数学が憎い。解きなさい、求めよ、という圧のある問いかけに、どうして答えねばいけないのかと何度反発したかわからない。しかし黒板上に繰り広げられているわけのわからない数式は、覚えておかないと進級をさせてもらえない。
恨みがましく前を見ていると、前の席の坊主頭の野球部が、横向きに座って黒板に後頭部を向ける。目がばっちりと合って、おとなしく授業を受けられないこの男の話し相手として、ターゲットにされたことを察した。

「みょうじと双子のアツムの方って付き合ったん?」

宮と付き合ったことを、言いふらすことはしてないけど隠してもなくて、クラス内ではだいぶ広まっていた。けれど休み時間になるとすぐに席をあけているこの野球部には、まだ知られていなかったらしい。
わがままを言って宮に譲ってもらった紫のジャージの袖をぎゅっとつまむ。こんなに好きなのに、誰かにこの気持ちがバレてしまうことがまだ恥ずかしい。

「授業中やで、前向きや」
「それアツムのジャージなんやろ?みょうじもオトコの服着て見せつけたりするんやなぁ」
「見せつけてへんわ!メンズかわいいし、着てたら落ち着くねん」
「なんかやらしーなぁ、自分らもうヤッ…痛ァー!」

嫌な話をされているなと困っていると、弾丸のようなものが野球部の丸い頭に飛んできた。真上に高く跳ね上がったものを両手でキャッチしてみると、消しゴムが手のひらにおさまっていて、飛んできた方向を見てみると、二列となりの席にいる治が仁王立ちしていた。

「寝ぼけてスパイク打ってもうたわ」
「おはよー治。眠いなぁ」
「みょうじ悪い、消しゴム回して。あとそいつとは口きくな」
「何それ、宮みたい」
「嬉しそうにすな」

双子が双子で嬉しい。笑顔を隠せないまま、キャッチした治の消しゴムを隣の席の子に回してもらう。宮ならトスで返せるのかもしれないと試したくなったけど、憎き数学とはいえ今は授業中だった。

「バリびびった!オサムは複雑なんやなー。兄弟のオンナやもんな」
「もう反応せえへんで。前向きや」
「ジャージも兄弟もみょうじのこと守ってるみたいやな。愛やな、チャラそうやのに」
「は?宮は普通にチャラくないで」
「なんやそれ。アツムって意外と重いん?」
「意外とめっちゃ重いよな。筋肉って重いらしいやん」
「そっち!?もう上に乗られたってことぉ!?」
「雑誌に書いてた。なんで盛り上がってるん…?」
「ど、どんな体勢でシたん!?」
「なにが?」
「みょうじさん、ちょっといい?」

角名くんの綺麗で静かな声がよく通った。授業中に角名くんの私語を聞くのは珍しいというより初めてで、私以外の人も角名くんの方向を向く。窓側の一番後ろのその席から、このやかましい教室はどう見えているんだろう。

「どしたん角名くん、数学はほんまごめんこっちが教えてほしい」
「……いい天気だね」
「なに!?なんか悩んでるん!?おなかすいてるん!?」
「いや…おやつある?治が小腹すいたって」
「アララ。治、歩き回ったらあかんやん。チョコあげよー」

指をさされた方を向くと、いつのまに来たのか治がすぐ真横に立っていて、前の席の男は頭をおさえて前を向いていた。
「こいつうるさいんで授業に集中できないんでシメました」と、らしくないことを言った治はお咎めなしだったけど、鞄からチョコを出した私は怒られてしまって、やっぱり数学は天敵だと思った。

休み時間になった瞬間に空席ができる前の席に、入れ替わるように宮が腰を下ろす。
自分のものから私のものになったジャージがまだ見慣れないのか、おかしなものを見るように余った袖をつまみ上げて、笑顔をこぼしている。

「なあなあ角名くん大丈夫?なんか悩んでない?名古屋帰るんかな?」
「角名が?なんで」
「いい天気だねって話しかけられた。授業中にいきなり。変じゃない?」
「ほー、授業中にいきなり?なまえちゃん何してたん?」
「前の席のアホと宮の話してた」
「妖怪どしたん話聞こかやん!!」
「何それ」

聞くと、付き合いたての不安定な時期、私が宮に愛想をつかせた隙を狙って「どしたん話聞こか?」と寄ってきては、くたびれた私の心を鷲掴みにしていく妖怪がいると角名くんに言われたらしい。そうして私は宮にない包容力にほだされて、宮をフることになるらしい。
くだらなすぎて渇いた笑いが出てしまう。

「角名くんにからかわれてるんちゃう?また怒らせること言うたんやろ」
「言うてへん!ほんまにおるって言うてたで、妖怪どしたん話聞こか」
「そういうのちゃうって。宮の筋肉重いなって話しただけやで。宮のファンなんちゃう?」
「何がどーなってそーなるん!?なまえちゃんの言うことアテならんねん、天然入ってるやん」
「天然ちゃうわ。まじめに生きてるだけや」
「そーゆーとこやっ!」
「それより角名くん大丈夫かなー」
「アンタや。アンタだけが心配や俺は」
「スーパーに名古屋の味噌のチューブあるやん?あれでなんか作ってこよかな?故郷の味で元気でるかな?」
「おい誰の彼女やねん。怒るで」
「てか角名くん卒業したら地元帰るんかな?なんか東京とか行ってそうな気もする……嫌や!寂しい!」
「角名で頭いっぱいかコラ」
「そういや治は寝ぼけて消しゴム打ってたで。ほんまバレー好きな兄弟やなぁ」
「どんな状況やねん。妖怪もおるし治安どーなっとんねんこのクラス」

