久しぶりに帰った故郷は変わらない景色で俺を迎えてくれた。潮の匂いが懐かしく香る。
昔はあんなに毎日毎日うんざりするほど見た海だったのに、離れているとこうも懐かしく目に映るものなのか。ゆったりと波打つ青と砂浜の白、そして降り注ぐ光の玉。当たり前にある景色を見ているだけで気持ちが段々と落ち着いていくのがわかる。
俺は、きっと海の子だ。たとえ忍者として生きていく道を選んでもきっとそれは変わらない。どこに行っても俺は海を探して、子供が母親に抱かれた時に感じるような安心感を求め続けるのだろう。
ひとしきり海を眺めて、それから潜った。帰ってきたことを確かめるみたいに。
ああ、疲れた。
浜に投げ出した体が重い。頑張って泳ぎすぎたみたいだ。気がついたら夢中になって泳いでいた。
それなのになんとなく気が晴れなくてむしゃくしゃする。その原因はだいたいわかってはいた。俺は無意識に目を閉じて空から降り注ぐ光を遮断する。
あいつ、花子のせいだ。
花子。小さい時から俺がさんざんからかったお陰で俺を見るたびに睨むようになってきた奴だ。俺がここを離れるまで睨み合いしかしてなかった気もするが、1年以上姿を見ないと親しみが生まれてくるのだから不思議だ。
両親が先日の大雨で大波に巻き込まれて、花子はひとりぼっちになったらしい。
風の噂で聞いたその話は、俺が花子に対して持っていた温かな親しみを途端に消し去る程の威力を持っていた。今でもその嫌な感じが消えないままだ。
目を開けようとしてみた。しかし強い日差しに目一杯逆らって開いてはくれない。眩しい。
変わっていないのは、海の景色だけなんだ。当たり前だよな。
記憶の中の花子はいつも俺を睨みつけていた。
同い年だったし、女だったから俺もからかいやすかったんだろう。あいつに虫を投げるのが日課だった。
今考えると相当、俺は嫌われていたと思う。俺が忍術学園に出発する日にもあいつは見送りに来なかったし。
俺は、花子が嫌いじゃなかったけど。
だから、一年以上も顔を合わせていないとはいえ、心配だった。
あいつは、今どうしているのだろう。
次の日もふらり、ふらり海辺を歩いていた。
すると浜で固まる海女さんの集団が目に入った。今は休憩中なのだろう、ぽつぽつと会話が聞こえる。
「花子ちゃん、無理して潜らなくていいんだよ。」
「そうだ、急ぐことなんてないさ。まだ、辛いだろう。」
聞こえた花子の名前に反応して、俺はこっそり会話に耳を傾けた。
「みんな心配しないでよ。沢山泣いたからもう大丈夫だってば。これからは前を向いていかないと、ね?」
あ、
花子だ。
焼けて赤くなった髪の毛。そして見覚えのある、横顔。
少し、痩せただろうか。
「あんたは、強いねえ。」
「きっと、いい貰い手がいるよ。」
「ふふ、ありがとう。」
花子は笑っていた。
そのことに安堵して気づかれないようその場を後にする。
ああ、なんだ。俺がこんなに心配するほどのことじゃなかった。あいつは確かに、明るくて強い奴だった。俺がからかっても一度だって泣いたことはなかったっけ。
あいつの周りには仲間も沢山いる。きっと、あいつはこの先も生きていける。どこかの嫁さんになって子供を作って、そうしてあいつにそっくりな子供を育てるんだろう。
無意識のうちに顔は緩んでいた。
「…ねえっ」
背後から走ってくる音に反応が遅れたのはそうした思考に頭を巡らせていたせいだろう。息の切れた高い声がして、誰かが近づいてきたことにやっと気がついた。
驚いて振り向いた先にいたのは、先程俺が遠くから眺めていた花子だ。
「…花子。」
「三郎次、帰ってきてたんだ。」
「ああ。」
「…私、三郎次のこと許してないから。」
―突然何を言い出すかと思えば。
花子は昔みたいに俺を睨みつけてきた。
唐突に声をかけられて何を言ったらいいのかわからなかった俺は、昔と変わらずに接してきた花子に正直安心していた。まるで昔のように、俺も意地悪く笑い返す。
「…なんだお前、俺が居ない間に少しは丸くなったかと思ったけど変わらねーんだな。」
「三郎次もね。その表情、ほんと腹が立つ。」
心底嫌そうに花子は顔を崩した。
「大嫌い。」
潮の風とともに俺の耳に届いたその言葉は、何故か俺を動揺させた。
「…なんだよ、お前わざわざそんなこと言うために走ってきたのかよ。」
棘のある言い方になってしまったのは、そのせいだと思う。俺は確かに今まで花子にさんざんイタズラして沢山睨まれてきたが、大嫌いだなんて言われたことはなかったのだ。
