「眠っているだけなんだけどね」 ハトリの手を握って項垂れるひかりの傍ら、キヨがカルテを見ながら口を開く。 「あのナイフの位置、即死かなぁと思ったんだけど……傷になってないんだよね」 傷がない。その言葉にひかりが勢いよく顔を上げる。キヨも困ったように眉根を下げ、ハトリの服の胸元を大きく開いた。そこにあるのは、陽の光をほとんど浴びていないかのような白い素肌のみ。 「これが凶器なんだけれど」 ハトリの服を正し、カルテのファイルに挟んでいたそれを取り出す。ビニールの袋に入ったそれは、ハトリの胸に深々と刺さったはずのナイフだった。 「そもそも、こんなに錆びたナイフで何かを切れるわけないのだよね。けど、ひかりの目の前で彼女は確かに刺されたし、ここに運ばれた時にも確実に刺さってた」 ひかりは頷く。死んでいるかのようにハトリの体は微動だにしない。僅かな胸の上下は見えるけれど、閉じられた瞼が開くことはない。聞こえる寝息は細すぎる。 「しかし血は出ていなかった。ナイフに血も付いていない。肉体的には無事だ。が……意識が戻らない。なんなんだろうね、これ」 その時、医務室の扉が開く音がした。ひかりは応じない。キヨが顔を上げれば、笑みが滲んだ。 「やぁボス、薔薇嬢」 ひかり、と、彼女、薔薇戦争の声がかかる。その声色すらも疎ましかったのに、今は何とも思わない。それもこれも全て、目の前で眠る彼女という存在がひかりの心を浄化してくれたからだ。ハトリというかけがえのない存在を得て、人を想うことを知って、ある一人の人間を想う薔薇戦争も自分と同じだと気付いて、憎しみが馬鹿馬鹿しく思えた。そう思えたのは、全てハトリのおかげだ。 そのハトリが、眠りの淵へと堕ちた。起きるのか。起きる保証はどこにあるのか。そもそも何故彼女がこんな目に?思い起こされる一連の情景。そこにいるのは、雨の中傘も差さずに立ち尽くす黒い髪の男。その目が何を映していたのかは分からない。けれど、そう、あの男。あの男だ。 「あの男を捜してくれ…!」 振り絞るようなひかりの声に、薔薇戦争の赤い隻眼が僅かに揺れる。 「ですって、ボス」 声だけで問う。返事はない。薔薇戦争はひかりの震える背中を見つめ、そのままハトリへと視線を移す。 「…闇の中でもがいてたあなたに、光を与えてくれた子だものね」 幾度となく自分に向けられた憎しみが、死にたい消えたいという行き場のない陰鬱な苦しみが、彼の中から消えていることに気付いたのはいつだったか。気付いた時には、彼女は彼のそばにいた。 「待ってなさい、必ず助けるから」 そして彼女は踵を返し、病室を飛び出した。 [ back to top ] |