荊の華と朽ちた季節 | ナノ

あなたが生きる意味だったのに


大学生になる妹が「行ってきまーす」という快活な声と共に家を飛び出す。「行ってらっしゃい」応えてやったが、届いていたかどうかは分からない。
枯羽は食卓に並んだ食器を片付け、自室に向かう。その時、客人を告げるベルが鳴った。ちょうど玄関の前にある階段を上ろうとしていたところだったので、「俺が行く」と声を張り上げた。奥の部屋から「ありがとう」と姉の声が聞こえた。

「はい、」

玄関を開けると、そこに立っていたのは美しい少女だった。艶やかな黒髪、長い前髪と眼帯に隠された左目、唯一光る右目は赤い。目と同じ色をしたワンピースが彼女の白い肢体を包み込み、何とも言えない艶やかさを醸し出していた。
彼女を枯羽は知っていた。どことなく彼女と似た面影のある美しい顔を歪め、枯羽は舌打ちする。

「何の用だ」

「あの、枯羽に用事があって、」

この女は枯羽にとって憎むべき相手だった。枯羽の家の先祖達を蔑ろにしてきた家の女。そして枯羽自身も、この女の道具にされるという運命が決まっている。しかし枯羽は、反旗を翻すつもりだった。この女の家のいいようにはさせない、そう思っていた。

「…取り敢えず入れば」

「えぇ、お邪魔します」

彼女…荊華院薔子は軽く頭を下げ、枯羽の脇を通って屋敷の中に入る。不意に、ふわりと甘い香りがした気がした。



枯羽の家である季朽は、日本で最も美しい家系、荊華院の美を存続させる為の家だった。美の存続の為に、分家である季朽の人間を"番い"として子作りに利用する。そして生まれた子供が2歳になる時、"番い"は殺される。そういう運命の下で季朽は栄えてきた。
現在の荊華院の若き当主…今目の前にいる薔子の母親…の"番い"は枯羽の母方の叔父だった。そして、薔子の"番い"は彼女と歳が近い枯羽である予定だった。
しかし、枯羽はまざまざと殺されるつもりはなかった。来たる婚姻の後、薔子に子供を生ませたら薔子を殺す。そして荊華院を乗っ取り、季朽が表の舞台に立つ。それが一族の悲願であり、枯羽に課された使命だった。その使命感で20年間生きてきた。いつか必ず、この女を殺す。そう思っていた。

「あのね、枯羽」

枯羽の部屋の扉の前で立ち尽くす彼女は、窓辺に立ち背中を向ける彼に声を掛ける。彼が応えないのを肯定と見なし、彼女は軽く息を吸った。

「わたくし、結婚するわ」

「あっそ」

いつも通り、大した興味も示さずに聞き流そうとして…枯羽は瞠目して勢いよく振り返った。

「…けっ……こん…?」

薔子は目を伏せて、小さく頷く。その頬は赤く染まっていて…彼女には愛する人がいるのだということを物語っていた。

「それでね、あの、枯羽、」

「ふざけんなよ」

大股で薔子に近付き、両腕を掴んで壁に押し付ける。揺らぐ赤い目が枯羽を映す。その目さえも美しいと感じている自分に気付き…壊したくなった。

「ふざけてんじゃねぇよ!」

彼女の手首を掴む手に力がこもる。このか細い腕を折ってしまいたかった。

「俺はもう要らねぇってのかよ、だったら何だよ、俺は何の為に生きてきたんだよ!」

枯羽が生きてきたのは、荊華院に復讐する為だ。しかし今、薔子は枯羽以外の男と結ばれることを宣言した。それはつまり、枯羽の復讐が達成できないことを意味していた。

「…あのね、枯羽、」

激昂する彼とは裏腹に、彼女は落ち着いた声で枯羽を呼んだ。揺らいでいた目には、光が宿っていた。

「公表するわ、あなた達がわたくし達の分家筋であることを」

はっと息を飲んだ。今まで季朽は、華族や士族に届かないただの地方の金持ち、程度の認識しかされていなかった。荊華院にとって都合のいい立場に下ろされていたのだ。しかし彼女が言うように、季朽が荊華院の分家であることを世間に公表すれば、季朽の立場は大いに向上する。そして何より、"番い"制度のような非人道的なことは不可能になる。

「我々荊華院は、あなた達と肩を並べて生きていくわ」

いつの間にか彼女を束縛した手はほどかれていた。目を見開いたまま硬直する枯羽の両手を取り、薔子は頭を下げる。

「あなた達の朽ちた季節を巻き戻す為に、わたくし達は全力を尽くすわ。あなたはあなたの好きなように生きていいの」

枯羽は何も言えなかった。声を荒らげて彼女の手を振りほどくこともできたのに、できなかった。彼女が頭を上げた瞬間、またあの甘い香りが鼻についた。