やっぱりこいつは俺が嫌いだったわけだ。わかっていたことだったが無性に腹が立った。
花子はふいっと俺から顔を背けた。
「ちょっと頼みがあるのよ。今日の夜、暇でしょどうせ。夜にここにもう一度来て欲しいの。」
「大嫌いとか抜かしておいて、頼みごととはいい度胸だな。」
棘々しさが増した俺の言葉を完全に無視してそれだけ、と花子は言った。
「おい、」
勢いで花子に向かって伸ばした手が宙を切る。花子は俺の手をかわした後にくるりと身を翻し、ぱたぱたと集団に戻っていった。
俺の伸ばされた右手だけがそこに残った。
「…夜って、一体いつだよ。アホ。」
とてつもなく気に食わなかったが残念ながら夜は確かに暇だったし、昔と変わらない態度だったとはいえ花子が気になったのもあり、俺は約束通り海へ来てしまった。すっかり闇に溶けた海辺は真っ暗でほとんど何も見えない。
こんな状態で時間も決めてないんだから会えるわけもないと思っていたが、花子らしき人影は既にそこにいた。暗闇のなか砂浜で体を丸め、じっと海を見ているようだ。
「花子?」
近寄っていって声をかける。振り向いた影はたしかに、あいつだ。
「…あー…ありがと、ほんとうに来てくれて。」
「お前さ、時間くらい伝えろよ。夜とか、長すぎるだろ。」
「別にいつでも、良かったの。私はずっとここにいたから。」
花子の声は昼間よりも随分弱々しいように思えた。
―ずっとって、お前。もう真夜中だぞ。
「三郎次も、聞いたでしょう?私の両親、見つからないの。海に呑み込まれちゃったの。」
俺はなにも返せずにただ、花子と同じように海を見た。夜の海は昼間とは全く違う場所のように見える。混沌とした黒の世界だ。
暫く横で座っていた花子は突然すくっと立ち上がり、黒い海へとまっすぐ近づいていった。それまでは花子の体に隠れていて見えなかったが、手には何かが握られていた。
(……花、だ、)
花の束だった。闇の中で何の花までかはわからないが、花子はぶらりと花を垂れ下げていた。
そのまま波の中へ足を進める花子を、俺は気がついたように慌てて追いかける。
ざぷん、
ふくらはぎまで海に入ると足先が縮こまるのがわかった。夜の水は攻撃的なほど冷たい。
花子、と口を開きかけたその時、花子は腕を振り上げた。
花が闇の中で舞った。
そいつらはゆっくりとした動作で花子の元を離れて黒い影になり、緩やかに落下していった。ばらばらと。
きっと音を立てることもなく海に浮かび、流されていくことだろう。暗い視界の中じゃ、想像することしかできないが。
手向け花、だろうか。
「三郎次のこと、大嫌いだから。」
昼間言われたものと同じような言葉に、今度は突っかかれなかった。
その声が今にも泣いてしまいそうに聞こえたからだ。
「嫌い、三郎次…」
最も重要だというように、花子は何度も繰り返して俺を嫌いだと言った。苛立ちはしなかった。むしろ悲しかった。花子が、ひどく悲しそうに言うから。
こいつは無理をしている。
「私は…好きな人になんてこんなところ見せられない。誰にも、心配なんてかけたくないよ。」
―じゃあお前は、誰にすがりつくっていうんだよ。
思わず急き込んで出てしまいそうになった言葉をぐっと呑み込む。
「でも、ひとりで…ひとりで母さんと父さんに会いにいったら。ふらふらって海に呑み込まれたくなっちゃうかもしれない。だから、大嫌いなあなたに見てもらってるの。三郎次なんて嫌い。…ごめん…きらい。」
―きらいじゃなくて、もっとあるだろう、花子。
「なんで、私ひとりなんだろうね三郎次。かあさんとうさんはここにいるけどさ…すごくすごく、遠いよ。」
ぐいっと
花子を抱き寄せて胸に閉じ込めた。小さな体は簡単に俺の腕の中にすっぽり収まった。
ちっちぇーな、お前。ちっちぇーくせに、お前は、
…ただ、たすけてって言えばいいのに。
花子は何も抵抗しなかった。
むしろ、俺の服に顔を押し付けるように体を預けてきた。
変わっていた。一年と少しの間に俺も花子も変わってしまっていた。
こいつは俺の助けを必要としているただの女だ。
翳っていた月が雲から少し顔を出してこちらを照らした。それでも相変わらず、遥か遠くまで果てしなく続く海は黒一色だ。
俺は見えない闇の底を睨みつけながら花子の体をさらに強く抱いた。早く、この闇が明けることを願いながら。
水葬
←TOP