novel | ナノ
夜闇は自室以外にもう一つ部屋を持っている。所謂アトリエだ。たまたまスケート帰りのジャージ姿の流沙を目撃して思い付いたイメージを一通り描き終えたところで、夜闇はアトリエを後にする。絵画に集中しすぎて喉が渇いた。食堂に向かおうとすると、茶色い鄙びた着物を着た彼女を見つけた。


「あれ?じゅげむー!」


般若の顔が振り返る。そして見えたもう半分には何の表情もなかった。黒曜石のような瞳が夜闇を映す。そして…僅かに口角を上げた。


「……よみ」


駆けてくる夜闇を見つめる目には微かな光を宿しているようにさえ見えた。夜闇は彼女の隣までやって来て、近くのベンチにじゅげむを促す。


「…我に何か用か、よみ」

「何でもないよ、たまたまじゅげむを見かけただけ」


そうか、と口を噤むじゅげむだが、ふと夜闇の頬に手を伸ばした。


「…汚れてる。絵でも描いていたのか」


冷たい手だ、と夜闇は思った。閉ざされた彼女の心のようだ、とも思った。


「……そうだね、絵。描いてたんだ、氷の絵」


そうして夜闇は次から次へと話し始める。流沙がスケートに行ってたらしいんだ。黒いジャージを着てたよ、珍しいでしょ?そしたらさ、急にびびっと来てさ。これは描かなきゃって思ってさ。
ふと、夜闇の耳に笑い声が届いた。…紛れもなく、目の前のじゅげむからだった。着物の袖で口元を覆い、目尻を緩めていた。


「相変わらず君の感性は面白いね、よみ」


あぁ、彼女が、御幸が帰ってきた。じんと目の奥が熱くなり、夜闇はじゅげむの手を握って俯いた。


「どうしたの、よみ。私、何かした…?」


心配そうな声が降ってくる。違うんだよ、御幸ちゃん。そう言おうとして、嗚咽が漏れた。


「…みゆきちゃん…!」


何とか涙声を抑え、彼女の名を呼ぶ。そう、これが本当の彼女の名。顔を隠し、口を閉ざし、心を潜めた彼女の本当の姿。それは夜闇の前でしか現れないことは彼自身が一番分かっていた。それでも、彼女が戻ってくる瞬間はいつも感極まってしまう。


「…ごめんね、よみ。私、君の前でしか私になれないのに、私が私になることでよみを泣かせるなんて…」

「違うよ御幸ちゃん!僕はね、嬉しいんだよ。君が怖がってるのを知ってるから」


彼女は誰かと打ち解けることを恐れている。誰かと話すことを恐れている。彼女の言の葉が凶器になりかねないから。彼女はそれに怯えている。そんな彼女が恐怖を忘れ、口を開いて笑顔を見せてくれることが夜闇にとってはたまらなく嬉しかった。


「御幸ちゃんは笑った顔が一番だよ。それに、みんなの真ん中にいるのが一番似合ってる」


彼女が自分以外に対しても気兼ねなく話すことができれば。彼女の胸の内の楔を解き放つことができれば。夜闇の言葉に、彼女は目を伏せた。肩の上で切り揃えられた髪が揺れる。


「…戻りたいね、けど、無理だよ」


その時、足音がした。そちらに視線をやれば、いつもの青いパーカーに着替えた流沙がこちらに歩いてくるのが見えた。次いで彼女を見ると、黒曜石のような瞳がそこにあった。その目に感情の色はなく、表情も何もない。
じゅげむは立ち上がり、ぼそりと何か呟く。そして瞬きの間に夜闇の前から姿を消した。




Title by 告別



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