知らない土地で、知らない青年と話していた。


 帰路を辿る道のりを忘れ、所謂迷子になってしまった沖田には誰かの相手をする暇など決してありはしなかったのだが、寄って来た青年を無下に躱す事が出来なかったのだ。それは青年が人の良さそうな笑みを浮かべていたから話を聞いてやろうとか思った訳ではなく、ただ単にずっと歩き通しで疲れていて、その場所からまた動く事が面倒だっただけに過ぎない。

 方向感覚を失う鬱蒼とした森を一旦逸れ、大した横幅のない川の水で喉を潤している時に青年と会った。見た感じでは青年に害意はなさそうだったが、沖田としては一人で静かに休みを取りたかった。青年が此処らの土地勘があるようなら道を尋ねる為に会話をしようとも思ったが、それは彼が開口一番に発した言葉で希望は潰えている。

「迷子になると心細くなりませんか?しかも、この辺りは治安が悪いでしょう?安易に道を尋ねる事も出来ないし、私も困っていたんです」

 出会い頭から少し時間が経った今現在まで、沖田は一言も言葉を発していない。しかし、青年は全く気分を害していないようで、己が迷子になってしまった事を淀みなく話していく。辺りに警戒しながら必死に目的地に辿り着こうとしている、そう言いながらも青年は沖田を見つけた時の反応といったら驚くほど喜々と満ち溢れていた。幼い印象を受ける大きな瞳でじっと見つめてきたかと思えば、青年は生い茂る腰丈ほどの雑草を掻きわけて沖田の元へと自ら進み出て来たのだ。緩慢な動作ながらもちゃっかりと沖田の横に腰を下ろし、落ち着いた声色で話しかけている。それは終始一貫して、どこか人に言い聞かせるような柔らかな口振りだった。

「これ、どうぞ」

 何の気なしに青年の話に耳を傾けながら透き通る水面を覗いていると、不意に青年が懐から取り出した小包を寄こした。口振りと同じく柔らかな笑みを保ったまま、差し出された物を沖田は受け取らずに見つめる。視線だけで何かを問えば、物分かりの良い青年は手元の小包を解していく。懐紙に包まれたその中にあるのは、丸くて白い饅頭だった。

「お腹空いてませんか?一つしかないんですけど、少しは足しになると思いますよ」

 青年は沖田の膝を抱えていた腕を解き、空いた掌に懐紙ごと饅頭を乗せる。

「――――いらない」

 漸く口にした言葉は拒絶の意で、きっぱりと音にして青年に伝えた。渡されたものを突き返そうとして、けれど青年の少し不本意そうな顔に手が止まる。穏やかな様相の中に混じる、傷付いたようなそれを沖田は見た事があった。あまり見ていていいものではなくて、幼子の拙さが端々に滲みながらも繕う術を必死に模索した事を思い出す。

「・・こんなに、いらない。半分こしよう」

 滑るように逸らした視線の先で、静かに揺れる水面を掠める。その時に亜麻色を見つけて、既視感に早く帰らなければと心が急く。食料を二等分する所作が身に染みつき、綺麗に別けた饅頭を受け取った青年の絶える事のない笑みが図らずも沖田の不安を煽る。

「優しいんですね」

 やや高くから降ったそれに、沖田は緩慢に顔を上げる。幼さが残る整った顔立ちに、溶け込む穏やかさは変わらない。紡がれる一つ一つの言葉にも、慈愛が満ちている。彼を構成するものはどれも温かな、触れて心地よい恩恵を受ける全てが結集しているようだ。けれど、其処に潜む陰りを見つけて、沖田は目を眇める。見返りを求めない、底抜けにやさしいひとが闇を抱えるのは、きっと自分の事ではなく、誰かの為だ。

――――――やめて。

 小さな声だった。吐息に紛れて消えてしまいそうな、弱々しい拒絶だ。聞こえなくて当然だったが、青年は水面に視線を落として儚く笑む。言葉はない。風がお互いの傍らを抜け、葉の擦れ合う音だけが鼓膜を揺らす。沖田は微かに震える手を制し、饅頭を口に運ぶ。空腹を訴える身体は、素直に栄養として取り込んでいく。

「これから、鬼に会いに行くんですよ」

 彼にしては淡々と、無機質にそう言った。沖田はちらりと青年の手付かずの饅頭を一瞥しただけで、ひたすらに口を動かして咀嚼する。耳を傾け、相手の気持ちを酌もうとしてしまうのは無意識だった。

「噂でね、屍を喰う鬼が出ると聞いて、何だか居てもたってもいられなくなったんです」

 沖田は指先についた餡子を舐め取り、清らかな水に手をさらす。腹は膨れないが、動く気力は湧いた。喉に甘く引っ掛かるような、和菓子独特の味を流すように、掌で掬った水を器用に飲み干した。

「面白い話が、その鬼が童だったと言う人もいるんですよ。もしそれが本当なら私に出来る事があればなぁと思いまして」

 ふと、沖田が青年を見遣ると、丁度よく目が合う。

「貴方くらいの子に必要最低限の生きる術を教えているんですよ」
「寺子屋の先生なの」

 通りで物腰が柔らかい訳だ。沖田は合点がいったと軽く頷くが、青年は肯定も否定もせずに首を傾げた。その仕草に釣られ、薄い灰色がかった髪が合わせて揺れる。此処に来て初めて見せる類いの笑みに、沖田は思わず息を詰めた。

「――――思想家ですよ」

 笑みを深め、和らぐ目元は青年をやさしく見せている。しかし、その奥に秘めた何かが沖田の鋭敏な感覚に触れ、気付いた時には飛び退くように青年と距離を取っていた。すると少し驚いたように、けれどどこかわかっていたかのように青年は曖昧な表情をする。沖田は己がした行動に疑問を抱くよりも早く、更に足を後方へと引いていた。

「やはり、貴方はそちら側なのですね」

 眉を下げて笑みを浮かべる様は悲しそうなのに、沖田の脳裏ではけたたましく警鐘が鳴り響く。彼のどこがあぶないのだと自問するも、相反する思いが身体の内で奔流する。痛む蟀谷を手で押さえた。青年の言葉の意味を理解しようにも、沖田にはそれをする術を知らなかった。目に見えるものから情報の欠片を拾おうとするのは幼さ故だ。天賦の才についていけない脳裏は混乱していた。だが、彷徨う視線が青年の腰に差した真剣を捉えた瞬間、明確な一つの答えを導き出す。徐に立ち上がった青年が柄に手を掛けたからではない。常人には希薄過ぎてわからない、垣間見えた害意に逸早く沖田は反応したのだ。

 込み上げる激情に急き立てられるまま、沖田は青年に背を向けて駆け出した。勢いよく地面を蹴ると砂利に足が埋もれ、転倒しそうになるが堪えて前へと進む。視界の隅で、砂に塗れた饅頭が転がっていたのを見た。青年の顔は見ていない。その余裕がなかった訳でもなかったのに、あえて視線を外したのは恐ろしかったからだ。穏やかな眼差しを向けられ、甘言に似た真意を潜ませる口振りで言葉を紡がれると、己の中の何かが変えられてしまいそうな、そういう力が彼にはあった。それがよかれとも、沖田は青年を拒絶した。胸の内に入り込まれる事を拒んだ。どうしてなのかは、わからない。

 悲しそうに笑んだ顔が瞼の裏に張り付いて、穏やかな声色が鼓膜を揺らし続けて、ただひたすらに駆ける足が痛くて、沖田は酷く息苦しくなった。





動き出した未来









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