補習の長距離走のために、放課後だというのに体操服に着替えている。走ることは嫌いではなくて、少し高めの位置で髪をまとめると、これからひとっ走りするぞと気合いが入った。
髪をアップにしたせいで外気のあたる首周りをおさえる。肩をすくめながらグラウンドに出ようとしたところ、更衣室近くのウエイトトレーニングルームから、宮のかけ声のようなものと、銀島くんの雄叫びのようなものが聞こえた。
楽しそうなことをしているなと覗いてみると、銀島くんは練習前のほんのお遊びにダンベルを上げているみたいで、見物をしに近くまで寄ってみた。

「宮は応援なん?」
「なまえちゃん!?体育のときのなまえちゃんやん!何やってん?」
「補習のなまえちゃんやでー。水泳出てないから冬走らなあかんねん。三年なられへんねん」
「泳がれへんの?沈んでそうやもんなぁ」
「泳げるけど学校の水泳きらいやねん。事務所NGやねん」
「事務所ってどこ?俺?たしかにプールのあととか男に見せたないけど。夏なったら海かプールいこなぁ二人で」

こうして鍛えている宮と違って、こっちは水着姿を見られたいわけがなくて、返答に困る。
いってきまぁすとグラウンドに移動しようとすると、宮に体操服の裾をひかれた。もう片方の手は、自分の深い赤色のジャージをつかんでいる。

「外走るん?俺のジャージ使う?」
「借りていいん?」
「着てくれるん!?」
「去年走ってたら見られたり応援されたりめんどかったねん。それ被って隠れたい」
「何それむっちゃ並走したい。じろじろ見よったら事務所の宮侑がアイサツするって言うといて」

完全にアカン事務所やな、と銀島くんの声がした。派手な柄シャツを着て、変なかたちのサングラスをして、背中を丸めてオウオウ言いながら歩く脳内の宮の姿はわりとサマになってはいる。

「脱いだら宮…侑が寒いんちゃうん?」
「どーせ脱ぐし。もし寒くなったら暑がりの奴の着る」
「じゃあ借りよかな。洗濯明日間に合うかな?何時に持ってけばいい?」
「洗わんでええけど。女の子は気になるかぁ」
「気になるよそら」
「ほかのん使うから明日でも朝やなくてもええよ。あ?待ってこれ朝着てきたわ…汗はかいてないと思うんやけど」
「匂い?せんよ。脱いで」
「なんなんむっちゃ積極的やん!?脱がさんといて!?」

近くに鼻を寄せると本当に無臭なのに、しつこく匂いチェックをしてる宮の肩からジャージを引きずると「セクハラや!チカンアカン!」と騒いでいる。
追い剥ぎの心地でまだ宮の体温が残るそこに袖を通すと、指先が出るか出ないかというところまで包み込まれた。

「それ名前書いてるけどサムと共用やから!変なシミとかついてたら全部あいつやからっ!」
「おっきいー!ぬくいー!」
「ちょお待って……こっち来て」
「何?」
「サム!角名!」
「ほんまに何!?」

銀島くんがダンベルを上げている反対側で、椅子のようなマシンに座っている治と角名くんのところに連れていかれる。
宮に連れられた私の姿を見て、二人はいつものローテンションで「ほお」とだけ声を出した。宮が一人で盛り上がって、私は巻き込まれてスベっているような感覚になる。

「スマホ置いてきてもーた!角名うまく撮って俺に送って、ほんでお前のスマホからは消せ」
「送ってくださいだろ」
「送ってください!」

素直かよ、と小馬鹿にするように笑いながら角名くんはスマホを構える。宮は私を主体にするように後ろに回って、肩に手を置いてくる。
いったいどんな顔をすればいいのか困ったけど、宮を振り返ってみると、ゴキゲンそうに笑っていたから、私もつられて笑っておいた。

「女子マネほしー」
「角名くんそういうこと言うんや…!」
「言いますよ」
「こいつはこーゆー男やで。気ィつけやなまえちゃん」
「角名くんが勧誘したら部員の倍は来ると思うで!」
「そういうのは双子の方が得意でしょ。みょうじさん、おもしろいから前しめてみて、上まで」
「これおもしろいん?角名くんのツボ謎や」

