誰かの為の協奏曲 | ナノ
「………おまえ」

電話は既に切れている。つー、つー、と、無機質な音が俺の鼓膜を震わせる。けど、俺の唇は、俺の意に反して動くんだ。

「おまえ優しいなぁ、枯羽」

ようやく通話終了ボタンを押して、携帯を枕元に置く。あの様子だと、今日の集まりは流れてしまったのだろう。申し訳ないことをしたかもな、とは思う。
とりあえず俺は、ハンガーにかかってた白いシャツを着て、食堂にでも向かうことにした。



「……」

食堂を運営している遥叉がいない。飯がない。はぁ、と溜息が漏れる。規則正しい生活スタイルを今日一日でぶっ壊したから、仕方ないといえば仕方ない。遥叉はみんなの生活リズムに合わせて食堂を運営しているのだから。
ふと、カウンターに栄養補助食品を見つけた。いつもはそんなものないけど、空腹に耐えかねた俺はそれに近付く。すると、それにピンクの小さい付箋が付いていた。〈お寝坊さんの天国へ〉と書いてある。成る程、伊達に組織の構成員の食生活を管理しているだけはある。それを手にした瞬間に、かちゃ、と硬い音がした。振り返れば、テーブルに人影。

「あら、こんな時間に珍しいわね天国」

赤い目を細めながら、彼女は、薔薇戦争は俺の方を見ていた。それはそれは優雅に脚を組んで。テーブルの上にはティーカップ。成る程、さっきの音はカップをソーサーに置いた音かと察する。
いつの間に。いやもしかしたら最初からいたのかもしれない。俺が気付かなかっただけで。

「…何突っ立ってるの。座りなさいよ」

有無を言わさない声に、思わずテーブルに駆け寄って座ってしまった。まるで俺の脳みそに代わって薔薇戦争の声が俺の体に命令したみたい。
薔薇戦争は俺が座ったのを横目に、ティーカップに口を付ける。ティーカップには、赤い薔薇の模様が描かれていた。

「…あなた、ひかりを殴ったでしょう」

薔薇戦争の声色は変わらないけど、それは確実に俺の体を緊張させた。

「斎を泣かせたでしょう」

なんでこいつの声はこんなにも拘束性があるのだろう、考えるのは容易いけど、体は固まってしまう。

「幸せにするだの幸せにできないだの、あなた、少し幸せに固執しすぎよ」

…うるさい、と、言いたかったけど、口が動かない。それは、薔薇戦争の声がそうさせているのかもしれないし、それとも、

「幸せなんて、他人の采配で決めつけてはいけないと思うのだけれど」

…こいつの言うことが、図星だったからかもしれない。

「わたくしはわたくしが傲慢なことを分かっているけれど、あなたも大概だわ、天国」

見れば、薔薇戦争はカップに目を落として俺の方など見ていない。俺はじっと薔薇戦争を見ているわけだけど。…その時、薔薇戦争の目が、急にこちらを見た。ぎょろり、という音がついてもいいくらい、本当に急に。

「あなたの力は、誰かを幸せにする力だったかしら?」

………俺の力?

「もう一度、見つめ直してみなさい」

薔薇戦争は俺を見たまま立ち上がり、カップをカウンターまで運ぶ。薔薇戦争の視線を感じたまま、俺は彼女を見ない。見れない。

「というか、ひどい顔だわ。鏡見なさい」

背後から白い手が伸びてきて、俺の前に小さな鏡を置く。鏡に映るのは、俺の顔。…成る程、本当にひどい顔だ。髪の毛ぼさぼさだし、前髪が顔にかかってて、その隙間から覗く俺の目はとても暗くて。

「……俺の、力……」

俺は俺の目を見つめながら、さっきの薔薇戦争の言葉を思い返す。俺の力、俺の力って…

「あ、天国ー」

その時、また別の声がした。振り返れば、食堂の主たる遥叉がいた。薔薇戦争は、いつの間にかもういない。

「こんな寒いとこで何してんのもう、はいこれ」

俺の前に置かれてる鏡の隣に、缶コーヒーが置かれる。触れれば、温かい。自販機で買ってきてくれたのだろう。その温もりに、無意識のうちに口元が緩んでしまう。
…久しぶりに、笑えた気がした。



食堂を出てすぐ、柱の陰に、彼女はいた。耳元に携帯電話を宛てがう。その顔に、表情はない。

「もしもし。……えぇ、大丈夫よ。
 ……あなたの言う"悪い膿"はちゃんと出せたと思うわ。枯羽の"消毒"も効いてるようだし。でもまぁ……えぇ、ちゃんと"瘡蓋"にはなったと思う。それを自分で剥がしてしまうか、自然と剥がれるのを待つか。あとはもう彼次第だわ。わたくしにはどうしようもない。
 …願わくば、自然と剥がれるのを待って欲しいわね。だって、自分で剥がしちゃったら、炎症を起こしてしまうでしょう?それはきっと、膿を出すより痛くて苦しいし、何より悪い方向へ長引いてしまう。
 自然と剥がれた瘡蓋の下の細胞は、真新しくなってしまって、今までとは丸っきり違うものになってしまっているけれど。それでも、傷が癒えたなら……きっとそれは、彼だと思うわ。あなたもそう思うでしょう、香衣」

そして、少しだけ、ほんの少しだけ、彼女の口元に笑みが浮かんだ。








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