夕暮れ時になると、茹だるような暑さは落ちつく。涼しいとまではいかないが、だらだらと汗を流すほどでもない。
 上着を腕に掛けて玄関を上がった沖田は、仕方なしに副長室へと足を向けた。最後に顔を合わせたのは二週間と少し前か。否、よくよく思い返してみれば、熱を出す前に朝の定例会議を寝坊して出ていないので、丸々三週間会っていない事になる。しかも、報告書の類いも疾うに提出期限を過ぎている筈だ。会うのが面倒だとか言ってる場合ではない事が流石の沖田でもわかる。ところどころ仕事にだらしないとは自覚しているものの、これでは些かやり過ぎていると焦りすら覚えてしまう。億劫ではあるが、素直に鬼が待ち構えているであろう部屋に足を運ぶ。

「・・・何やってんの」

 副長室に面する縁側に立ち止まった沖田は、一畳の畳を抱えた原田を見て柳眉を顰めた。沖田に気付くと、汗に塗れた顔は嬉々とした色に満ち溢れる。駆け寄って来る際にも畳を抱えているので、幅を取った所為で襖を突き破ってしまった。

「ああああ!!!!やっちまったァアア!!!!」

 一転して絶望とした顔つきで叫ぶ原田に、沖田は思わず驚いて肩を揺らす。がさつな原田がドジを踏むなど日常茶飯事だというのに、まるでこの世の終わりと言わんばかりの様子である。確かに原田が今し方突き破った襖は副長室の物で、怒られる事を考えたら多少の怯えはあってもいいのだろうが、にしても大袈裟ではないかと思う。
 沖田は止めてしまった足を動かし、頭を抱える原田の隣に立って部屋を見る。其処にはただ無残な有様が広がっていた。

「これはちょっと、悪戯にしては度が過ぎてるんじゃない?いや、ここまでやる事に私は尊敬するけどね。でも流石にあんたの命が本気で危ないんじゃないかと、」
「ばっか!俺はこんな命知らずな悪戯しねーよ!!てか、お前と違って悪戯自体滅多にしないし!ただ毎度言動が行き過ぎちまって怒られるだけで・・ってそうじゃなくて!!」

 一人でノリツッコミする原田を放って、沖田は感心したかのように部屋と言っていいのかわからない惨状を見渡す。なんと畳が一枚残らず剥がされており、酷く殺風景な有様になってしまっているのだ。押し入れや戸棚の戸も全て取っ払われており、辛うじて残っていた襖も今し方に原田がお釈迦にした。まさか鬼が常駐する副長室がこんな有様になっていようとは、沖田は思いもしなかった。

「・・お前、高熱で記憶吹っ飛んでる?」

 藪から棒に訊ねられて、沖田は意味がわからないと瞬く。熱が出る前の記憶は確かにあると、思い返しながら言おうとするが、ふと副長室に関する心当たりに口を引き結ぶ。ちらりともう一度傍らの光景を目に留めて、庭先へと視線を投げる。縁側へと立て掛けられた幾つもの襖を眼下に、すっかりと乾いた土が風に浮くのを眺めた。

「うん、なんか記憶があやふやかも」
「嘘つけ、その顔は覚えてる顔だろ」

 僅かばかり表情を変えた沖田を、穴が開くほどに見つめていた原田は見逃さなかった。愚鈍な彼にしてはよく見ていたと、沖田は目を合わせて薄く笑む。暗に肯定すれば、原田はそれを認めただけでまた作業に戻った。当然の如く、沖田も手伝おうと襖に手を伸ばすが、横合いから鋭く止められた。

「お前はいい!俺がやるから!」
「なんで?私の所為でもあるのに」
「だってお前、病み上がりじゃねぇか」
「病み上がり期間含めて入院してたからもう平気だよ」

 原田も見舞いに来ていたのでそんな事は知っている筈だが、何故か不自然な程に沖田の手伝いを拒む。強引に退けられた沖田は怪訝そうな顔をしてその理由を訊ねるも、原田はあからさまにはぐらかして一瞥もくれない。