意外とよく笑うことに最近気がつきつつあるけど、笑いに関心の薄そうな角名くんにおもしろいと言われると血が騒ぐ。
鎖骨あたりまでファスナーを上げるとサイズの大きさがよくわかった。パタパタと袖を振って身体のラインに馴染ませるように整えると、宮にファスナーを一番上まで上げられて、口元まで隠れてしまう。一連の動作まで撮られているみたいで、角名くんの手元からシャッターの音が鳴っている。

「角名ナイスー!フゥー!」
「なんのノリ?二人って実は仲いいよな」
「ね、上目遣いもらえる?髪おろしたとこも撮らない?侑に売るだけだから」
「角名くん?たまにノリわからんよ?」
「おい人の彼女で金取んなや!貸せアホ!」

宮が角名くんのスマホを取り上げに行った隙に、どこかの筋肉を鍛えるなんらかのマシンに座っている治の足元で、ちいさく隠れる。
被写体にされて謎の記念撮影をされたあと、私に対してはわりと物静かな治の足元とマシンの陰は居心地がいい。

「あの二人今日もノリわからんわ。やっぱり治が落ち着くなぁ」
「お前は誰の前でなんちゅー格好しとんねん。袖まくっとき」
「嫌や寒いー。体育の補習やねん。外走るねん」
「ツムには刺激強すぎるやろ、それ」
「治?何を言うてるん?」
「ポニーテールして耳とうなじさらしてツムのジャージ着て、おっきいー、好きー、とか言うたんやろ?あいつまた夜寝れんやん。ほんま恨むで」
「好きなんか言うてないけど!?治に恨まれんの嫌や!」
「ほんでみょうじの服とかと一緒に洗濯して返すんやろ?それはもうエロい事件やで」
「えらい事件なん!?」
「ちゃうちゃうドエロい事件やねん」
「もうええて!!!やめろて!そこボケ同士で会話すんな!」

治の言ったことは宮の大声でよく聞こえなかった。
撮ってもらった写真の写り具合を確認したり、自分のスマホに送らせて消させ終わった宮が後ろに立つ。横幅のあまったジャージを軽くひっぱられて、治の足元から引き離されて、立たされる。

「ちゃんと寝てないん?どえらい事件なん?あかんやん」
「毎日いつも通り寝てますー」
「うそつけお前寝る前ハアハア言うとるやん」
「言うてへんわ!!!はぁ今日もかわいかった…の溜め息やボケ!!」
「それは私も聞きたくないな!?治つらいな!?なんかごめんな!?」
「つらいで。こいつみょうじのことになると乙女やねん」
「乙女ちゃうわ!!」

ジャージの襟元で隠れるように笑ってしまったけど、これは宮のジャージだった。口元が当たったりなんかして、朝使っていた宮が同じようにファスナーを上げていたとしたら、間接的に口元が触れ合ってしまう。それにリップがついてしまわないかも気になって、またファスナーをおろしていく。

「赤と青って目立たんかな?」
「目立たん目立たん」

あらためて自分の格好を見ると、上はバレー部の濃い赤色で、下は学年カラーの体操服の濃い青色。ちょっと個性的なおしゃれさんになっている気がする。
それから周りを見ると、一人だけ黒の長袖姿の宮が心もとなく見えた。

「乙女、寒くない?」
「乙女ちゃう!」
「寒くないん?」
「ハグしてあっためてくれる?」
「乙女やん!返すわ」
「うそやんうそうそ!でも付き合ってるんやからえーやんか!」
「みんなの前いやや。あ、耳あっためるといいんやっけ?」
「ア!?みんなの前やで!?」
「耳挟んでるだけやろ。首やっけ?あっためるといいの」
「あー、そこ気持ちえー。ほんま手ェあっついなぁ」
「髪の毛ないから寒そうやな」
「あるわ!」

