novel | ナノ
ひかりは医務室の扉を蹴り破らんとする勢いで開け、大袈裟なまでに足音を鳴らしながら部屋の奥に進む。医師の姿と、青年の後ろ姿。青年の肩を掴み、振り返らせる。そしてそのまま彼の胸倉を掴んだ。

「なんでまたハトリなんだ」

青年の、シズクの、いつでも澄ました顔に表情はない。ひかりの顔に苛立ちが滲んで……すぐに引いた。

「ごめん」

シズクがひかりの手を掴み、自分の胸倉から離させる。眉根を下げ、そのまま頭を下げた。さらりと艶やかな黒髪が揺れ、彼の顔を覆い隠す。

「……言い訳するなら、また今度聞いてやる」

なんだかいたたまれなくなって、ひかりは苦々しく吐き捨てる。そして医務室の主と目が合った。

「右側のベッドだよ」

主の言葉に頷き、右側のベッドのカーテンを開ける。眠る彼女。その寝顔はどこまでも穏やかで、ひかりはほっと胸を撫で下ろす。この医務室に運ばれてきたのだから、無事だろう。彼女の薄く開かれた唇に唇を重ねて、彼女の前髪を撫でる。そしてベッドから離れ、カーテンを閉めた。
その時、ひかりは気付く。医務室に二つあるベッド。使われていない間はカーテンが開けられているのに、二つとも閉められている。片方は今しがた眠っているのを確認した彼女だが、もう一方は。

「死と雨と消滅の神だよ」

医務室の主から告げられた言葉に、ひかりははっとシズクの方を見る。あの映像の中で、死と雨と消滅の神に確かに何かが起こっていた。神が見えないひかりには、分からなかったけれど。

「エオルアに、何があった…?」

シズクに問う。いつもの澄まし顔が、微かに歪む。あの映像の中で見た表情だ。カメラ越しにではなく実際に目の前で見て分かった。泣きそうな顔だった。

「…僕らは、天子さまに力を与えられている」

「……神を傷つける力か」

そう、とシズクは頷く。普通の人間には決して触れられない神を傷つける力。かつてシズクのその力で、ハトリの存在が危ぶまれた。天命という、神から与えられた人生の線路を断ち切られた。神にまつわるものなら何でも傷つけられる、それが彼らが持つ力。

「…エオは、あの時天子さまに背を向けた僕を庇ってくれた。そして、僕の同じ力を持つ連中の…包丁が腹に刺さって、バールが肩を壊して、金属バットが頭を打った」

シズクはゆっくりと己の腕を持ち上げ、自分の掌を見下ろす。その手は、小刻みに震えていた。震える腕で、自らを抱き締める。

「…ぶっ倒れてさぁ、笑うんだよ、あいつ。今まで何してたの、急にいなくなるから心配したんだよ、って。…無事で良かった、ってさぁ…今は…今は自分の心配をしろっての…ねぇ」

震えているのは、腕だけではなかった。彼の丸まった背中、そして声。滲み出る後悔に、ひかりはぐっと息を飲む。

「…でも、神さまなんだし…死なない、だろ?」

「死ぬよ」

ぴしゃりと迷いなく言い放たれた声。扉の方を見れば、顔を顰めた和舞が立っていた。

「神さまだって死ぬ。おれたちよりずっと永く生きてるってだけで、いつ死んでもおかしくない。そんで、エオは今、生きるか死ぬかの瀬戸際だ」

普段は軟派な和舞が、険しい顔でシズクを見ている。そういえばエオルアが倒れたと思われた瞬間に、和舞が殺戮に走った。和舞は神と親交が深いというし、きっと彼の中で何かが切れたのだろう。

「僕が迷った所為だ」

そして、シズクの震える声。

「…ほんとは、本当はあの日、エオが僕をまた見つけてくれたから。だから、ヘヴンズゲートを抜けようって思った。僕の神さまはちゃんといた。天子さまは神さまなんかじゃないんだ、って。でも、でも」

言葉が詰まる。話すのを躊躇っているようなあるいは困難なような、とにかくシズクは吟味するように言葉を選ぶ。

「エオを、神さまを許せない自分がまだやっぱり心のどこかにいて、それで。結局ヘヴンズゲートに残って。…ぼんやり日々を過ごしてたら、気付いたらなぜか、僕の近くに鶴科ハトリがいた」

ハトリ。ひかりはベッドに視線を遣る。閉じられたカーテンの向こう、静かに眠る愛しい人。

「鶴科ハトリが羨ましかった。人も神も全てを愛せるあの子が。僕もあの子みたいに、エオを受け入れたかった。…もしかしてあの子といれば、いつか心からエオを受け入れられるんじゃないかって、思ったりした」

シズクの独白は続く。声は震えたり通ったりさまざまだった。しかし、それも今の彼の心の状態なのだろう。

「だから、天子さまが鶴科ハトリを捕らえろって言った時、今度こそヘヴンズゲートを抜けようって決めた」

揺れ動いていた彼の声が、一際強い響きを伴った。しかし、

「…なのに、僕は鶴科ハトリを、天子さまのところまで連れて行ってしまった」

彼は目を伏せ、右手で顔を覆う。取り返しがつかないことをしたと言わんばかりに、それをどうにか取り繕おうとするかのように、唇が戦慄く。

「…羨ましくて、憎かった。僕にできないことを成せる彼女が。だから、天子さまの手に堕ちるなら堕ちてしまえ、って思っちゃったのさ」

僅かな憎しみを孕んだ声に、ひかりのこめかみがぴくりと動く。またシズクに掴みかかりそうになったが、なんとか理性で押し留める。
そしてシズクは顔を上げる。じっと、ひかりを見る。

「言い訳にしかならないのは分かってる。でも、僕は。…僕は、天子さまの腕に抱かれる鶴科ハトリを見て、違うって思った。鶴科ハトリがいるべき場所はそこじゃないって」

シズクの紫が、ひかりの銀を深く深く、射抜くように、まっすぐに。

「鶴科ハトリを、君に返さなきゃって」

はっとひかりは瞠目した。まさか、シズクは、ハトリを。こみ上げる何かを感じているうちに、シズクの視線がカーテンの閉められたベッドに移る。

「でも、エオは」

「心配すんなシズク」

その時、シズクの肩を叩いたのは和舞。先程までの険しい顔はどこへやら、いつも通りのへらへらした様子で笑う。

「キヨ先生はお手上げ状態だけど、エオは最高神エアイエの弟。他の神が見捨てるわけないっしょ」

和舞の言葉が引き金となったかのように、ベッドを囲うカーテンがふわりと浮いた。

「概念と事象の数だけ神がいる。つまり、医学の神さまとかもいるわけ。そいつらが付きっきりみたいだから、なんとかなるなる」

突然の怪奇現象のようなものにひかりは目を丸くするが、和舞は笑っているし、シズクは目を見開いている。シズクには見えているのだ。大好きな神を取り囲む数多の神々が。

「あとは、君がエオを信じてやって」

彼の頬に、一筋の雫が伝った。







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