがここに居てくれるなら、それで。

だからこれからも私はずっと、冬が嫌いであり続けるのだ。


*

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