「天子さま!」 白が女に掴みかかろうとするが、叶わない。女がそちらに視線を送れば、白は見えない何かに弾き飛ばされた。白を呼ぼうとしたのだろうか、天子の喉から声として発されることのない息が漏れる。 「馬鹿な子ね、ヘヴン。…否、匠」 天子と名乗る天売匠をアイドルとして育て上げた女、鐘撞帝華は蠱惑的な笑みを浮かべ、天子を見上げる。 「…アナタのことは放っておこうと思ったけれど。要らないのなら、返してもらうわ」 鐘撞の空いた左手が天子の胸の辺りにかざされる。 「天子さま!」 真っ白の金切り声が響く。鐘撞の手の内がぼんやりと淡い金色の光を放つ。その光の中に白い線が浮かび上がり、それは規則正しい列線となって天子の胸から流れ出す。白線に乗るのは黒い模様。音符のようにも見えた。 そして、鐘撞の手の中にいつの間にか金色の紙束が握られていた。かつては光り輝いていたであろうことは一目瞭然だが、端々の黒炭の汚れのようなものがその気品を損なっていた。 「……汚い……」 天子の首を掴む手をぱっと放し、紙束を叩く。解放された天子はよろめいて膝をつき、何度も噎せ返っていた。 「…匠のエゴにまみれた天国の島の楽譜……」 天子を見下ろす鐘撞の視線はどこか恨めしくもあった。そしてその赤い目が紙束を見る。 「こんな汚い楽譜は要らない」 右手を紙束にかざす。彼女の手からは赤い光。しかし、その光がふと打ち消された。紙束にかざした右手が、彼女の頭上に動いていた。その手の前には、刃。 「……ッ!」 薔薇戦争が鐘撞に斬りかかっていた。けれど彼女の刃が鐘撞を傷つけることはない。鐘撞の手の中で刃が受け止められていたから。 「何やってんだ薔薇戦争!」 斎の声。しかし、薔薇戦争は答えない。振り向くことすらしない。鐘撞が視線を薔薇戦争に投げる。その顔に滲むのは…驚愕。 「……なんで…」 薔薇戦争の小さな唇が震える。 「…体が、勝手に、」 鐘撞の目が、つうと細められる。 「おやめ、ウォル」 ウォル。何らかの固有名詞であることは分かる。しかし、"呼ばれた"。確かにそう感じた。自分の胸の奥のざわめきが気色悪い。胸を掻き毟りたい衝動に駆られても、自分の手は刀をきつく握るばかり。 「ワタシの言うことが聞けないの、ウォル?」 それでも自分の体が言うことを聞くことはない。薔薇戦争は飛び退いて鐘撞から距離を取る。そして、再び刀を構えて鐘撞を見据える。 「……兄を殺されそうになって、怒った?」 …兄?鐘撞の言葉を反芻すると、跪く天子の姿を目で追ってしまう。眼球すら薔薇戦争の意識の外にあるというのだろうか、しかし考えてももう無駄でしかなかった。脚がしなる。瞬きの間に、眼前に迫るのは鐘撞の冷めた表情。 「…主の言うことを聞けないなんて、愚かしいにも程があるわ」 鐘撞の声が聞こえているのに、聞こえていないような気がした。刀を振り上げる。 「アナタみたいなお馬鹿さんは要らない」 けれど、刀が鐘撞に届くことはなかった。鐘撞の右手が薔薇戦争の胸に触れる。音もない、あくまで軽い動作であるにもかかわらず、薔薇戦争の動きが止まる。 「サヨナラ」 鐘撞の言葉が、ピアノの不協和音のように、チューニングのズレのように、薔薇戦争の頭に、胸に、体に響いた。腹の奥で何かが弾けた。体内のどこから湧き出たというのか、真っ赤な血を吐き、鐘撞の足元に臥せる。 「薔薇戦争!」 天子が声を上げる。鐘撞の視線が移ろう。片膝をついていた。立ち上がろうと、薔薇戦争に駆け寄ろうと。 「あら」 彼女が捉えるは、光を取り戻した黄金色。天子の顔と手元の楽譜を何度か繰り返して見て、鐘撞は肩を落とす。 「萎えたわ」 そして彼女は楽譜を天子に向けて放り捨てる。 「こんな薄汚いの、ワタシは要らない。欲しいならあげる」 地に落ちたそれを拾い上げ、天子は顔を上げる。鐘撞はすでに彼に背中を向けていた。 「ホントは帰りたいんでしょ」 はっと、天子の体が揺れた。鐘撞の背中を見つめ、俯き、拳を握る。 「……たっくん」 懐かしい声がした。否、さっきから何度も聞いている声。懐かしいと感じたのは、自分が全てを遮断していたから。 顔を上げる。そこに鐘撞の姿はなかった。ただ、喀血し意識を失った薔薇戦争だけがそこにいた。 さっきまでそばにいた、真っ白の姿はない。 [ back to top ] |