novel | ナノ
月もなく、瞬く星だけが地上を見下ろす夜。しかしその路地裏から見上げる空は狭く、星の光すら微かだった。

「天子さま、天子さま……」

そして夜闇の陰に浮かび上がる白。

「天子さま、次の、次の天子さまを探さなきゃ」

血走った目が揺れる。

「神を否定するひと…神を殺せるひと…現人神さえも、無きものとするひと……」

覚束ない足取り。それの頬を、首を伝うのは、汗か涙か。

「許さない……現人神を、許さない…わたしを置いて逝ったなんて許さない……鶴弥、鶴弥、…絶対、許さない……」

呪詛にも似た言葉が、白の小さな口から漏れる。漏れ続ける。

「見ィつけた」

止まることを忘れた呪詛が、そこで止まった。止められた。白の目の前、そこにあるのは闇に溶ける黒。

「かなり白化が進んでるようだ。…随分長いこと、彷徨っていたんだね」

白はただ目を瞠り黒を見つめる。黒の動きを窺っているようにも見える。黒が動く。ゆらりと腕を伸ばし、自分のこめかみに指を添える。

「……ふむ、在位期間は1761年から1795年、日元鶴弥の天使か。思ってたより古くない」

黒の言葉の直後、白は距離を詰め黒の首を掴んでいた。殺す、殺すと、白の口から譫言のような音。しかし、黒は笑う。笑って、白の手首を掴む。

「安心しな。キハネがあんたを、鶴弥のところに連れてってやるよ」

黒の手から赤い光。白が手を引こうとした時には既に遅く。一瞬の赤い閃光のうちに、白の姿は消えていた。黒の手の中から、白い粒子のような淡い光が浮かんでは消える。その光を手のひらで包み、指先を自らの眉間へと。

「…終わったよ、鶴日」



「…いつも悪いな、キハネ」

男の肩の上で揺れる白髪の中に、黒髪の束がいくつか見える。彼は赤い斑点模様が刻まれた目尻を緩め、金色の目を伏せた。

「……悪魔の仕業、だったんですね」

背後から聞こえたか細い声に、金色の眼が開かれる。

「ハトリか」

振り返ることなく訊けば、空気が揺れた。頷いたようだ、と彼は尚も体を返すことなく思う。

「いつ"退院"した?」

「……ついさっき、です」

「いいのか?彼氏は放っておいて」

「…ひかりくん、なんか、大変そう、なので。それに…あなたに、早く会わなくちゃと思って」

そこで会話はふつと途切れた。沈黙が続く。彼自身、沈黙は慣れている。そして、彼女がここに来た理由も、薄々分かっている。

「現人神の為に用意された人造天使のこと」

沈黙を裂いた彼女の声。彼は振り返らない。ただ、背後にいる彼女の言葉を聞く。待つ。

「死なないそれの処分法はなく、歴代現人神の天使たちは今も野放し状態で…そしてそれらは白化し、悪魔となる…」

肩越しに、彼女を見る。白いワンピースの上から薄桃のカーディガン。その赤い目は、まっすぐに彼を射抜いている。こんな目をする娘だっただろうか、と、彼女の言葉を聞きながら思う。

「普通では殺せない悪魔を唯一殺せる存在が、あなたの天使キハネ…」

彼女が並べる言葉もそう。彼女らしくない。彼はようやく振り返り、その黄金で彼女を捉える。思わず口角が釣り上がってしまうが、隠すことでもない。

「随分勉強してんじゃねぇか。あんなに俺の周囲の環境を厭うていたくせに」

「…わたしは、郎女ですから」

思わぬ返答に、彼の顔から笑みが消えた。彼の脳裏に浮かぶのは、郎女という単語を聞くとすぐに目に涙を浮かべていた少女の姿。

「郎女なのに、郎女として知っておかなきゃいけないことを知らなかったばかりに、匠さんを止められなかったんです。悪魔の仕業だと知っていれば、わたしが止められたのに」

だから、と、その赤い双眸に強い光が宿る。続くであろう言葉を予期し、彼の…神への反逆者たる現人神の唇が弧を描く。どうやら彼女も、ようやく覚悟を決めたらしい。

「あなたのこと…現人神のこと、もっとわたしに教えてください。鶴日にいさま」



「兄妹?」

「あァ」

医務室にて。あらゆる管に繋がれ眠る薔薇戦争を囲うように、ひかりと雅、淨がベッドの両脇に立つ。

「元々オマエらの力ってなァ、あの映像で分かるようにとある楽譜によってもたらされてンだよ」

楽譜。あの映像越しに見た、謎の女が天子…天国の島…天売匠の中から取り出したもの。その楽譜は今、雅の手の中に。汚れくすんだ紙には黒い五線に金色の音符。

「どうやらその楽譜は特定のもの同士で何かしらの繋がりがあるみてェでよ。薔薇戦争の楽譜と天国の島の楽譜には、書かれた年代が同じっつー繋がりがあるらしい。で、その繋がりを形容するのに"兄妹"ってワードがしっくり来るってワケだ」

