誰かの為の協奏曲 | ナノ
テラスで紅茶を飲みながら、読書に耽る。今日は珍しく陽射しが暖かい。どうやら春がすぐそこまで来ているらしい。
本に視線を落とす。文字列は活字に起こされ、冬に凍える小さな島の美しい情景を謳う。その時、テラスに面した中庭の噴水の水面がごぽりと水泡を立てた。薔子は本から顔を上げ、そちらの方を見る。ごぽ、ごぽごぽ。水泡は断続的に、どんどん大きくなっていく。

「………芥?」

水面が大きく波打って、天まで突き抜ける水柱になる。咄嗟に身構える薔子の目は、柱の向こうに影を見た。

「ただいまお嬢さま!」

その影は柱を突き抜け、薔子に飛びかかる。水飛沫が、薔子の頭上から降ってきた。

「わぁっ、ごめんねお嬢さま!芥びしょ濡れ!お嬢さまもびしょ濡れ!だめじゃん!芥だめだめじゃん!」

「大丈夫よ、この程度なら」

しかし彼女の言葉に相反して、彼女の濡れた黒髪に白い柔らかそうなタオルが降ってくる。

「だめですよお嬢さまぁ、ちゃんと拭かないとぉ」

「…そうね、ありがとう英賀保」

「ほら芥ぁ。お嬢さまに無礼を敷いちゃいけませんよぉ」

「ごめんなさぁい」

タオル越しに髪を拭いてくれる鬼は、水柱から現れた河童、芥を軽く叱責する。芥が苦笑しながらも申し訳なさそうに眉根を下げるのを見て、薔子は笑みが漏らした。そして顔を上げれば、鬼…英賀保も柔らかな笑みを浮かべていた。しかし、その顔から笑みが抜け落ちる。英賀保の手に触れた手を払われたと思った瞬間に、体を突き飛ばされた。

「あがほ」

ぐらついた体は芥が受け止めてくれた。テラスの床を蹴って中庭に飛び出した英賀保の手には、金棒。そしてその金棒を振り上げた時、何かが空から降ってくるのを見た。

「見つけましたよ温羅(うら)!」

甲高い声と耳を劈くような金属音。薔子を庇うように覆い被さる芥の肩越しに、彼女は英賀保が受け止めたそれの姿を視認する。墨のように艶やかな黒髪。その手には、歪に歪んだ金棒。そして英賀保とよく似た角が一本、額から生えていた。英賀保のそれと異なる点といえば、その太さと大きさ、そして角の数。
それは英賀保の頭上から跳び退き、距離を取る。長い黒髪がさらさらとそれの肩からこぼれ、顔を隠す。しかし、英賀保とよく似た金色の目が英賀保を穴が空くほど睨んでいるのは分かった。

「やっと……やっと見つけた……この、裏切り者」

その声は、鈴の音のように凛としていた。英賀保の表情は無。そこから感情は読めない。それが金棒を構えて英賀保に突っ込んでいく。英賀保はただそれをかわし、時に金棒で受け止める。英賀保が金棒を振るえば、それもかわし、同じように金棒で受け止める。

「………あれは、鬼……?」

薔子の口から音にも似た問いが漏れる。芥は英賀保とそれから目を離すことなく、彼女に応える。

「鬼だけど、英賀保みたいな純正の鬼ではないよ。天邪鬼という」

「……あまのじゃく?」

「そう。天邪鬼という種の鬼だよ。ちなみにあれの名は阿成(あなせ)。かつて芥たちと一緒に暮らしてた女鬼さ」

あなせ、と口の中で繰り返す。少女の姿をしたその天邪鬼の表情は、怒りに満ちていた。

「殺してやる!」

時折聞こえるのは、英賀保に向けた罵声。

「死ね!」

罵倒されても、英賀保の表情は未だ変わらない。だが、少しだけその頬が緩んだのを薔子は見逃さなかった。そして、

「私を捨てたお前なんて死んでしまえばいいんです!」

阿成の怒りに満ちた表情の中に、悲しみにも似た色が見えたような気もした。

「……英賀保は、あの子を捨てたの?」

「…捨てたわけじゃないんだ。でも、あの子を置いて行かざるを得なかった。あの子もそれを分かってるはずなんだ、でも」

芥の言葉が詰まった。芥から視線を外し、英賀保と阿成の方を見る。英賀保が素手で阿成の金棒を掴んでいた。びくともしない金棒に阿成の顔に焦りが滲んでいる。そのまま英賀保が金棒を払えば、阿成はバランスを崩して土の上に倒れ込んだ。

「英賀保」

薔子の声に、英賀保は何も示さない。そのまま阿成の前にしゃがみ込み、彼女の顔を覗き込む。

「……くそが」

その声の中に、悔しさが見えた。

「早く殺しなさい」

英賀保の手が阿成に伸びる。嫌な予感がして、薔子はまた英賀保を呼んだ。阿成は固く目を瞑って、小刻みに震えていた。そして英賀保の手は……阿成の頭の上へ。

「………え」

その声は、阿成のものだったろうか、それとも薔子のものだったろうか。二人の視線の先、英賀保の顔には、微笑。

「大きくなったな、阿成」

しばしの沈黙。しかし、音はなくとも、阿成の顔がみるみる赤くなっていく。

「う、ううううるさい!うるさいです!私は、私はもう、あなたの知ってる阿成ではないのです!阿成は変わりまし」

引き攣ったような声が阿成の喉から漏れて、意味のある言葉が続くことはなかった。阿成の頭に置かれた手が、わしゃわしゃと阿成の髪を乱す。

「たとえ姿は大きくなったとしても、私にとっては私のかわいい阿成のままだ」

いよいよ阿成の顔は耳まで赤くなる。そしてその目が潤み、一筋の雫が彼女の頬を伝う。

「う、うるさい、のです…っ……温羅の莫迦…ばかぁ…!」

英賀保が阿成の体を抱き起こせば、彼女は英賀保の胸に飛び込んで声を上げて泣いた。ばか、あほ、うらのばか、と、可愛らしい罵倒と共に。無意識のうちに口角が上がるのを感じて、薔子はぽつりと口を開いた。

「……あの子はとても天邪鬼なのね」

「だね」

薔子に同意しながら芥は立ち上がり、鬼の二人の方へと駆け寄っていった。







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