「……どちらさまかな」 水溜まりを踏む音。彼が振り返った先には、一人の少女が傘も差さずに立っていた。少女の赤い目が彼を見る。 「帝都大学理学部地球科学科気象科学専攻守谷研究室所属三年、雨宮シズク」 少女の口から紡がれる自らの肩書きに、彼……シズクが僅かながらに肩を揺らした。 「少し話を聞かせてくれないかしら」 シズクの唇に弧が浮かぶ。 「遠慮願いたい、って言ったら?」 瞬間、少女が腰に差した刀に手を伸ばす。ちき、と固い音がしたと思った時には、少女はシズクの頭上に。 「実力行使させてもらうわ」 振り下ろされる刀。しかしシズクは軽く後ろに一歩跳び退き、少女…薔薇戦争の一閃を難なくかわす。薔薇戦争の追撃は止まることを知らない。シズクはその全てをかわすのみ。 「僕は、誰かも分からない君に刃を向ける理由はないんだ」 「わたくしにはあるのだけれど」 「だから君は刃を向けて、僕は向けてない。それだけのこと」 薔薇戦争の動きが止まる。シズクを見つめる赤い目を細めて、刀を鞘に収める。シズクの口元に、微かな笑みが浮かぶ。 「確かに、あなたにはわたくしに刃向かう理由はない。けれど」 しかし、シズクの笑みがすぐに崩れる。代わりというように、薔薇戦争のその美しい顔に笑みが滲む。 「けれど、彼……彼女なら、どうかしら」 シズクの頭上。顔を上げた彼の前髪が靡いて、紫の瞳が橙の光線を捉える。そして、傘を手放した彼の手が掴んだ錆びたナイフは、銀色に輝く鋭利な針を受け止めていた。 「おまんが目的は妾だら?」 神に奪られた女王蜂の体が軽く宙を舞い、音もなく地に足をついた。露わになったシズクの目には、苛立ちが垣間見える。 「なしておまんは神を襲う?」 「神さまなんかに教える義理はないよ」 ようやく刃を手にしたシズクから伝わるのは、明確な殺意。 「そんなことより、消えてくんない」 シズクがエアイエに向かって突っ込んでくる。それをかわして、シズクに針を突きつける。しかし今度はかわされ、二人の距離が大きく開く。 「代わるよ、エア」 「すまんな、和舞」 雨の中でも輝いて見える橙が、ディープピンクへと移り変わる。中身が入れ替わっても、シズクは構えを解かない。彼には見えていた。和舞に憑いているエアイエが。 「……消えろってば」 シズクの顔から感情が抜ける。ひとつだけ、怒りのような色だけを残して。シズクがナイフを構える。和舞も、猟奇的な笑みを浮かべ、針を構えて走り出す。ナイフを振り上げたシズクの懐に入った和舞が見たのは、紫。そしてその紫が見開かれ、彼の体がびくりと大きく震えた。瞬発的に和舞は地を蹴り、シズクから距離を取る。シズクの体が脱力し、振り上げていた腕がだらりと下がる。 「…何…?」 薔薇戦争の困惑した声が雨音に掻き消される。そしてゆらりと顔を上げたシズクの目の色は、痩せた土にも似た茶色になっていた。 「…………エオ?」 和舞が口を開く。シズクは、シズクの茶色は和舞の姿を捉えて、にっこりと儚げに微笑んだ。 [ back to top ] |