「エオ……」 和舞の口から漏れる音にも近い声。 「やっぱりおまんこっちに来とったがか!なして出雲郷におらんかったがや?!」 「え、エオに会うために帰ったんじゃなかったの?」 「おらんかったんだがん!」 薔薇戦争には、和舞が虚空に向かって独り言を言っているようにしか見えない。しかし、そこには確かに神がいるのだ。纏う雰囲気が突如変貌したシズクがそれを物語っている。シズクの紫の目は茶色に染められていたし、長い前髪を鬱陶しそうに自ら?き上げていた。 「こいつに襲われた時、確かにエオの気配がしたんだがん!」 「俺はずっと東北にいたよ」 シズクが口を開く。否、中にいるのはシズクではない。和舞の独り言とシズクの口から出た言葉で察した。彼の中にいるのはエアイエの弟神であり、東北の地神エオルアだ。 「噂を聞いたんだ。カミツキを襲う奴がいるって」 「えっ、もしかしてエオ、妾のことを心配して…?」 「………べ、別にエア姉のことなんか心配じゃないから」 エオルアの頬がほんのり色づいているような気がしたのは、薔薇戦争だけではないだろう。傍らで和舞がにやけている。そしてエオルアは態とらしく咳払いをして、自分の、シズクの胸に手を置いた。 「俺は、この子が気になったから下ってきただけ」 「下るだけならまだしも、ピンチのとこでシズクをカミトってきたあたりやっぱりエアイエのこと心配して」 「和舞は黙ってて!」 その時、錆びたナイフを持つエオルアの右手が動き、自らの首筋にあてがう。走る緊張。しかし、エオルアはただ息を吐くのみ。 「ごめんね、シズク。少しだけ体を貸して欲しい」 ナイフを持つ手は小刻みに震えていた。まるで何か見えない力と拮抗しているように。そしてさらに見れば、微笑んでいるエオルアの左の頬が少し引き攣っていた。茶色い目の中に、淡い紫が浮いては消える。 「この子がこうなってしまったのは、多分、俺の所為だ」 はっと、紫の左目が見開かれる。 「俺がこの子を裏切ったから」 ナイフを持つ手から力が抜ける。水溜まりにナイフが落ちる。がくりと項垂れるのは、エオルアか、それともシズクか。 「……そうだよ、エオルア」 顔を上げたそこには、紫の目。その紫の視線の先に、病的に白い肌を持つ黒髪の男神の姿。紫と茶色が交わる。 「お前は、神さまは、僕の母さんを助けてはくれなかった」 紫の視線が動く。紫と橙の視線が交錯する。 「どんなに祈っても願っても、神さまは僕の願いを聞き入れてくれなかった」 そして、紫は再び茶色を射抜く。 「そのくせ、自分が気に入った人間には勝手に取り憑いて、特別扱いするんだ。僕の願いを聞き入れなかったくせに、母さんを助けてくれなかったくせに!」 シズクはエオルアの胸倉に掴みかかっていた。しかし、エオルアの表情は何も映さない。シズクの怒りとも悲しみともつかない感情だけがエオルアにぶつけられる。 「…神さまって何なのさ」 消え入りそうな悲痛な声が、エオルアの耳に届く。 「みんなに平等なのが、神さまなんじゃないの」 エオルアは微かに目を瞠る。エオルアの胸倉から手を離し、ずるずるとシズクは濡れた地面に膝をつく。 「どうして僕ばっかり、こんな、独りで……」 雨はいつの間にか止んでいた。濡れたアスファルトの不思議な匂いが、鼻をついた。 [ back to top ] |