novel | ナノ
冷え切った空気が頬を掠め、彼女は目を覚ました。あぁ夜か、思わず落胆してしまう。酷く凍りつく夜だった。
夜は嫌いだ。月明かりも、草木さえも眠りに就いてしまう。そして何よりも、闇が怖い。
薄ぼんやりとした灯りを点けなければ眠れないが、眠ってしまえば朝まで安泰だ。しかし、今夜は不幸なことに、理由は分からないが目を覚ましてしまった。
しまった、そう思いながら枕元の時計を見る。12時を少し過ぎていた。喉の渇きを潤す為に、キッチンまで行かなければならない。今夜は父も母もいない。行かなければならないのだ、一人で。
道中で何か出たらどうしよう。そして、その何かに襲われて、生の朝を迎えることができなかったら。死の夜を迎えてしまったら。

「……何か出ると思うから出るのよ。大丈夫、きっと……」

自分自身にそう言い聞かせ、彼女はベッドを降り、部屋を出た。…口ではそうは言っても、彼女は知っていた。……この屋敷には、何かがいる。

ひた、ひた、と足音を潜めキッチンに向かう。目を閉じ、壁を伝いながら。
彼女の耳に届く、不気味な笑い声。…いるのだ。怯える彼女を嘲笑うかのように、引き攣ったような笑い声が彼女の脳内にこだまする。
慣れたことだ。そう思いながらも慎重に廊下を歩く。普段歩き慣れた道なのに、何故か今はまるで茨の道のように感じられた。

その時。
ふと、背後に気配を感じた。巨大な、彼女の背をすっぽりと覆うような気配。……振り返ってはいけない。しかし、人間とは好奇心に忠実な生き物で。ゆっくりと首を後ろに向けようとして……彼女はその場から走り出した。

見えてしまう。聞こえてしまう。見たくない。聞きたくない。彼女は走った。しかし普段から運動をすることが滅多にない彼女は、脚をもつれさせて転んでしまった。立ち上がろうとしたが、もう動けない。単純な疲れだけでなく……迫り来る何かへの恐怖が彼女の体を硬直させる。

ワタシらが見える人間の血肉は絶品だと聞く。さて、いただいてしまおうか。

鼓膜を震わせることのない声は、直接脳に響く。黒い影がすぐそこまで迫る。震えが止まらない。死ぬのか、ここで。
叫ばずにはいられなかった。それが怯むと思ったのかもしれないし、ただ単に恐怖を発散させたかっただけなのかもしれない。理由はどうであれ、彼女は声の限り叫び、そして震える体を鞭打って再び走り出した。

走る、ひたすら走る。途中、扉を見つけた。扉を開け、飛び込む。中は下り階段になっていて、ひたむきに駆け下りる。……こんな部屋、あったかしら…?頭の中の片隅に残っている微かな冷静さがそう問うが、今はそんなことどうでもいい。とにかく逃げて、走って、駆けて、

「?!」

ひやりとした何かが彼女の口を覆った。腹に回される細い何か…腕だった。後ろから誰かに捕らえられたと理解した。

「ふふ」

耳元で笑い声がした。何故か安堵を感じさせる優しい声だった。

「待ってたよ、ローザ」

はっとした。何故、私の名前を。不審に思い始めると、急に恐怖を覚えた。手の力が緩む。その瞬間、彼女、ローザ=ウォーブローは振り返り、声を上げようとした。そして、青を内包した白を見た。それが目の前にやって来た。唇を塞がれた。冷たい唇で。

「………静かに」

離れた顔は、とても綺麗な顔をしていた。病的に白い肌で、サファイアのような深い青い目は憂いを帯びたように細められている。初めての口付けの驚きもさながら、その美貌にローザは見惚れてしまっていた。

「ローザ」

甘い声だった。微睡んでいたローザの意識が覚醒する。何と無くだが、彼なら大丈夫だと感じた。根拠はなかった。それでもローザは彼のくたびれた白いシャツを掴み、青い目を見つめる。

「…た、助けて」

彼が微笑む。歯が見えた。八重歯だと思ったが違った。…異常なまでに発達した犬歯だった。そう、それはまるで…吸血鬼のようだった。再びぞっとした感覚に襲われたが、彼はずいと彼女に顔を近付けて笑みを深めた。

「ローザ、気付いていないのかい?奴らはもういないよ?」

…え、と階段を見上げる。何もない。誰もいない。確かに何かがいたはずなのに、それらは忽然と消えてしまった。何故消えたのかは分からないが、とにかく安堵が胸の内を支配し、よろよろとローザは腰を抜かす。すると、彼が優しく抱き留めてくれた。

「…ありがとう」

「僕は何もしていないよ。君を怖がらせたかっただけさ」

その言葉にローザは体を強張らせた。彼女を追いかけていた奴らは既にローザに追いついて、目の前のこの男の姿をしているだけではないのか。ローザがそう思ったのを察したのか、彼は首を横に振る。

「僕は君に危害を加えたりしない。その証拠に名乗ろうか。僕の名はキューズ」

「……きゅー、ず」

「詳しいことはまた後ほど話そう。…ねぇローザ、君に頼みがある」

彼、キューズはローザの手を取り、階段を上り始める。扉に辿り着いたところで、キューズは勢いよく振り返り、そして…ローザを抱き締め、首筋に顔を埋めた。

「ちょっ…キューズ…?!」

「僕を愛して」

首に吐息が触れ、ローザは体を震わせる。彼は愛せ、と言った。今ここで出会ったばかりのローザに、愛してくれ、と。そんな馬鹿げた話があるか、とも思ったが、何故だろう、心の何処かで彼ならいいと思う自分がいた。そしてその不明瞭な感情に身を委ね、ローザは頷いた。嬉しそうな笑い声が聞こえた。

「…愛してるって言って」

ローザの顔に熱が集まる。愛の言葉など今まで言ったことはおろか言われたことさえない。しかしローザは唾を飲み込み、キューズのシャツを握り締めて口を開いた。

「……愛してる」

その時だった。

「?!!」

首筋に鋭い痛みが走った。熱いざらざらした何かが肌を這う。舌だ、と直感的に思った。そして痛みの原因が刺されたからだということも分かった。そして首筋に刺さったものが…彼の牙であることも分かっていた。血を吸われているのだとも理解できた。全てを理解したところで、彼が吸血鬼かあるいはそれに類するものだと確信した。
意識が遠のく。何故か悦楽を感じているような気がした。やっぱり彼は、私を騙していたのかしら。血を啜られて尚、ローザが彼を疑うことはなかった。血を奪われてもいいとさえ思ってしまったのは、彼に魅入られたからなのか何なのか。思考が働かなくなり、そしてローザの意識は闇に落ちた。

「……僕も君を愛そう、愛しきローザ」

意識を失ったローザの体を抱き上げ、彼はぽつりと呟いた。




Title by Discolo



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