腕を伸ばして両耳に手のひらを当てたり、首の横や、うなじに手を回して熱を与える。自分のうなじにも手のひらを当ててみると、たしかに血流が良くなってじんわりとあたたまるような感覚がした。
皮膚のかたさや厚み、首の太さの違いに気を持っていかれそうになっていると「イチャつくなや」という治の声がして、「そろそろ行くぞ」と銀島くんの声がした。



ジャージはなんとか乾いたけど、返し方に困った。
宮の大きめのジャージをちょうどよく入れられそうなものが、ファッションブランドの紙袋しか思い当たらなかった。一番シンプルなものを選んでも、白地に黒でブランド名が書かれたそれは、見る人が見れば女物だとすぐにわかる。思いがけず、モテる彼氏に彼女持ちアピールをさせることになってしまう。世の中にはそういう風習があると友達の話で聞いたことがあった。
なるべくそういうことはしたくなくて、放課後までわたさないようにしようと思っていると、今日も宮は私の席までやってくる。

「なまえちゃん、ジャージある?」
「間に合ったけどショッパーこれしかなかったー。女物やからあんま見られん方がいいかも」
「なんそれ、どう考えても見せて回りたいやろ」
「そういう性格やんなあ…」
「なあなあ、今着てみてや。放課後まで着とってもええよ」
「洗った意味ないやん!」
「見たいー」
「なんかいややな…」
「じゃあ絶対見たくない」
「見せたろ」

ひねくれているところを上手く扱われて、机に置いたショッパーからジャージを取り出す。
生乾き臭がしないか、抱きしめるように鼻を当ててみると、私の嗅覚では洗剤の香りしかわからなかった。
見たくないという宮によく見せるために立ち上がって、コートのように重みのあるジャージを羽織って袖を通すと、他人のものとは思えないくらい馴染んで落ち着く。

「やっぱ似合うなあ、女の子が着たらまったくちゃうな、その赤色」
「これ着てたら普通に欲しくなるんやけど」
「朝着てきた普通のジャージあげよか?紫やけど似合いそうやで。俺の持ちモン似合うと思う」
「なんの自信?って言いたいけどちょっとわかる。ほんまにもらっていいん?」
「えーよ、帰り部室取りに来て」
「お礼どーしよ?クリスマスプレゼント奮発しよか」
「お礼なんかええって写真撮るだけで。ちゅーかクリスマスどないする?」
「え?」
「は?」

また写真を撮るつもりなのかという意味でも驚いたけど、クリスマスに会うつもりだったのかと驚くと、宮の方も驚いた顔をする。
スマホを持つ手を抑えても抵抗がなくて、宮は私が驚いている理由の方に関心を寄せている。

「クリスマスも練習あるやろ?」
「あるけど夕方から会えるで?予定あるとか言う?」
「イブから友達と鍋パして泊まる予定が…」
「友達って誰?俺とは!?」
「地元の子。予定決まったとき付き合ってなかったし…」
「ちょっとも会えへんの?初めてのクリスマスやで?」
「クリスマスってそんな重要?バレー部で集まらんの?」
「俺このあと彼女とデートやねんって自慢したいやんか」
「それって自慢なん?プレゼントは用意するけど…」

会いたがってくれているなら、なんとかしてみよう。まず彼氏がいる子に相談をしてみて、それから途中合流にしていいか、みんなに相談してみよう。会う予定の地元の子たちも、みんな彼氏をつくれと言ってくるタイプの子たちだから、いいと言うに決まっている。
ただ宮と付き合ったことは解散のときに報告しようと思っていたのに、前もって知られてしまうと、宮がどんな人なのか、レンアイ的な意味で好きになることができたのか、夜通し話さないといけないかもしれないことの方が困る。
考え込んでいるあいだ、宮の顔がどんどん不満そうになっていることに気がつかなかった。

「なまえちゃん冷たいわ」

冷たいと言われることは初めてじゃなかった。
宮に言われることもあれば、家族や友達に言われたこともある。そうか私は冷たいのか、と思うだけなところが冷たいんだろうなと自覚もあった。
でも、今、どうしてか、深く傷ついてしまった。