楽譜の兄妹。あの映像の中で女が言っていた「ウォル」というのがつまり妹なのだろう、そしてそのウォルという名の楽譜こそが薔薇戦争の力の根源。

「そんな楽譜、一体」

「まァ、普通の楽譜じゃねェわな」

戦慄く唇から思わず漏れたような芯のない言葉に、間髪入れずに雅が応える。

「この楽譜は神に書かれた楽譜。そしてその楽譜の執筆者こそ、音楽と救済の女神……」



「ベルキスさま」

背後から声をかけられ、彼女は振り返る。そこにいたのは、彼女と同じ色の髪、同じ色の目をした青年。

「あら、ローズローザ。息災だったかしら」

「まぁ、ぼちぼちです」

かつての部下に微笑を投げかけ、女は、鐘撞帝華は、ベルキスは再び踵を返す。そのまま歩を進める。彼も、ついてくる。足音が重なる。

「メンテナンスはこの間してあげたところでしょう。あと半年は保つはずだけれど」

「……オリジナルはどうなるんですか」

ベルキスの足が止まる。彼の足も止まる。

「ウォルは死んだわ」

「中身ではなく」

即答に即応。空気が張り詰める。彼の言葉がそこで詰まる。彼が深く息を吸う。

「…荊華院薔子は」

吸い込んだ息を吐き出すように、低い声で彼は問う。ちらりと赤で一瞥し、ベルキスは口を開く。

「……人はそのうち死ぬ。そのリミットがかなり早まってしまったんじゃないかしら。ウォルったら、随分あの子の深いところまで潜ってたみたいだし」

その時、彼女の肩越しに刃が伸びる。

「あら、ワタシに刃向かう?」

彼女の背後から翳される刀は、言うまでもなく彼によるもの。しかし、彼はそれ以上動かない。しばらくの間。止まる空気。

「…あなたには世話になったし、これからも世話になる。…だから、あなたに仇なすことはしない。たとえ、俺の今の主が荊華院薔子だとしても」

そして彼は刀を下ろし、鞘に仕舞う。ベルキスは小さく笑い、歩みを進める。彼は、ついて行かない。ただその場に立ち尽くす。彼女の背中が消えるまで見つめる。消えても見つめ続ける。見つめたまま、届くことのない声を発する。

「でも…正直ムカついてるんで。それだけは知っといてください」



「そんな怒らないでよ」

「……怒ってない」

香衣の家の、香衣の自室。スタジオ、楽屋、稽古場、彼らにはいろんな場所があったけれど、この部屋は何ものにも邪魔されず、二人が二人であれる場所。
匠を呼び寄せる。呼び寄せただけ。特に話を投げかけることもなく、香衣はただ匠を呼んだ。けれど、さすがに痺れを切らせて彼の不機嫌そうな表情の理由を問うた。一蹴されてしまったけれど。
再びの無言。香衣はこれ以上何かを投げかけるつもりはない。彼が話そうと思っている話題は、ただひとつ。

「……なんで俺を呼んだの」

そして予想通りの、待ちに待った言葉に、香衣は満面の笑みを滲ませる。

「そんなの、おまえとユートピアの今後について話したいからに決まってんじゃん」

はっと匠の無表情が弾けた。しかしそれも束の間、すぐに彼は顔を伏せてしまう。

「……でも、俺は」

「もうユートピアじゃないって?」

「………それもある、けど」

「やばいことやらかしちゃったって?」

匠は頷く。香衣は知っている。彼が力を使ってヘヴンを消したことも、天国の島も消したことも、…天売匠は消しきれなかったことも。

「…俺はどうすれば良かった…?」

匠の声は、震えていた。縋るような、自分を責めるような、いろんなマイナスの感情が綯い交ぜになった声。香衣は身を乗り出し、匠の肩に手を置く。

「それは過去の話。あの時どうすれば良かったかって、分かったところでどうなることもできないじゃない?」

答えはない。香衣は続ける。

「チカラに自惚れたね。引き金はハトリちゃんだったね。うん。分かってるよ。でもさ、僕たちは未来にしか進めないんだから。過去のことは心に留めて、これからどうするかってことを考えていかなきゃ」

ね、と、肩を叩く。またしばらくの無言。しかし、ゆるゆると匠が顔を上げて香衣を見た。泣きそうな顔してる、というのは、本人には言わないでおこう。

「……俺は、どうしたら良い?」

…そう、本当に待ってたのはそれ。香衣の笑みが深まる。

「んー…とりあえずは、そうだねぇ」

そして彼は、匠が心の底で無自覚に望むことを提示する。指し示す。歓迎する。

「こっち戻ってきたら?」









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