彼が一番隊に入隊した時の事を、不思議と鮮明に覚えている。あれは夏の暑さが随分と和らいだ、秋の初めの頃だった。一番隊に与えられた部屋の上座に立ち、緊張に強張った顔をして僅かに上擦った声で自己紹介するのは、誰もが通る道のようなものである。そして一言二言、人によって付け足す言葉は様々で、最後には恭しく頭が下げられる。決まった一連の流れを見て、沖田はやおら立ち上がった。解散の意を込め、上司自らよろしくと新入りに握手を求め、歓迎会といった祝い事は部下に任せてその場を去るつもりだった。
 その時、沖田は初めて彼と相対した。会った事は度々あるものの、こうしてきちんと正面から見据えた事は互いになかった。よろしくお願いしますという声が、まだ震えを残している。上背のある彼に見下ろされる形で、沖田は直向きな眼差しを受け止めていた。そして、己の映る双眸に反映された感情の渦に、えも言われぬ違和感を覚えた。新入りの隊士の大抵が不安や闘志、未知の世界に興奮を隠せないでいる等と相場は決まっているのだが、彼はどれにも当て嵌まっていなかった。綯い交ぜとなった感情は、機微に聡い沖田でも容易くは紐解けない。ただわかるのは、確かに訝しむ気持ちを持ったという事だ。けれども毛色の違う者だと認識しただけで、それ以上の穿鑿はしなかった。裏切りの片鱗は感じられなかったからだ。
 のちに裏切られるなど、沖田はその時露程にも思わなかったのである。

「−−・・は・・ッ・・!」

 不規則に、呼吸が弾む。咳をし過ぎて痛めた喉は焼け付くようで、空気の出入りすら辛かった。それでも意識を手離さず、休息を求める身体を奮い立たせているのは、戦場に身を置いているからに他ならない。
 眩暈が激しく、現状の把握が儘ならない状況下で沖田は必死に抗った。重い瞼をぐっと持ち上げ、力の抜け切った身体をどうにか動かそうと試みる。少しでも気を抜けば混濁する意識は夢現で、視界も定まらない。無我夢中で何処に落ち着いているのかもわからぬ手を動かしてみれば、親しみのある感触が伝わった。集中して確かめてみれば、どうやら己はそれを確と握りしめている。刀だと確信した。しかもそれは滅多に使わない懐剣で、今日に限って体調不良を心配した原田に持たされたものだとぼんやり思い出す。刹那、目に映る景色は色を持ち、忽ち五感が蘇る。前触れなく向上する心身は、火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか。頭の奥でかちりと音が鳴った気がしたのも束の間、熱に浮かされる身体は枷を取っ払って軽やかに動く。
 地べたに仰向けであろうと構わずに、沖田は肘を引いて上半身を捻った。懐剣に手を添えたまま、己の身体に乗るそれに膝を打ち込み、地面に転がして体勢を入れ替える。無意識の動作は流れるようで無駄がなく、己に害する者を討ち取ろうとする気に満ち溢れていた。しかし、その肌を刺すような殺気は不意に霧散した。状況が好転したと同時に我に返った沖田は、微かに震える唇で見下ろす男の名を呼ぶ。

「・・ッ・・おれ・・・は・・」

 呆然と、沖田は握る懐剣から手を離す。いつの間にか、手はべっとりと血で汚れている。それは生温く、鮮やかな色を失っていない。溢れる血は、懐剣の刺さる腹部から流れ出ていく。負傷したのは彼、絶体絶命であった筈の沖田に傷はない。意識を伴わず、己の身体は反射的に刀を捌いたのである。理解した途端、場違いにも笑みが込み上げた。幼少の頃から無心に高めてきた力に救われたというのに、自嘲した薄笑いが沖田の口元を歪める。奥沢の顔を見れず、ただ目を伏せた。彼は死を前にして、何かを告げようとしている。聞かなければ、そう思った。奥沢は裏切り者であると確と理解しているのに、沖田は酷く胸を痛めて彼の最期を見届けようとしていたのだ。

「―――総、」

 咎めるには、あまりに弱い声だった。剣戟の止んだ戦場で、沖田は真選組の隊士として、一個隊の隊長としての姿勢を求められている。言われなくともわかる。幾度となく求められ、今まで躊躇なく応えてきたのだから。数え切れない程の人を率先して、害となれば斬り捨ててきた。

 局長として皆の命を預かる近藤が、今一度沖田に決起を促す。今度は、強く響く声だった。すっと目を上げれば、精悍な表情で沖田の言動を見守っている。不意に横から刀を差し出され、見遣れば強張った顔つきの藤堂が瞳を揺らしていた。偽悪的な態度など優しい彼には似合わなくて、けれど沖田の修羅を覚醒させるには充分だった。
 刀を受け取り、やおら立ち上がる。その動作の合間、沖田の影に覆われた奥沢の唇が、突然滑らかに言葉を紡ぐ。声に出さず、刻まれたそれを胸に留めたのは沖田だけ。甘く唇を噛み、それでも一瞬で全ての感情を殺した健気立てには誰も気付かなかった。

 沖田は刀を逆手に持ち、奥沢の身体を跨いで立つ。仰向けに倒れる奥沢の目元は湿っており、はらはらと涙を零す。濡れた双眸までもが、まだ何かを伝えようとしている気がした。沖田は腕を上げ、刀を振り下ろす。もう迷いはなかった。冷静に狙いを定め、心の臓を的確に貫く。
 ごぼりと、奥沢の口から血の塊が零れる。双眸に生気が抜ける最中、沖田は刀を抜いて距離を取った。逸らされた視線の先では、既に絶命した吉田が転がっている。力強い一太刀を浴びた様を一瞥し、その遣い手である近藤を窺う。

「近藤さん、怪我は?」
「俺は大した怪我じゃない。むしろお前らのほうが心配さ」

 近藤は努めて平静を装い、立っているのもやっとであろう藤堂にまずは水を向けた。

「病院に行ったほうがいいな。今、車を用意してくるから待っててくれ」

 三人が止める間もなく、勇ましい近藤は駆けて行ってしまった。脱兎の勢いは流石だと称えずにはいられない。すっかりと疲労を重ねた三人は、歩くだけでも面倒で一苦労であった。疲労の上に体調が優れない沖田は、既に意識さえ飛びそうだったが、堪えてその場に踏み止まる。

「―――ごめん」

 謝る事に意味はないと知りながら、亜麻色の少女はそう呟いた。視線は誰に向けられる訳でもなく地面に落ちて、頼りない己の足取りをぼんやりと見つめる。
 寄り添うような両隣りの仲間は、薄く笑んだだけで何も言わなかった。





咽び泣く心臓







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