「え、あ?ごめ、」

泣くつもりなんてないのに、泣きたくないのに、生あたたかいものが目からあふれて流れた。いつもの軽口のつもりかもしれないのに、重く受け止めてしまった。好きなのに、傷つけて、冷たいと言わせてしまったことが、悲しかった。
謝らせたくなくて、泣いた方が有利になってしまうことが嫌で、その場から勢いよく離れる。逃げようにも宮の身体能力の方が圧倒的で、すぐに手首を掴まれてしまう。
走るように教室から出ると、近くの階段を勢いよく登っていった。目立つ行動と目をひくジャージで、すれ違う人の視線が流れていくのを感じる。
宮は私の手首を掴んだままで、一年の階よりも先に進んで、屋上の扉の前までたどり着いてしまった。
屋上が開放されてるなんて聞いたことがない。一応ドアノブを回しているけど、やっぱり施錠されているようで、開きそうにない。
傷んだロッカーや、ほこりをかぶった机が置き去りにされているその場で立ち尽くす。薄暗くて清潔感はないけど、人のいる教室よりは落ち着いて、一年の廊下から見えないようにしゃがみこんだ。宮も真似をするようにしゃがみこんで、二人で壁にもたれる。
涙はすぐに止まっていたけど、また泣いてしまいそうになった。腰と下腹部のだるさから、そういう日だったことに気がついた。

「宮、侑、どしたん。あ、ジャージ返してほしいん?」
「どしたんとちゃうやろ。着といて。涙ふいてええよ」
「泣いてない。泣いたらそっちが悪いみたいやん。いやや」
「でも俺のせーやろ?」
「違う。あのな、おなか痛い日やねん。おなか痛い日ってみんな理由なくても泣くねん。止めたくても止められへんねん」
「そうなん?ウミガメやん」
「そうやねん、ウミガメやから、教室戻って」
「…どうしたらええ?おなかさする?」
「大丈夫やから教室戻ってって……こういうとこが冷たいん?」

話してるあいだに休憩の終わりを告げるチャイムが鳴りだす。おなかが痛い日を察してくれたのか、未知に対して妙にしおらしくなる宮にまた泣きたくなる。まだ涙が出てきそうで、動けない私のとなりから、宮も動こうとしない。

「俺おったらアカン?」
「あかんくない…迷惑かけたくないだけ。……おってほしい」

二人でチャイムを聞き終わってしまって、授業に向かう先生に見つからないよう冷たい床の上でひっそりと座っている。サボらせたくないけど、ここに居ようとしてくれる宮を追い払えない。
ぶかぶかのジャージから左腕を引き抜いて、宮に掴まれている右腕の方も引き抜こうとすると「なんで脱ぐん」と力を強められる。宮の指を一本ずつほどいても意味がなくて、ものを咥えた犬みたいに離してくれそうにない。
また風邪をひいたりしないように、脱いで返したいだけなのに、泣いたせいで拒絶と受け取られているのかもしれない。

「一緒に使お」

意味を考えている宮の手のちからが弱まって、右腕の方も引き抜けた。脱いだものを広げると、薄暗さの中に、黒みがかった深い赤色が広がる。それをブランケットのように、一緒にかけようとしてみると、二人で使わせてもらうには少し小さかった。
隙間のないくらいに寄り添って、黙って三角座りをして、ジャージの中に一緒にしまえるだけ膝と手をしまう。ささやくような小声でも届く距離で、心臓の音まで聞かれてしまいそう。

「冷たいって思うときあるけど、こういう冷たくないとこもわかってるからな」
「それもわかってるけど、泣いてまう日やったねん。…すきやのに冷たいんやって自分にびっくりしたねん」
「なまえちゃんいっつもあっためてくれるもんな。手ェもぬくいやん。火傷しそうなくらい熱あるやん」
「手ェあったかいと心が冷たいんやて」
「ほんま手のかかるお子ちゃまやな」
「宮に言われたくないこと第一位や」
「そういうとこも好きなんやって。あと侑な」
「あつむ」