宮は実在しない妖怪のことで機嫌がよろしくないけど、こっちはそんな宮のことが今日も好きだなと笑いたくなる。妖怪どしたん話聞こかがもしも実在したら、誰にも言えない話を聞かせたい。宮が好きだという話を毎日聞いて飲み込んでほしい。いっそ、どうか現れて、泣きたくなるくらいのこの気持ちを聞いてほしい。
休み時間が終わるギリギリになると銀島くんが宮を迎えにやって来て、移動教室に行くらしい二人に手を振って見送った。

ひとつまた授業が終わって、移動教室から宮が帰ってくる前にお手洗いを済ませようと教室を出る。宮の元カノのクラスに近い手洗い場で、また誰かと一悶着起きるんじゃないかと心配性になっている友達の目をぬすんで廊下に出ること自体がちょっと楽しい。それに、臨戦態勢の私が何かを起こしたときに、人を巻き込みたくない。
脱走という言葉に合わせるように、脚が速いつもりになって、軽やかにお手洗いに滑りこむ。汚したりしないように、宮にもらったジャージは置いてきたほうが良かったかもしれないと思いながら、丈のあっていないこの服に身を包まれていることが当たり前になっていた。
見つかっても構わないけど、友達と宮に見つかる前にさっさと戻ろうとお手洗いを飛び出したところ、近くの階段にいた赤いスリッパをはいた女の先輩集団と目が合った。中心にいる人に、目を見ながら「見せつけんなや」と言われて、野球部に言われたことを思い出す。初めて見た先輩のような気がするけど、この人は、宮のことを好きな人なのかもしれない。ただあまりにも私と接点がなくて、今の言葉が私に向けられたことなのか確証もない。

「みょうじ!」

廊下の向こうから三組のサッカー部に名前を呼ばれる。去年までは同じクラスで話すこともあったけど、いま名前を呼ばれたのは、一触即発の雰囲気から抜け出せるように助け舟を出してくれたんだろう。
三年女子が私に思うところがあったのだとしたら、話をつけても良かった。知らない人の悪意よりも、わざわざ名前を呼んでくれたサッカー部の親切心の方がむげにはできない。お互いに歩み寄るように近づいて、三年女子には背中を向けた。

「どしたん?…ちゃうな、助けてくれたんやんな」
「先輩にじろじろ見られとったやん。みょうじが喧嘩売られてんかなと思って」
「え、やさしい。大丈夫やで」
「なんもされてない?」
「うん、されてない。ありがとー!助かった!」
「みょうじ、宮侑と付き合ったん?」

それじゃあ、と教室に戻ろうとしていた足を止める。報告する理由も隠す理由もない場合、性格のよさそうなこのサッカー部には報告しておいてもいいのかもしれない。

「付き合った。あんまり人に言わんといてな」
「隠したいんや?」
「目立つし、宮のこと好きな人おったら傷つくやろ。私が何か言われるとかは大丈夫なんやけど」
「付き合うの大変ちゃう?」
「あはは。大変やろな、これからも」
「どしたん、話聞こか?」
「えっ!?」
「え…?」

誰かが今の言葉を聞いてくれていないか、周りを見て人をさがした。私しか聞けていないことがもったいない。気むずかしいところがある宮は不安がるかもしれないから、角名くんに聞かせたい。角名くんが言い出した伝説みたいな存在が実在したことに感動すらしている。もう一回言ってくれないかな、と黙って目を見ていると、聞かせたくない方の人が現れた。

「なまえちゃん!何やってんねん、ひとりでトイレ行くなゆーたやろ!なんかあったらどーすんねん!てか何見つめ合っとんねん!!」
「なんかあったら迷惑かけるかもやん。もう個室飛び出したりせんから大丈夫やで。あ、この人は助けてくれた人やから怒らんといてな」
「やっぱなんかあったんやんけ!何あったん、全部吐いて」
「なんもないって」
「そーゆー自己完結しとるとこが冷たいねん!ええわ、そこの人に聞くから。俺の彼女に何があった?」
「三年の人と目合っただけやってば。もうおらんし勘違いかもしれへんし、関係ないこの人巻き込んだらあかんやろ。いつも心配してくれてありがとう」
「関係ない男に助けさすな」

人前で頭をなでられるのは嫌がりそうで、二の腕をぽんぽんと叩く。むっとしてる宮の顔はまだもとの男前のような、そうでもないかわいらしいような、あの顔に戻らない。
落ち着けるようにとりあえず一組に帰ろうとしたところ、宮よりも低い位置にある頭が私を覗きこむ。

「みょうじ、ずっと彼氏いらんって言うてたやん。あんなこともあるし、付き合うの大変ならやめといたら?」
「アァ!?」

反対側から飛びかかりそうな宮を抑えて、サッカー部と目を合わせる。
どしたん話聞こかという人か妖怪か何かが現れたら、ぜひ聞いてほしい話があった。

「それがな、この人じゃないとあかんねん」

抑えていた腕をひかれて、抱きしめたがったり、「なんて?もう一回」と、こと細かに聞きたがる宮を引きずるように教室に帰る。
宮じゃないと。侑じゃないと。本人に言おうとすると言葉にならなくて、涙が出そうになる。
こんなことになるのなら、宮や友達の目の届かないところに脱走はしないようにしようと誓った。
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