眠るまでそばにいて「和香菜様、お時間です」 侍女がひそりと告げ、和香菜はにこりと微笑む。そして腕の中の赤子を侍女に託し、着物の裾を払って立ち上がり、侍女について、和香菜は摺り足気味で歩き出す。 「巳子ちゃん」 「なんでしょう」 侍女は振り返らないが、和香菜は笑みを深めて口を開いた。 「ぼくね、桐の花がすごく好きなの」 「……存じております」 「…だから桐乃はね、ぼくがこの世に遺せるものの全てなの」 「………存じて、おります」 声色が少し苦しげになったのに気付かぬふりをするかのように、侍女は歩く速度を上げる。和香菜はそれ以上何も言わず、ただ侍女について歩く。 そして辿り着いたのは、百合で埋め尽くされた密室だった。侍女がその部屋の障子を閉めると、和香菜は部屋の中央に敷かれた布団の近くに片膝をつく。 「和香菜」 布団に身を横たえようとしていた和香菜は、不意に聞こえた声に瞠目し、障子を見やる。 「…しゅうくん…?」 夫が酸素ボンベを背負い、ガスマスクを装着して立っていた。そして布団のそばまで歩み寄り、布団のそばにボンベを置いて畳に腰を下ろす。そして和香菜の手を取り、その柔らかな白い手を両手で包み込む。 「明日の朝、お前が目覚めないなんて俺には耐えられない。それならばいっそ、お前を見送りたいんだ」 夫の手は震えていた。和香菜は笑み、夫の手に手を重ねる。 「しゅうくんは優しいね。ぼく、幸せ者だなぁ」 そのまま和香菜は布団に潜らず、夫の膝の上に頭を載せる。すると、夫は和香菜の髪に指を絡ませ、口元を緩めた。 「ごめんな、和香菜」 「ううん、しゅうくんは悪くないよ。それに、ぼくは後悔なんてしてないもの」 夫が髪を撫でてくれるのが心地良い。すうと目を細め、和香菜は夫を見つめる。マスク越しに見える目が潤んでいた。泣いちゃだめだよ、しゅうくんはこれから立派な政治家になるんだよ。総理大臣にもなるんでしょ?テレビにもたくさん映るんだよ。ねぇ、だから泣かないで。ぼくの分まで、強く生きて。 目尻から一筋の涙を流しながら、和香菜はそのまま目を閉じた。 [ back to top ] |