触れ合うようになってから、手が熱いとよく言われる。友達とふざけて手を繋いだときも、よく驚かれたりして、そのたびに、心当たりのある迷信を思い出しては少し気になってしまっていた。

「冷たいとこあるなまえちゃんが俺にはくっつくの許してくれたり、くっついてきてくれるのがええんやんか」
「でも離れるときあるやん」
「それはな、…いろいろあんねん」
「何?冷める?」
「ちゃう」
「……こっちからベタベタ触らん方がいい?」

喉から何かが込み上がって、声が上擦りそうになった。
まだ甘えたいとまでは思わないけど、近付きたいときくらいある。抱きしめられると抱きしめ返したくなるのに、驚いたように離れられてしまう。侑はもう追われ飽きて、追いかけたいだけの人なのかもしれないと疑うときがある。

「怒らんって約束して」
「わからん、内容による」
「…………胸あたってヒェッてなる」
「……あほやなぁ」
「ヒェッ」
「我慢して」
「ちゃうねん、恐れ多いねん」

腕に絡みつくように掴まると、胸元に重たい腕のあたる感触がする。侑の腕には私の胸の感触があるのかもしれないけど、知ったことかと強めに抱き込む。
侑の握り拳を両手でつつんで、肩に頭をあずけると、はぁ、と小さなため息が聞こえた。

「そんで、クリスマスの予定って男おらんよな?」
「おるわけないやろ。ほかにも彼氏おる子おるし。男おったら逃げるよ」
「天才やん」
「ありがと。相談して侑と会う時間ちゃんとつくるからな。会いたがってくれて嬉しかった」

来年や再来年があるのかわからないけど、この先のクリスマスのたびに、初めてのクリスマスは会えなかったなんて思わせたくない。

「お友達と気まずくならん?無理してへん?」
「びっくりされておもしろがられると思う。彼氏おるってまだ言うてないから」
「はよ言うてや」
「だってずっと彼氏いらん絶対いらんって言うてきたのにさぁ」
「こんなイケメン捕まえてもーて恥ずかしいん?」

その通り。見た目がいい部類に入って、わりとモテる人をまんまと好きになったことが照れ臭い。
ひとつのことに心血を注いで、厳しい環境で研ぎ澄ますことすら楽しそうで、きっといつまでもバレーを愛するこの人が好きなのだと、本人以外に言うことも恥ずかしい。

「イケメンはウミガメとか言わんと思う」
「それは今ええねん!笑ってほしかったねん。むっちゃ聞き流したやん、おもくそスベったやん」
「今日はウミガメやから泣いてもーたけど、冷たいと思ったら絶対教えてな。なおしたいから」
「俺な、そら会えるなら会いたいけど、クリスマスに会いたいと思ってもらわれへんのがイヤやったねん」
「クリスマスの何が特別かわからんし。会いたいのはクリスマスとか関係ない。いつでも会いたい」

肩に乗せていた頭を動かして、侑の顔を覗き見る。慣れない近さに顔があるけど、薄暗さのおかげで私の好きな落ち着きがある。絡まっている腕をもう一度ぎゅっと抱きしめると、握り込んで自分の膝の上に置いている侑の手がぴくりと動いた。

「ずっと会いたい。侑のジャージ早くほしい。いっぱい着る」
「…わかった。俺むちゃくちゃ好かれとる?」
「まだ伝わってなかったん」
「女友達ならいらんって脅して付き合ったよーなとこあるやん」
「自覚あったんや?あれはおそろしかったな」
「こっちこそおそろしかったわ。こんだけ惚れさせといてキープする気かいって。この俺を」
「関係変わるのこわかっただけ」