「おいハゲ」
「ハゲ言うな。こりゃ剃ってんだ」
「ちゃんと理由言ってくれなきゃこれからハゲって呼ぶ」

 子供染みた上に何とも甘い脅迫だったが、単純な原田相手ならば充分に効果的だといえる。畳を嵌め込む原田は不自然に固まると、ぎこちなく立ち上がっては沖田を見遣った。一方は逃すまいとした強い眼差しで、一方は追い詰められた気弱な眼差しで、互いを見据えた。観念しようかしまいか、揺れる原田に、諭すように声を掛ける。決まり悪そうに口籠る原田は、とうとう長く息を吐いて観念した。

「だってよぉ、お前が熱出たのって俺の所為でもあるだろ」

 予想だにしなかった理由に、沖田は言葉もなく驚いた。空気を食むように開かれた口からは、ぽろりと疑問符が零れ落ちる。申し訳なさそうに悄然とする原田を見て、沖田は一度瞬いてから、何を言っているのと首を傾げる。

「あんたの所為とか、私はこれっぽちも思ってないんだけど」
「いや、水掛けちまったじゃねぇか」
「私だってあんたに掛けたじゃん。てかずぶ濡れにさせたよね?」

 沖田が熱を出す前日、続く猛暑でもその日は格別だった。暑がりの原田は速攻で音を上げ、ただでさえ集中出来ない雑務を放り投げていた。そこで少しでも涼をとろうと中庭へと赴き、桶一杯の水を提げて打ち水したのだ。しかし、灼熱の太陽はすぐさま濡れた地を乾かし、あっという間に僅かながら下げた温度が戻っていく。むわりと熱気が足元から這い上がって、原田はいっそ憎たらしげに炎天下を仰いだ。すると、いつの間にか傍らの縁側に立った沖田に、今日も暑いねと声を掛けられた。振り向けば、寝起きだと一目でわかる沖田が生理的な涙に潤む目元を擦り、汗を流す原田をちらりと見る。朝の定例会議にいなかったのはやはり寝坊かと納得する原田の横を、徐に草履を引っかけた沖田が通り過ぎた。まだ結ばれていない亜麻色が揺れる背中を目で追うと、沖田は水場で腰を下ろし、立ち上がって戻って来ると手には装着されていたホースを持っていた。すぐにホースの口からは水が流れ落ち、乾いた地面を瞬く間に湿らせていく。こっちのほうが早いよと言う沖田に、原田は嬉々として同意した。
 そしてみるみる内に辺りが水に浸り、快適な空間が広がっていく最中、何がきっかけだったのか、互いに水掛け合ってふざけ始めてしまった。原田は一応気を遣って桶と柄杓を手に、沖田は一切の遠慮なくホースを手に、白熱とした水の掛け合いが行われた。原田はともかく、沖田がこうした戯れに興じるのは非常に稀で、故に夢中となって辺りの部屋を水浸しにするまで至ってしまった。中でも特に酷い有り様となった部屋が、渦中の副長室である。遊び呆けて我に返った時には、二人は顔を見合わせてそそくさと仕事に赴いた。いずれ容易くに犯人は割れるが、緊急の要請が入ったのをいい事に脱兎の如く逃げ出した。その際、二人は当然濡れた状態で、原田は濡れ鼠、沖田は身軽に避けたものの所々を湿らせていた。しかし、面倒臭がりの質は勝手に乾くとそのままにしてしまう。
 そして後日、沖田は熱を出して床に臥せった。

「お互い様なんだから、原田が罪悪感を感じる必要はないよ」

 すっかりと健康体に戻った沖田は、平素の無表情で淡々とそう言って退ける。
定位置にと最後の畳を嵌め込み、やおら腰を上げた沖田は次に押し入れの戸を取り付けに掛かった。原田も隣りの部屋に一旦置いていた家具を運び、ついでに換え時の近くなった蛍光灯も取り換える。
 沖田に倣い、原田は黙々と副長室の復元に勤しんだ。然程時間も掛からずに終わり、室内を見渡した原田が満足げに振り返れば、沖田は額に浮かぶ汗を拭って一息ついた。

