嵐の前の静けさと云うに相応しいそれは、突如として破られる。緊急事態を知らせる笛の音が鳴ったかと思えば、次いで辺りは殺伐とした争いの場へと変貌していく。迅速な対応で迎撃態勢が整い、賊の侵入を阻もうとする多勢の役人が奮闘していた。突破せんと、まるで突風の如く勢いで攻め入るのは五人の猛者。規格外の暴走ともいえるその強さは容易には止められず、傍目から見ても幕府擁する部隊の旗色が悪かった。あっという間に中核まで足を踏み入れた賊の勢いの良さに、朧は漸く止めた足を動かす。戦況を見下ろしていた上階には朧以外に人はいない。階下にいけば、悠然と構える定々が鎮座している。狙われている彼の傍には暗殺部隊として最強と謳われる同士が多勢控えているとはいえ、万一の事があっては精巧に噛み合った歯車に狂いが生じてしまう。今、定々を失うのは得策ではなかった。

 不意に、風が凪ぐ。まるで一瞬時が止まったかのように色褪せたその合間、朧は欄干に手を掛け、その身を空に浮かせていた。不思議な感覚を怪訝に思う間もなく、一つ下の階へと着地した両の足は微かな不安定に揺らぐ。視線を落とせば、広がるのは赤。色付く視界を占めるのは赤一色。ぴちゃりと、粘着質な音が耳朶を障る。鼻をつく強い血臭は、惨状を裏付けていた。朧の視線の先、其処には亜麻色の後ろ姿がある。己の同士である奈落が血の海に伏せる只中で、鋼の刃をぶら下げている。そして何の前触れもなく、亜麻色を揺らした女が首を回す。女は、口を開かなかった。冷え冷えとした双眸で朧を見据え、そっと目を眇める。それは時間にして数秒の事、女は容易く視線を逸らすと刀身に付着した血を振り払い、事もなげに納刀した。

「―――待て」

 朧の存在など、意にも介さないと言わんばかりだった。だが、女の踵を返そうとする足は躊躇なく止まる。伏せられた目は向けられなくとも、意識だけは此方に向いていた。

「お前、真選組の者だろう」
「・・だから?」
「これに、何の意味がある」

 段々と、騒がしさが増していく。城内をも震わす衝撃が、平衡感覚を僅かに傾かせる。天井の木屑が落ちては血に染まり、火薬の匂いも辺りに漂い始めていた。黒に身を包み、腰に刀を差した女は、漸くその蘇芳色の双眸を朧に、確と、違えずに定める。

「意味なんてない。あたしに戦闘の意思はなかった。邪魔してきたのはそっち」
「邪魔?」
「あの古狸に危害を加えようとか、あたしは考えてないから」

 血溜まりにブーツの底が沈み、身体の向きを変えた女は酷く華奢だった。その身体の何処に、これほどの惨状を作り上げる事の出来る力が備わっているのか疑わしい。だが昔に、朧の身近にもいたのだ。性別という力の欠点を排し、鬼神の如き刀を振り捌く者が確かに存在し得た。

「行かないの?もう直ぐ其処まで来てるよ」

 首を傾げた女の表情に、感情の片鱗は窺えない。纏う雰囲気に殺気はなく、朧が手に持つ錫杖を揺らそうとも、微動だにせず突っ立っている。

「あたしを放っても害はない。気をつけたほうがいいのは乗り込んできた賊のほう」
「・・・お前の仲間か」

 何気ない問いに、端正な容貌は変化を見せた。微かに眉を寄せ、嘲るように歪められた笑みはよく作り込まれている。その際、女は自身の頬の違和感に気付いたのか、指先でこびり付いた血を拭う。

「ただの腐れ縁、何も知らない。―――強いって事以外は」

 乾いた血が、落ちていく。やけに白い肌をした女の頬は、擦った為にほんのり赤く色付いていた。流れるように視線を滑らし、黒地の隊服を翻した亜麻色の後ろ姿が遠ざかる。咄嗟に朧は懐に忍ばせた毒針を指先で掴み、気配なく目標に投げつけた。音もなく飛来する毒針は、女の経穴へと一直線に向かう。

「―――気をつけてね」

 振り向きざまに抜刀した刃に阻まれた毒針が、薄らと粉塵が漂う宙を舞った。亜麻色を靡かせ、何食わぬ顔で笑んだ女は朧を見据える。形の良い唇が、開いては言葉を成す。

「油断してると、呆気なく殺られるよ」

 お返しには些か乱雑に放られた刀が宙を回転し、朧の傍へ落下する。切っ先が畳に突き刺さり、刃毀れした刃には血がこびりついていた。鞘すらも捨て、武器一つなく去って行った女の足取りに迷いはなかった。その亜麻色が向かう先に、仲間などいない。背後で上がった爆音に、朧は緩慢に振り返る。遠くのほうで、黒が白と混ざり合うのを見た。其処に、亜麻色はいない。この場に占める赤だけが、寄り添い、こびりついている。





毒を孕む










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