novel | ナノ
彼はずっと、眠るハトリの手を握ったまま微動だにしない。不健康そうな隈に縁取られた銀色の目には、疲労が滲んでいる。

「そろそろ君も眠りたまえ、ひかり」

何度目かともつかぬキヨの言葉。しかしひかりはその言葉を聞く度に首を横に振って、彼女の言葉を拒否する。はぁ、とキヨは態とらしく溜息を漏らして、ハトリの手首に指先を当てる。

「ハトリ嬢が起きた時のことを考えてごらん。君がそんなにやつれていては、彼女が悲しむよ。そんなことも分からないのかい」

「……でも、オレは…」

「…まぁ、ここまできたらもう、好きにするが良いよ」

脈拍は正常、とカルテに書き込みながら、キヨは呆れ気味に事務椅子に腰掛ける。その時、ギィ、と椅子が軋んだ音と、扉をノックする音が重なった。

「どうぞ」

キヨ返事に応えるように、ギィ、と、椅子の軋みとよく似た音がする。そして、鼻をつく香ばしい匂いがした。ひかりが少しだけ反応を示す。

「ひかりがここにいるって聞いて。ご飯持ってきたよー」

食堂の主たる遥叉がトレイを手にして意気揚々と医務室に入室する。そしてひかりのそばまで歩み寄り、彼の顔を覗き込んでにっと笑った。しかしひかりは苦々しく眉をひそめ、ふいと顔を逸らす。

「……いらねぇ」

「そんなこと言わないで!…っつっても、今の君には無理なんだよねーキヨ先生の様子を見るに。でもほら、スープだけでも、いや、この際水だけでもいいから、飲みなよ」

ベッドの傍らの小さなテーブルにトレイを置く。ちらっと横目でトレイの上を確認する。よく焼けたパンとビーフシチュー、クルトンが浮かんだコンソメスープと野菜がたっぷり盛られたサラダ、そしてコップ一杯の水。ひかりはコップを手に取り、一息に水を呷った。ほっとしたように遥叉は胸を撫で下ろす。

「…なぁ、ひかり」

キヨが口を開く。ひかりはコップをトレイに戻してから、また先程と同じように眠るハトリの顔に視線を落としていた。構わず、キヨは視線を虚空に投げて続ける。

「君を初めて見た時、君の心の傷はとてもとても深いんだなってすぐに分かったよ。私は長年医者をしているから、どんな怪我や病気や…心の傷だって治せる自信があった。しかし君は、私の自信を打ち砕いたのさ。君の心の傷は深すぎて大きすぎて、埋めることも塞ぐことも私にはできない、こんな患者は初めてだって、お手上げだった。……でも、私ですら諦めた君の傷を、この娘は治してくれた。そりゃあ、そばにいたくなるし、ずっと離れたくないよね」

彼女の視線がひかりへと向けられる。ひかりは、ベッドに突っ伏して眠りに落ちていた。聞こえる二つの寝息に、くす、とキヨは笑い、自分の椅子の背凭れにかけてあったブランケットをひかりにかけてやる。

「すまないね、遥叉。薬を仕込んでくれなんて頼んでしまって」

「んーん、大丈夫。睡眠不足は食生活では補えないからね、全く、ちゃんと寝ろっつのバカひかり」

起きたら本人に言ってあげるが良いよ。キヨの言葉に、遥叉はひとつ噴き出してトレイを片付け始める。

「…そういえば先生」

「ん?何だい?」

「やけに熱く語ってたけど……先生も、そばにいたい、離れたくない人がいるってこと?」

キヨは微笑む。遥叉は満足そうに息を吐いて、「んじゃ、失礼しましたー」と医務室を出た。しかしすぐには立ち去らず、ぼんやりと廊下の天井を見上げる。じく、と、胸の奥に熱い炎のようなものが揺らめく。

「……僕にはそういうの、まだ分からないや。…君は、どうだった?優」



ハトリ、と、声が聞こえた。振り返っても、そこにいるのは起きる気配のないハトリと彼女のそばで眠るひかり。どうやら寝言だったらしい、キヨは淡々と業務をこなす。そして頬に焼け付く熱を感じて顔を上げれば、窓から西日が差し込んでいた。もうそんな時間か、と立ち上がり、カーテンを閉めたその瞬間。また医務室の扉がノックされた。

「どうぞ」

キヨの返答。しかし、扉はすぐには開かない。訝しむように扉に近寄る。そして扉の向こうの気配の正体に気付く。ドアノブに手をかける。扉を開く。

「……えへ」

たくさんの分厚い本に腕を塞がれた女王蜂が、申し訳なさそうにはにかんでいた。






[ back to top ]