novel | ナノ
勉学というものは退屈だが、自分の興味をそそるものと巡り会えた瞬間に花開くものだ、と薔子は思う。そんな彼女が嬉々として机に向かうことができるのは、単に今取り組んでいるものが西洋史だからである。西洋史はたまらない。二百年程前まで日本が外国との交流を絶っていた間に、世界ではさまざまな革命や戦争が起こっていたらしい。各地の物語を知ることが薔子にとって勉学の励みになっていた。


「井澄(いすみ)、終わったわ」

「西洋史となると速いですねぇお嬢様。さて、次は日本史ですよ」

「…許容範囲ね」

「世界の過去だけでなく、この国の過去もなかなか面白いものです」


家庭教師である井澄 真智(まち)にプリントを提出し、次のプリントを受け取って薔子は再び机に向かう。井澄は添削をしながら、ふと眼鏡を外して顔を上げた。


「…随分と静かですね」

「近衛兵が交代の時間なの」

「えぇ、存じておりますが、今日はやけに静かではありませんか?」


そう言われてみれば、と薔子が羽ペンを置いたその時だった。
けたたましい警報が屋敷に響き渡った。急なサイレンに薔子は反射的に耳を塞ぐ。


「何なの?!」

「侵入者ですね」


井澄は立ち上がり、冷静にその場を分析する。近衛兵の交代時間に警報。行きずりではなく、最初から荊華院を狙っていた証拠だ。
眼鏡を外して胸ポケットに引っ掛け、井澄は薔子の肩を抱き、安心させるように撫でる。


「桐乃さまは」

「…お母様は今、お買い物に出ているわ…巳子と一緒だから、きっと大丈夫…」

「それは良かった、しかしお嬢様、ご自分の心配もなさってくださいね」


言いながら井澄は薔子から離れて扉に近寄り、耳を当てて外の音を確認する。そして残念そうに溜息をつき、薔子の方を顧みた。


「大変です、お嬢様。犯人はこの部屋にお嬢様がいることを存じているらしい」

「………え……?」

「足音が迷いなくこちらに近付いています。金品ではなくお嬢様目当てだそうで」


大変だ、と言いながらも全く焦りを感じさせない声色は、薔子を落ち着かせる為か、あるいは井澄が元からそういう性格なのかは正直分からない。薔子が慌てて部屋に飾ってあった装飾剣を手に取ると、井澄は部屋を見回し、花が生けられた壺に目を留めた。


「お嬢様、私がお教えした剣道など役に立ちませんよ。無駄な抵抗はせずに窓から飛び降りて逃げてください」

「…つ、使うつもりはないわ」

「……まぁ気休めになるのでしたらどうぞお持ちください」


言いながら壺に歩み寄り、重そうなそれを持ち上げる。壺の中には水が張られていて重みが増しているはずなのに、一滴も零すことなく軽々と。


「この壺、今から使わせていただきますが、請求書は士族の一端、我が井澄家に送っておいてください」


何を、と薔子が井澄に問いかけようとした時だった。扉が開き、目出し帽を被った三人の男が部屋に乗り込んできた。そして薔子を見つけ、薔子を指差し、迫る。
井澄は大きく振りかぶり、壺を男に投げつけた。あんな重いものを、片手で。壺は見事に男に当たり、割れ、水を撒き散らす。


「お嬢様、お逃げください!」


井澄が連中の気を逸らしているうちに、と思っているのは手に取るように分かる。薔子が窓際に向かおうとした瞬間、激しい眩暈がした。がくりと膝を折り、額を押さえる。気持ち悪い。頭が痛い。意識が飛ぶ。そして、何も考えられなくなって、目の前が真っ暗になって、


...Ce havey, Wor'f saeb.



「お嬢様!!」


意識が戻った時には、赤い部屋の真ん中で井澄に抱き起こされていた。そして自分の右手には、血塗られた装飾剣が握られていた。




(…おはよう、薔薇戦争)








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