「良かったね、休講」 ふと耳に届いた声。人の量が少ない階段のところまで来て、シズクは足を止める。 「いつまでいるの」 「今から東北に帰るから安心して」 振り返った先に浮いている死と雨と消滅の神は、柔らかく微笑む。シズクはふいと顔を背け、「…そう」とだけ漏らした。 「……あ、ちょっと寂しそうになった。大丈夫だよ、呼んでくれたらいつでも飛んで来るから」 「寂しくないし呼ぶこともないから早く帰って」 はいはい分かりましたよ。そんな声がしたと思えば、匂いが変わった。先程まで雨の匂いがしていたのに、今は人間の匂いがする。生活の匂い、人工的な匂い。胸の奥がじんと痛んだ。 とにかく次の空き時間を潰さねばならない。とりあえず自分が所属する研究室にでも行こうと思ったその時、ぱたぱたと足音がした。その音がすぐそばで止まる。 「あ、あの、」 音がした方を見れば、息を切らした茶髪の少女がいた。その顔に見覚えがある。 「あの、えと、理学部棟の35番教室ってどこです……あっ」 息を整えて顔を上げた少女の言葉が詰まった。 「……鶴科ハトリ、さん」 シズクの口から漏れた名前に、少女、ハトリは小さく頷く。間違いない、今人気急上昇中の二人組アイドルの片割れであり、数日前にシズクが襲った少女だ。まさか同じ大学の学生だったとは。 「……あの時の…?」 彼女の問いにシズクも頷く。てっきりそのまま脱兎の如く逃げ出されるだろうと思ったが、返ってきたのは優しい笑顔だった。 「良かった、元気そうで」 思わぬ言葉に、シズクの表情が固まる。 「あんな雨の中でずぶ濡れだったから、風邪引いてたらどうしようって、ずっと心配だったんです。それに、あの日とても泣きそうにしてたから、元気そうで、嬉しい」 何故彼女はこんなにも眩しく笑っているのだろう。胸の奥に何かが痞えるような感じがして、シズクは目を伏せた。そしてそばの階段を指差す。 「……35番教室は、この階段上がって三階の、左に曲がった突き当たり」 ぱあっとハトリの笑顔がさらに輝く。「ありがとうございますっ」と階段を上っていく彼女の背を見つめて、 「もしかして、守谷先生の教養科目?」 いつの間にか口が動いていた。ハトリは振り返り、小さく頷く。 「期末テスト難しいから、過去問欲しかったらまた言って。君んとこの神さまからエオルアに伝えてくれれば、届ける」 ハトリが「はい!」と大きく返事をして、階段を駆け上がっていく。不意に口元が緩むのを感じて、慌てて抑える。その時、チャイムが鳴った。彼女は間に合っただろうか。 チャイムが鳴り終えるとほぼ同時、上着の内ポケットに入れていた携帯電話が震えた。 「……もしもし」 「よお、シズク」 電話の向こうと同じ声、同じ言葉が背後から聞こえた。振り返れば、茶髪の男。 「なーに神さまとハトリに絆されてんのさ」 「………別に、そんなつもりはない」 「そ。なら、問題ないよね」 男はシズクを見つめる金色の目を細め、その整った顔を恍惚に歪めた。 「始めるよ、紫梟(シズク)」 [ back to top ] |