「これで始末書は免除かな」

 沖田はワイシャツの胸元をはためかせて風送りながら、処理すべき紙っぺらが一つ減ったと勝手に解釈する。原田は首に掛けたタオルで流れるような汗を拭い、頻りに風を起こす沖田に目を遣った。既に皺の寄ったシャツが動くと、微かに線香の香りが漂う。

「お前、墓参りにでも行ったのか?」

 何の気なしに訊けば、沖田は一瞬だけ手元を疎かにした。生ぬるい風が開け広げた室内を抜け、汗と抹香の香りを攫っていく。沖田は目を伏せ、小さく頷いた。

「うん、午後にね」
「言ってくれりゃ俺も一緒に行ったのに」
「なんでよ、連れ立って行かずともいいものでしょ」

 夕日が沈み、辺りが薄暗い。副長室を出て、大きな欠伸をする沖田は自室へと足を向ける。その隣りを歩く原田は背伸びをしながら、うつらうつらとする亜麻色の頭を見下ろす。

「そういや、副長に用があって此処に来たんじゃねぇの?臨時の副長室なら食堂近くの空き部屋だぜ」
「あぁ、ちょっと仮眠してから行くわ」
「仮眠じゃなくマジ寝するだろ。今行って来いよ」

 ひらりと肩越しに振られた沖田の手を掴み、原田は半ば引き摺るようにして進路を変えた。すかさず沖田は文句を垂れてささやかな抵抗に身体を引くが、馬鹿力の原田には何ら障害とならないどころか気付いてすらいない。早くも抵抗を諦めて力を抜けば、引き摺る力の強さのあまり、沖田は前のめりとなって眼前の背中に顔を打ち付けた。

「・・ッ・・!」

 痛みに声を上げる程ではないものの、意外と固い背中ではあった。沖田は依然と意に介した様子のない原田に手を引かれながら、熱を持ち始めた鼻面を空いた手で押さえる。

「なぁ、沖田」

 歩幅からして違いがあるというのに原田はやけに速足で、沖田は度々足が縺れそうになっていた。ゆっくり歩いてほしいと頼もうとした矢先、原田から声を掛けられて沖田は出鼻を挫かれる。その声掛けに応じる前に頼んでもよかったが、やけに真剣な声色をしたそれに思わず口を噤む。気を取り直して先を促せば、歩幅も速度もそのままで、原田は口を開いた。

「快気祝いに飲みに行こうぜ。俺、給料日前で金ないからお前の奢りだけど」
「・・・ちょっとゆっくり歩いてくれない?」

 この男に気を遣った己が莫迦であったと、沖田は数秒後に激しく後悔した。全く話に関係ない事ではあったが、すぐに速度を落とした原田は顔だけ振り返って、今一度誘ってくる。沖田は鬱陶しげに一瞥し、無理に決まってると断言した。

「休んでた分の雑務処理がたんまり残ってるの知ってるでしょ。行ける訳ないじゃん」
「そりゃアそうだけどよ。でも、んなつれねぇ事言うなって」
「てか、そもそもなんで祝ってもらう側の私が奢らなきゃいけないの。普通に考えて逆でしょ。金がないなら誘わないでよね」
「いや、勿論給料が入ったらちゃんと埋め合わせするし、その時は今日より豪勢なとこに連れてくって!」

 ガサツな笑い声を上げる原田は実に能天気であり、沖田の現状をちっとも理解していない。年若の少女はたまらず溜め息を吐き、己より数年長く生きている男に呆れた眼差しを向ける。

「私が言える立場じゃないけど、あんたも大概仕事舐めてるよね」
「ガハハハ!だって俺たちゃ始末書書かされる数は飛び抜けた間柄じゃねぇか!」
「・・・どんな間柄よ」

 手を離したかと思えば鷲掴むように肩を抱かれ、沖田はされるがままに原田に振り回される。お互い汗をかいているにも関わらずぴったりとくっ付くので、暑苦しい事この上なかったが、沖田は黙ってそれを甘受した。平素ならば即座に避けるなり文句を言うなりしていたが、柄にもなく遠回しな気を遣う旧友にはそれも躊躇してしまう。
 
