novel | ナノ
窓を叩く雨粒の音がうるさくて、ひかりは顔を顰めた。朝は晴れていたんだけど、念の為に傘を持ってきておいて良かった、けどすっかり本降りになってきやがった、などといろんな考えが頭の中を巡り、最終的に漏れたのは舌打ち。

「雨だね…」

隣でハトリの声がして、ひかりは口元を手で覆う。思わず、と言うのは体のいい言い訳に過ぎず、彼女の前で舌打ちをしてしまったことに恥を覚えた。ひかりの恥じらいにハトリも気付いたようで、小さな苦笑が滲んだ。その笑みが、ますますひかりの中の羞恥を大きくさせる。

「でも、雨の匂いってわたし、好きだよ」

テレビ局の建物を出た瞬間に、彼女の言う雨の匂いが鼻につく。湿気った匂いとしか認識していないひかりは、ハトリの言葉に首を傾げながら傘を差す。ハトリも傘を差したのを確認してから、雨が打つ地面を歩き始める。

「雨の匂いっていうより、濡れたアスファルトの匂いなのかな…わかんないけど、なんか、懐かしいって感じがするの」

懐かしい、その言葉に、首筋が疼いたような気がした。

「ひかりくんは、雨ってどう思う?」

ふと首に手を伸ばしかけて、止まる。

「雨、ねぇ」

雨。空から降ってくる水。自分はどちらかといえば雨が好きで、小さい頃は雨の中傘も差さずに遊ぶようなガキで。びしょ濡れで帰って、母に怒られて、すぐ風呂に投げ入れられてたっけ。
…雨。と、思考する。あの日。家と家族が燃えたあの日。雨が火を止めて自分だけが助かったあの日。もっと雨が早く降っていれば、否、最初から雨が降っていれば、家は燃えなかった。家族は燃えなかった。…どうしてあの日、雨は降らなかった。あの日、雨はオレを、オレたちを助けてはくれなかった。それ以来、雨は嫌いだ。
ぞわり、と首の疼きがいよいよ確かなものになる。

「ひかりくん?」

彼女の声が思考を断つ。首に伸ばしかけていた手を見て、引っ込める。首の違和感は、消えていた。
ハトリが心配そうな顔をして自分を見上げている。ごめん、雨好きだよ、と、ハトリの頭をひとつ撫でて、歩みを進める。
今は過去のことなんていらない、彼女が隣にいる今こそが大事なのだから。腕の時計を見る。23:54。1秒ずつ刻まれる大切な時間、ひかりはハトリを横目に見る。

「今日、遅くなっちまったな。何か食べて帰る?」

「あっ、うん。ごめんね、遅くなっちゃって」

「いいよ、大丈夫。何食べる?」

その時、ハトリの足が止まった。ひかりも止まる。彼女の視線の先、そこにいたのは青年だった。傘も差さず、雨の中、立ち尽くしている。

「…ひかりくん、傘、入れてもらっていい?」

「え」

「わたしの傘、あの人にあげてくる」

ひかりが返事をする前に、ハトリは青年の元に駆けていく。お人好しだなぁ、と思いながら、渋々彼女の後を追う。
青年はハトリに気付いたようで、ゆっくりと首を動かす。長い前髪はすっかり濡れきって、彼の目元を隠していた。意気揚々と青年に近付いたにもかかわらず、ハトリの手は震えている。

「あ、あの、よ、良かったら、かさ、」

そしてひかりの耳に届くハトリの声が、不自然に引き攣った。彼女の手から傘が滑り落ちる。ハトリの体が傾ぐ。

「……はとり?」

青年は傘を拾って踵を返す。ばしゃ、と、ハトリの体がアスファルトの水溜りに落ちた。

「………ハトリ!」

ハトリの体を抱き起こす。彼女の胸に刺さる錆びたナイフ。
青年は、消えていた。






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