届きそうで、届かない。

 歯痒い思いをなんどすれば気が済むのだろうと、いい加減苛立ちをも上回って泣きたくなる程であった。

 常人ならば一撃で床に沈めるであろう鋭い太刀筋を捌き、その合間に反撃に転じる運びまでは頗る順調だというのに、仕留めるに至った試しがない。剣の才に恵まれた神童と称賛され、電光石火の早業と恐れさえ抱かれる腕前を持ちながらも、一向に敵わない相手が身近にいた。
 沖田は肩で息をし、留めとなった打ち据えられた脇腹を掌で覆う。よろめくように数歩後退した様は図らずも敗者然としている気がして、すぐに平素を繕って表情を作るも、どうやら無駄だったようだ。

「惜しかったなぁ、沖田!」

 水を打ったかのような静寂の中で行われた剣劇を観戦していた仲間の内、威勢よく声を張り上げたのは原田だった。快闊な彼らしく、次にはいい試合だったと猛り立ち、誰にともなく同意を求めれば途端に道場内はざわめき始める。
 これ幸いにと、沖田は健闘を浴びる只中で相手に対し目も遣らずに頭を下げ、唯一訝しる視線を断ち切るかの如く踵を返す。

「なぁ、沖田」

 勝者が敗者を気遣うほど野暮な真似はない事ぐらい、義理堅い永倉ならば重々承知の筈だ。その上で尚、窺うような声色で沖田を呼び止めようとしていた。 
 竹刀といえど、当たり所が悪ければ命をも脅かす危険性が十二分にある試合だ。故に気迫に伴い、余分な感情が伝わってしまったのだろう。必死に押し殺してきた、果ては気付きたくなくて目を逸らし続けてきた。――恐れから、逃げ惑う情けない姿が透けて見えたに違いない。
 しかしそれでも沖田には、己の弱さを認める強さはまだなかった。認めて、一度でも立ち止まってしまえば、あの人に置いて行かれる気がして怖かったのだ。

 永倉の呼び止める声には聞こえない振りをして、沖田は飽くまで平静を保とうと気丈に道場を出た。中庭に面した縁側は、氷の上を歩いているように冷たい。先の試合で脱いだ足袋を片手に裸足のまま、ふと寒空に相応しい仄暗さに誘われて目を遣る。今にも雪が降りだしそうな空模様だ。今朝送り出してくれた姉は、身を切るような寒さはその前兆だと言って、鶯色の番傘を持たせてくれていた。昼餉を食べて帰宅すると言って家を出たが、沖田はもう既に帰りたい気持ちで一杯だった。惨めな負け方をしたと、思わず己を嗤う。

「風邪引くぞ」

 無意識に立ち止まり、ぼうっと空を見上げていると、独特の笑みを含む声が掛かった。沖田は顔を下げると同時に、足の向きを変えて歩み寄る。嫌なところを見られたと眩暈がする思いであったが、それに対して反応の一つもしなければ詮索してこない事を知っていたので、やり過ごすのは実に容易かった。沖田は取り成すように、子どもは風の子って言うでしょう、と戯けてみせた。

「もう行くんですか」

 近藤が背負う風呂敷を見て、予定より随分と早い出立に、沖田は内心都合が良いと安堵した。帰宅する口実が出来たからだ。途中まで送りますと申し出れば、近藤は何を不思議に思う素振りもなくすんなりと応じる。

「雪降りそうだからよ、その前に向こうに着きてぇんだ」

 これ以上寒くなるのは御免だと、大柄な体形に似合わず滅法寒がりな近藤は身を震わせた。

「懐炉、二つあるんで使ってください」
「おー、助かるわ」

 居間で身支度を整えた沖田は、姉が用意してくれた予備の懐炉を近藤に渡す。己のは外套の利き手側のポケットに忍ばせていた。

 試衛館を出て早々、近藤は掌に収まる程の長方形の入れ物から、細い筒を一本ゆすり取る。慣れた手付きでライターのフリントを回し、火を付けるそれは異国より持ち込まれた煙草という代物だと教わった。百害あって一利なしだと笑って断言した近藤は、個性の強い仲間内でも物好きだと揶揄されても、何食わぬ顔で吸い続けている。
 沖田も興味本位で一度嗜んでみようと試みたものの、決して美味いとは言い難い苦みが舌を抉り、一吸いで咳き込だっきりだ。よくそんな下手物を好んで口にするものだと、沖田はつい冷めた目で一瞥し、けれど近藤は辞めたのではなかったのかと疑問に思う。最近、近藤が煙草を吹かす姿を全く見ていない。だから辞めたのだろうと、皆が思っていたところだった。

「やめてねぇよ。副流煙がどうのってうるせぇ奴がいるからウチでは吸わないだけだ」

 問えば、近藤は悪びれた様子なくそう言って退け、ここぞとばかりに美味そうに煙を吸い込む。沖田はくゆる紫煙すら有害なのだと健康志向な仲間にさんざ言い聞かされたが、正直なところ嫌いではなかった。この嫌に濃密な匂いは、沖田にとって安定剤とも否めない。近藤がゆったりと吹かすそれに、芳しくない事に馴染んでしまっているのだ。

「総」

 紫煙と共に名を呼ばれ、はい、と沖田は応える。歩道の両隣に広がる田畑には綺麗に霜が降っており、足を踏み入れて音を鳴らしたい衝動に駆られた。

「お前に世話を頼みてぇんだが」
「世話?犬でも拾ったんですか」

 さくり、霜を踏み抜く音が心地よい。近藤の話に半分耳を傾けながら、もう半分の意識は遊びに興じる少女らしく繊細な氷の上を歩く。近藤が口元だけで笑う気配がして振り返れば、沖田の亜麻色の頭に大きな掌が乗った。

「あぁ、狂犬だ。牙の突き立てる場所を失った、可哀想な生き物だな」

 可哀想と言いながら同情した響きはまるでなく、むしろ愉快そうに近藤は笑みを深める。煙草を始めた同時期に愛用しているサングラスの奥、柔らかく目が細くなるのを沖田は見た。

「きっとお前に懐く」

 離れ際に亜麻色の髪をくしゃりと撫でられ、沖田は僅かに柳眉を顰めてその骨張った手を軽く払う。以前まではこうして子ども扱いされることに対し、こそばゆい思いはあれど鬱陶しいなどと敬遠こそなかった。己の胸の内に巣食う恐れが垣間見えた頃から、下手な意地を張り始めたのだと沖田は自覚しているが、今更この本末転倒な幼稚な抵抗をやめられない。
 ―――犬の世話?それは江戸に留まらせる安易な理由?
 息をするのと同じぐらいの自然さで口をついて出ようとするのは、明け透けな劣等感の塊。深読みの過ぎた、発想の突飛さが生み出す醜悪な感情だった。 

「狂犬に懐かれても嬉しくないです」

 苦労して探した言葉はありきたりのいらえで 沖田は蛸が出来て硬くなった掌をポケットの中で握り締める。いっそ見限ってくれたらと、負の感情が湧くのを止められない。今近藤に拒絶されれば、沖田は引き下がるのも吝かではないと思っている。

「俺が嬉しいんだよ」

 喉の奥で笑う近藤は心底可笑しくて仕方ないといった様子で、不機嫌な顔をする沖田の亜麻色を、今度は先ほどより幾分強い力で撫でる。無造作な手つきは、なんとなく、励まされた気がした。




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