「わかった。飲みに行こうか」

 海田屋に踏み入る直前、沖田は永倉から原田がお前の身を案じていると聞かされた。その時はあまり感想を抱かずに聞き流したが、それはまさか原田がここまで深く憂えていたとは思わなかったからだ。もしや奥沢を粛清するまでの過程も知っているのだろうかと窺うものの、原田は飲める事に大喜びして笑っている。沖田はさりげなく視線を逸らし、臨時に構えた副長室に目を留めた。

「七時に如月亭で落ち合おう」

 原田の腕からするりと抜け出し、一人で歩きながら沖田は約束を取り付けた。途端に、背後では驚いた声に次いで歓声が上がる。如月亭とは江戸でも有数の料亭だ。勿論庶民が気軽に行けるようなところではなく、幕僚などのお偉い方の接待で使われるようなところである。公僕の真選組でも手が出し辛い料亭だが、沖田はさらりとその名を口にして原田を誘った。当然、一度も行った事のない原田は小躍りして喜ぶ。しかし、捻くれた少女がそう上手い話を素直に差し出す筈がない。沖田の思った通り、原田は目先ばかりを見て嬉々としていた。

「そんな高級なとこ行った事ねぇよ!なんかさ!正装したほうがいいのかね?いっそ隊服のほうがいいかもしれねぇな!うわ!めちゃめちゃ楽しみだわ!!」
「私も楽しみ。でも今日の如月亭よりかは、あんたに連れてってもらえるほうがもっと楽しみかなぁ」

 振り返り様ににっこりと笑みを浮かべた沖田のそれに、原田は応えようとしてふと違和感を持った。武州の頃からの付き合いの為、沖田の悪戯めいた仕草は嫌という程に原田は見ている。何かを企んだかのように、嬉しそうに細まる蘇芳色が不吉を呼ぶ。嬉しさのあまり己がつい先程に口にした事を失念し、今になって青ざめた顔で思い出した時には、図ったように沖田は副長室へと消えている。反射的に原田が伸ばした手は少女を捕える事なく、空しくも空を切った。

「ちょ、待ってッ!!無理!絶対無理!!如月亭より豪勢なとこなんか行ったら俺の一月分の給料が瞬時に消し飛ぶから!!俺が貯金してねぇの知ってるだろ?!ねぇ、沖田さんんんんん!!!!」

 原田の悲痛な叫びが、夕方の屯所に響き渡る。けれど、襖一枚隔てた其処で笑みを噛み殺す沖田はあえて放っておき、短気な鬼が出陣するのをそれは楽しそうに見送った。

「うるせぇんだよハゲ!!殺されてーか!!!」
「ふくちょおおお!!もし金足りなかったら貸してくれよなァ!!」

 間が悪い事に、ニコチンが切れている土方の沸点は恐ろしく低い。八つ当たりも甚だしく斬りかかられた原田は、そんな怒んなくてもいいじゃねぇかと叫んで、白刃を命懸けで避けている。そんな危険な遣り取りを、少し離れたところでは血の気が失せた山崎が見守っていた。手に提げたビニール袋には、カートンで買い込んだ煙草がぎっしりと詰められている。後はこれを渡すだけだが、山崎はその際に斬り殺されるのではないかと危惧してしまう。もう少しで泡を噴き出しそうな山崎に堪え切れず、沖田は肩を揺らして笑った。
 
「土方さん、もう勘弁してあげて下さいよ。あたし七時から用事あるんでこっち早く終わらせてほしいし」
「用事だァ?お前にそんな暇があると思ってんのか」
「ない暇作ってでも行きたい用事なんですよ。ほんと楽しみで仕方なくって」

 綺麗に口角を上げて笑う沖田を見て、土方はまた何か企んでるなと確信した。現に切っ先を向けた原田の顔色が、忽ち悪くなっていく。

「ねぇ、待ち合わせには遅れたくないからさ、大人しく待っててよ」 

 原田の絶望に満ち溢れた表情にも構わず、沖田は可愛らしく小首を傾げた。





咲くならば散るも潔し








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