肩に頭突きをして、また頭をあずけた。侑の大事な右手が、大事そうに私の髪にふれる。侑の手も私ほどではないけどあたたかい。

「あとな、なまえちゃんとデートできるの自慢やのに、何が自慢なん?みたいに言われてイヤやった」
「……わかった、気をつける」
「あんまわかってへんやろ」

顔を合わせてないのにどうしてわかるのか、図星をつかれながら、親指の関節で頬をぐりぐりとこねられた。

「うう…何が自慢かわからん」
「好きな子とデートできたらうれしいやん」
「嬉しいと自慢なん?覚えとく」
「なまえちゃんて自慢しなそうやもんなー。こんなええ男ひっかけといて」
「自慢したいと思ったことないなあ…パンケーキきれいに焼けたら人に見せたいけど、そういうこと?」
「何それ、見せて。俺にも焼いて。食べさせて」
「いいよ。いつでも家おいで」
「……」

話が脱線して、理解を諦められたなと察する。終わった途端に答えがひらめくように、侑のいう自慢は、友達ののろけ話のように、幸せのおすそ分けなのかもしれないと思えた。誰にも話さないで、自分だけのものにしておきたい冷たい私には思いもよらないことだ。

「なあ、イヤなら話さんでええけど、なんであんなに彼氏いらんかったん?元カレがひどかったん?」
「そういうわけちゃうけど」
「元カレとかおらんって言うてや!イヤやっ!」
「覚悟ないなら探るな!」

侑につられて声の大きさに気を使うのを忘れて、どこかの教室のドアが開く音がした。人が来るんじゃないかと心臓が早くなっていく。侑とひとつになるみたいに小さくなって、存在感を消すようにやりすごす。
頭に不自然に口元を寄せられた気がしたけど、まさかこんな緊迫した状況でイチャつくようなことをされるはずがない。何もしてないことを確認するために目を合わせようとすると、今度はおでこにやわらかいものが当たった。
何やっとんねん、と手で顔を押しのける。誰かが来ても困るけど、誰も来る気配がないことに今更まずいものを感じた。

「泣かしてもーたし、ひどいことされたんやったら気ィつけたいやん。聞いとかなアカンやん。けどイヤや」
「自分も元カノおるやろ…何百人おるんか知らんけど」
「そんなおらんわっ」
「こっちは一人だけやで?期間も短いし」
「イヤや。イヤ」

強く引き寄せるように抱きしめられて、骨を折られそう。曲げた膝にかけているジャージが床にずり落ちそうになっても持ち主はお構いなしで、私の方が動かしづらい腕で必死に追う。重力でずれていくスカートを伸ばしていると、侑の手で乱雑にジャージをかけられた。

「そいつもモテとったやろ」
「なんで知ってるん!?」
「全部わかった。なまえちゃんが人目気にするのそいつの影響やん。相手どんな奴?俺の方が何倍かっこええ?」
「侑の足元にも及ばんで。私、その芸風好きやで」
「芸風ちゃうねんこれ」
「相手、中学んとき同じクラスで」
「地元?再会するやん引っ越してや野狐来て」
「無理。ノリとか合って、なんや周りにも盛り上げられて告白されて」
「俺とかぶってるやん」
「かぶってないな。普通に好きやったから付き合ったんやけど、そういう好きじゃなかったねん、友達として好きやったねん」
「もう聞きたない」

ごつんと頭どうしをぶつけられて、しゃべりづらくするためにアゴを捕まれる。
今よりも幼くて、短い期間とはいえ、好意の分類もつかずに付き合った。だから侑が誰とどんな付き合いしていようが何も言う気はないと思っているけど、私も何も聞きたくないから言わないでおく。

「なんで友達として好きって気付いたん」
「聞くんかい。遊び誘われて、なんで二人だけで遊ぶんやろ?って違和感あって」
「別れてまえそんなチャラい男」
「あまつさえ手ェ繋ごうとしてきよって」
「アマツサエって使う人初めて見たわ。殴ったれそんなやらしい男」
「キショって思って謝って帰って終わった。それだけの話」
「よぉやった!…ちゃうねん!アマツサエ殴るよりひどない?お子ちゃまのなまえちゃんらしいけど」
「指のあいだに指入ってくるの気持ち悪かってんもん」
「これぇ?」

