荊の華と朽ちた季節 | ナノ

ある昔話


むかしむかし、あるところに、鬼が住んでいました。鬼は人間と関わりを持つことなく、山の奥でひっそりと暮らしていました。山の麓の村の人々はそれを鬼神さまと呼び、それを深く畏れていました。

そんなある日のこと。鬼が住む地よりはるか東におわしまするはずの現人神さまが、鬼の住む山の麓の村にやって来ました。現人神さまが言うことには、鬼を退治しに来た、と。神が神を退治しに来たというのですから、村の人々はたちまちのうちに震え上がりました。そして、山に入っていく現人神さまを止めることができませんでした。

「人の身でありながら神を名乗る愚か者よ」と、鬼のそばにいた河童が、招かれざる客神を見て笑いました。
「人の身でありながら鬼に仇なす愚か者よ」と、鬼のそばにいた鴉天狗が、招かれざる客神を見て笑いました。
鬼は何も言いません。ただ、招かれざる客神を見て目を細めるだけでした。
「温羅よ」と、現人神は刀を携えます。「覚悟」鈍い銀色が光りました。
「無駄だぜ?」鬼はとうとう口を開きました。「人間が扱うそんな鉄屑じゃ、私たちを殺せねェよ。殺すことはおろか、傷つけることすら不可能だ」
「無駄かどうかは、その目で確かめていただきたい」現人神は刀を構えます。そして、いつの間にか鬼の背後に立っていました。鬼が振り返ろうとした瞬間、鬼のそばにいた河童の胸の上で光る、白磁のような皿が割れました。河童は悲鳴を上げ、その場に蹲りました。鬼がその場に固まって、河童を見下ろしていると、すぐ隣から呻き声が聞こえました。そちらを見れば、鴉天狗の黒い大きな翼が根元から折れ曲がっていました。鬼の視界に、刀を振り上げた現人神が映ります。「鴉威!」鬼の叫びに、鴉天狗が振り返ります。そして、現人神の刀が、鴉天狗の右の翼を斬り落としました。
鴉天狗が倒れます。鬼はただただ目を見開くばかり。「温羅よ」現人神が鬼を呼びます。「私はおまえの存在を得んとする為に来た。温羅よ、私の下においでなさい」現人神は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべます。現人神の黒白の髪が風に揺れます。
「…私は」鬼が口を開きます。「…私は、鬼だ」鬼が右手を広げると、陽炎のように手が揺らぎます。

「人間のモノになんぞなってやるワケねェだろが!」

鬼は手にした金棒を振り上げます。
「そうか、では…その角をいただいて、使役させていただくこととしよう」現人神は、動きません。動くことなく、刀の鋒を鬼に向けました。鬼が金棒を振り下ろします。刀と金棒がぶつかり、火花が散ります。そして…金棒に、罅が入りました。
鬼は金棒を引こうとしましたが、既に手遅れでした。金棒は砕け、粘土のようにぼとぼとと地面に落ちていきます。現人神は刀を持つ手を一旦引いて、そのまま鬼の額の角をめがけて突き上げました。刀の鋒は、鬼の角を捉え、容易く角を折ってしまいました。角は宙を舞います。現人神は角に手を伸ばします。…しかし、現人神の手が角を掴むことはありませんでした。

現人神の頭上。折れた翼を広げた鴉天狗が、腕に鬼と河童を抱え、鬼の角を咥えていました。河童は荒い呼吸をしながら、声高々に叫びます。「…温羅を、人間に渡すわけないよね…!」
現人神は空を飛ぶ術を持ちません。悔しそうに現人神は口元を歪めます。
「……日元よ」遠く離れていく異形たち。しかし、現人神の耳には、鬼の声がしっかりと聞こえていました。

「オマエは人、そして私は鬼。おまえの血脈が続く限り、私の、鬼の、温羅の怨念が、千代に八千代に続くことを忘れるんじゃねェ。おまえの血脈はいずれ滅びる」

異形たちの姿が見えなくなりました。それでも、現人神の耳には声が残っています。

「オマエは、人なんだからなァ」



「英賀保!」

庭園に面したテラスにいたそれは、声に招かれ振り返る。それは金色の目を輝かせ、真紅を纏う少女の姿を認めて微笑んだ。

「あらあら、お嬢様ぁ。どうかなさいましたかぁ?」

「それはこちらの台詞だわ。こんなところで何をしているの?」

それは少女の問いにひとつ笑みを深め、パーカーのフードを取った。現れたのは、小さな二つの角。

「…なんとなぁく、昔を思い出してただけですよぉ」

一陣の風が吹く。それの前髪がふわりと舞う。少女は眩んだ目を細めるが、それの前髪の下に、何か…例えば、何かしら硬いものの断面のようなものが見えた。ように思った。