かろやかに黒板に書かれていく文字をただひたすら追いかけて書き写す。外は青空が広がって小さな雲はゆっくりと風に流されて、遊ぶように飛んでいる二羽の鳥はとても気持ちがよさそうなのに、どうして私は下人が老婆を追い剥ぎするだけの靄っぽい話を読まされているんだろう。私もいつか下人か老婆の立場に立つことがあるのかなと物騒なことを思う。嫌だ。
黒板に書かれていることも意味がわからないままどんどん進んでいく。ここは特に大事だと赤でひかれた波線を写すためにペンを出したとき、すべった指がペンをはじき飛ばした。ペンは隣の席のひとの足下まで飛んでいって、いま拾うのもめんどくさいな、次は何色を出そうかな、とペンケースをさぐっていると後ろの席のひとが私の隣の足下にいって、ペンを拾う。しゃがんだまま差し出されたペンを受けとって、手をわずらわせてごめんなさい拾うの面倒だっただけなんです生まれてきてすみません、と思っていると後ろの席の彼、福永くんは目も合わせないまま自分の席へ戻っていった。お礼言えてないな、そういえば話したことすらないな、と思っていると時間が過ぎて、どんどん話しかけづらくなっていく。まじめに受けてる生徒は少数とはいえ今は授業中だからわざわざ振り返って声をかけるのも気がひける。でもありがとうの一言くらい言ってもいいんじゃないか、むしろ言うべきだ。でもあれからもう何分も経っていて、いま言うのは少しタイミングがおかしいんじゃないか。教科書はこういうときどうすればいいのか教えてくれないんでしょうか、と無駄にページをめくっていっても当然ヒントもなにも無い。使えないなぁと教科書を閉じたそのとき授業終了の鐘が鳴って、今だ、と後ろを向く。一瞬合った目はすぐにそらされて、つられて同じほうを向くと福永くんは立ち上がって、細くて高くにある身体は跳ぶように離れていってしまった。私は何か接し方を間違えたのでしょうか。今の一瞬は接したと言えるのでしょうか。初めてまともに見た福永くんの顔を思い浮かべて近所の野良猫を思い出す。歩いていたと思えば急に立ち止まり、こっちを見て、まばたきをすると瞬間たったと走っていくのだ。さっきの一瞬はまさしくそれだった。それならペンを拾ってくれたのは、動くものに目をとられる猫の習性みたいなものなのかなと失礼千万なことを思う。次は失敗するものかと鐘を待ちながら、友達とくだらない話で短い休憩時間を過ごしていく。
笑いすぎて、身体があたたまって、腹筋が怠くなってきたころ鐘が鳴る。じゃあねと私の席から離れていった友達と入れ違うように福永くんがもどってきて、今度こそ、と息を深く吸った。


「ふ…福永くん、ありがとう!」
「……」
「ペンひろってくれて、さっき、ありがとう!」
「うん」


こっちを見てくれていた気がするけど言えた達成感ですぐに前を向いて、これから休憩時間が始まるかのように身体を机にあずけた。ありがとうって言えた、うんって言われた、と繰り返し思い返していると自分の顔が熱くなっていることに気付く。おまけに口元もゆるみきって、何故だか涙腺まで刺激されている。福永くんの、うん、という声が耳の奥に閉じこもる。もっと声を聞いてみたいと思う。目を合わせたいと思う。福永くんはどんなものが好きでどんなものを嫌うんだろう。いつもどんな話を誰とするんだろう。とても好意に似た興味が爆発的にわきあがった。福永くんのことが、気になる。人生にひとつ楽しみが増えたことに浮かれて、遠くで聞こえる英語をBGMみたいに聞き流して、そのまま授業の時間を終えていった。

たまに休憩時間になると福永くんの席に現れる隣のクラスの山本くんとは去年同じクラスで、話したことはないけど顔はよく知っている。どんなことなら福永くんと会話をできるのか、彼に聞いてみたいと思った。勇気がいることだけど、山本くんはちゃんと人を見てしっかりと話す男だと男にもっぱらの評判で、男から人望がある、男のなかの男だ。きっと蔑ろにはしないでくれるかもしれない。でも迷惑かな、と前方から小唄をうたいながら歩いてくる山本くんをじっと見ていると目が合って、ヤケになったみたいに声が出て呼び止めた。私らしくない行動力に私がいちばん驚いているはずが山本くんのほうが挙動不審になっている。私は山本くんを知っていたけど山本くんは私を知らなかったのかもしれない。やってしまった、と思うけど声をかけてしまったことにはもう後には引けない。