やると思った。指のあいだに侑の指が割って入ってくる。皮膚の薄いところ、他人も自分も触れないところに押し入られる。指を折り曲げられて骨に触るように握り込まれて、手の自由を奪われる。
とても気分のいいものじゃない、侑じゃなければ。
こたえるように握り返すと、満足そうに、嬉しそうにフフンと鼻を鳴らしている。

「俺はイヤちゃうん?」
「当たり前やろ。何回も繋いでるやん」
「やめて、惚れてまう。もう惚れてたわ」
「今日もうるさいな」
「冷たぁ」

わざとらしいくらい傷ついたふりをして、あえて言ってくる。好きだと思うことを止められなくて、揺れるように笑ってしまう。
繋がれた手を持ち上げて、頬に寄せる。こんなこともしたくない。侑じゃなければ。

「でもな、その人ともう関わってないけど、変に付き合わんかったら楽しいままやったと思うねん。なんで人って付き合うんやろな」
「欲しいから?」
「人のことを?」
「相手を自分のもんにはできんから、相手の中に自分だけのポジションが欲しい、っちゅーこと?」
「その気持ちわかりたくなかったー」
「フッフ。俺もなまえちゃんにわからされたんやで」
「べつに過去とか聞きたくないからな?」
「もうちょい俺に興味を持ってくれ」
「どうせろくでもないやろー」
「応えようとしてきただけですー。同じやん。失敗って誰にでもあるよな」
「失敗呼ばわりはあかんと思う、知らんけど」

失敗というより、すこし、間違えたと思う。言ったところで「同じことや」とこの人は言うだろう。

「まだ昔の男と仲良くしたいって思うん?」
「違うなぁ。付き合う前の友達に戻りたいけどむりやん?だからもう誰とも付き合わんでいっかと思ってたんやけど」
「ほーん」

何かが気に食わないらしい。繋いだ手をもう片方の手でも包む。じっと目を見ても考えていることはよくわからない。

「付き合う前のままがよかったなーってだけやで?」
「それって傷ついてへん?なんかイヤや」
「侑とは付き合ったやん。これから傷つけ放題やで」
「傷つけたいわけちゃうわ!」
「でもそうなっても付き合いたいって思ったねん、侑とは。むずかしいな」
「お互い人を好きになったん初めてやから、妬く理由もないってことやな」
「それもそれでどうなん私ら、人として」
「ええやんお似合いやん」
「でも侑は冷たくないで」
「実はなまえちゃんにだけやで。せやからなまえちゃんももっと俺にだけトクベツやさしくして」

これ以上何をどうしろと言うのか。
がっちりと離れそうにない手を、脚にかぶせられたジャージの中にしまう。手が太ももに当たると、息を大きく吸い込んだみたいに侑の胸元が動いた。また膝でもなんでも貸してあげたいけど、ここはほこりが多いし、今は授業に戻らないといけない。

「してると思うんやけどなぁ今とか、こんなベタベタして」
「足らん」
「やっぱり甘えるシュミあるやろ」
「ない」
「授業もどろか」
「もーちょっとええやん」
「大会前やろ?お行儀よくしいや」

元はと言えばうっかり泣いてしまった私のせいでこんな状況になっていた。
ごめん、ありがとう、と意味をこめて前髪をなでる。髪を崩されたくないらしいから、前髪を流れにそって何度かなでた。甘えるシュミはないと言いながら気持ちよさそうにしていて、これは嫌じゃないらしい。

「やさしくしてって、何してほしいん?」
「えーっ?ンフフ」
「……何考えてるん、ヘンタイ」
「なんも言うてへんやんか!」
「顔に出てるねん」
「じゃあ、これからクリスマスはあけといて。大晦日も正月もバレンタインもホワイトデーも、なまえちゃんの誕生日も俺の誕生日も、全部あけといて」
「いいよ」

片手は繋いだまま、肩にアゴを乗せて、のしかかるようにべったりと抱きついた。ヒェッと息を吸うような声がして、手のかかるお子ちゃまはどっちやねん、と笑った。
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