「…和舞くん?」 「お、天国」 地下図書資料室の主の部下、伊川和舞。彼は件のソファではなく、その向かいに二つ並ぶ一人掛けチェアのうちの一つに座り、【BELKIS Legina di ----】という題名の古びた装丁の本に視線を落としていた。来訪者を声で判断したらしく、顔を上げないまま応答する。 「あれ……雅さんは?」 思わず天国は問う。ソファに横たわっているか、或いは優雅に脚を組んで紅茶を嗜みながら本を広げているはずの主の姿が見当たらない。すると和舞は本に紙の栞を挟んでテーブルの上に置き、「まぁ座れよ」と天国を促す。 「雅さんはあれ、恒例のエゲレス旅行だよ」 立ち上がってシンクに向かう和舞。この部屋には簡素なキッチンのようなものが備え付けられており、成る程資料室の主が生活できるようになっているのが見て取れた。改めてじっくりと部屋を見渡す天国の耳に、「……茶葉が切れてる……」と絶望的な声が届く。しばらくして、グラスに入った麦茶とポテトチップスを持ってきた。 「ごめん、茶葉も豆も切れてた」 「あ、いいよ、本返しに来ただけだし」 【舞踊の歴史】という本を和舞に手渡すと、彼は一番近くにある本棚に立てた。よく見れば本棚に〈返却済〉というラベルが貼られている。まるで図書館だ、と天国は思った。しかし本の種類は多種多様で、博物館に収められるような古文書や歴史書まで取り揃えられている点などが普通の図書館とは違う。組織の図書資料室だからこそ成せることだろう。 すると和舞はポテトチップスの袋をパーティー開きし、天国に示した。天国は小さく礼をし、ポテトチップスを一枚食べる。 「……雅さん、多分本場の茶葉買う為に旅行に行ったんだ」 「え、それだけ?」 「雅さんにとっては死活問題なんだよ」 確かに、地下にはいつも紅茶の香りが広がっている。その香りが薄まっていることに違和感を感じる程に。それは、この空間の主がそれ程までに紅茶を愛しているということを物語っていた。そして、そんな主に追随するのが目の前にいる青年。 「…和舞くんってさ、……殺し屋だったんだよね」 「え、あぁ、うん」 少し言いづらそうに尋ねてきた天国に対し、和舞は平然と応える。 「………クイーンビー、だっけ」 「うん。けど今は針は隠してるよ」 女王蜂は清らかな水と紅茶の美味さに酔っちゃったんだ、と麦茶を呷る和舞。同じように麦茶を飲み、天国はさらに続ける。 「…薔薇戦争より強いんだっけ」 「多分ね」 即答。天国はぞっとした。組織において最強と謳われる薔薇戦争の上には、まだ上がいたのだ。そして真の最強が今、目の前にいる。自分で自分を抱き締めながら、天国は…笑った。 「……羨ましいな」 そう、彼には力がある。敵を薙ぎ倒す力が。そして、天国には力がない。道を切り開く術がない。ただ、望むものを得るしかできないけれど、何故だろう、力は手に入らない。しばしば己の無力を痛感する、その時間がただひたすらに苦しかった。 「…おれはそっちの方が羨ましいよ、天国」 唐突に言われ、天国は顔を上げた。彼が自分を羨ましがるとは、そんな。 「おれに出来るのは、何かを壊すことだけだ。おれは、何かを守れる天国の方が羨ましい」 物理的な力の使役を壊すことと呼ぶのなら、天国のそれは物理的法則に反した守り、と呼ぶのだろうか。考えを巡らせていた天国は苦笑し、すうと目を細める。 「あんたも守れるよ、和舞くん」 天国の言葉に、和舞は微笑んだ。殺し屋だったとは思えないような優しい笑みだった。 「…この世界に足を突っ込んだ以上、おれ達に逃げ道はないもんね」 その笑みは優しかったけれど、どこか悲しそうで、しかしどこか嬉しそうで。 「……守れたらいいね、おれ」 「大丈夫大丈夫!ほら、食えよポテチ!なくなるぞ」 「はいはいありがと、おれが出したポテチだけどね」 あどけなさの残る二人の青年は、ポテトチップスと麦茶を共にし、次から次へと話題に花を咲かせる。 「おれが今読んでる本ね、文字が掠れて読めないんだけど、【なんとかの女王ベルキス】ってんだけどね、まぁ女王の伝記みたいな。この女王がさぁ、なんか薔薇嬢に似てるんだよね」 「へぇ、どんな風に?」 「根っからの女王様気質なとことか、あぁ、召使を踏んだりね。部下に対して容赦ないとことか完全に薔薇じょ…………」 「? 和舞くん、どうかし……………」 急に青ざめて口を閉ざした和舞の視線は、天国の背後へ。天国が振り返ると、彼もみるみる顔の色をなくす。 「……誰が踏んだり容赦ないのかしら」 …この時ばかりは、逃げ道が欲しくなった。 Title by Discolo [ back to top ] |