「山本くん、ききたいことがあるんだけど」
「は、はひっ、えっ?おれっ、え?ふぁっ」
「福永くんのことで」
「……」
「福永くんて何が好きかな?あのちょっと色々あって…福永くんってどう話せばいいのかな」
「…福永は、なかなか話しません」
「そっかぁ…」
「でも福永は、口数は少ないけど、いい奴です。あとあたりめよく食ってます」
「ありがとう、…ていうか山本くんどこか痛いの?」
「心が」
「えっ」
「いえ何でもありません」


どうして敬語なのだろうか。どうして遠くを見ているのだろうか。でも優しくこたえてくれた山本くんはやはりいい人だった。
しかしあたりめを種にどうやって話をしよう。わざわざ買って持ってくるのも不自然すぎていやらしい。直接好きなものを聞いてみようかと思うけど突拍子もなさすぎる。うっかりプリントの空きに書いた、福永、という文字をあわてて消す。プリントを回すときに見た骨ばった指が綺麗だとか、くるんとした毛先がかわいいだとか、招平という名前のひびきがいいだとか、気づいたら頭のなかはいちいち福永くんで埋め尽くされていた。ペンを拾ってくれたときの丸まった背中、差し出してくれた長い腕、うんと返事をしてくれた確かな声。
興味と好意の線が無くなっていく。気持ちがふくれてできあがっていく感覚がわかる。もうどうしようもないし、どうにかしようという気にもならない。もう手段を選ばない、あのとき現文で習った下人の気分だ。

本日最後の授業の鐘が鳴る。短いホームルームが終わって教室は一気にざわつく。そんななかでも福永くんは彼の周りだけ空白があるみたいに物静かでマイペースで、うまく隙間をぬって素早く教室から出ていく。友達とすれ違うときに今日は一緒に帰れないことをつげて、早足になる自分のストーカー臭さに不味さを感じながら、福永くんの背中をとらえて呼びとめた。


「福永くん、これ、貰ってくれないかな」
「……」
「福永くんみたいだなって思ったの」


鞄のなかにいれていた昨日買ったジュースのおまけのキーホルダーを差し出した。黒っぽいまだらっぽい猫のぎょろりとした目が福永くんとよく似ている。福永くんはこんなものいらないかもしれない。けどなんでもいい、一言でいい、いま福永くんと話したい。それだけのことでこんなことをしていることが恥ずかしい。遠くで私たちを見た山本くんがバレー部のプリン頭の子を引きずって行っているのが見えた。一緒に行動する予定だったのかもしれない。迷惑をかけているかもしれない。もうやめたい。


「……」
「あの、ごめんねいきなり」
「……」
「じゃあ、部活だよね、がんばってね!」


大きな手がたどたどしく小さなシルバーの丸っこい金具をはずして、エナメルバッグに付ける。自業自得で苦しくなっていた胸が更に苦しくなる。


「福永くん…?それいいの?」
「……」
「あげといてなんだけど、つけてくれると思ってなくて、うれしい」
「かわいい」


ドン、と心臓をたたきつけられたみたいに血が巡る。キーホルダーをひとなでした手がバイバイと私にふられても私の両手は溶け落ちそうな頬をおおうしかできなくて、うなずくだけになってしまった。かわいいと言われたのはキーホルダーで、わかっていても、もうやめようと思った矢先の思わぬ衝撃に、嬉しいきもちが堪えられないくらい溢れる。
明日はなんて話しかけよう。いまは一言でもいい。でももっと話せるときがきてほしい。顔が見たい。声が聞きたい。福永くんのことをもっと知りたい。私のことも少しでも興味をもってもらいたい。
そしていつか、福永くんのことが大好きだと言わせてほしい。
そんなことを思いながら、コンビニに寄って、猫のおまけがついたジュースとおいしそうなあたりめを買って帰った。


20130911~グルグル

 

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