novel | ナノ
「御幸ちゃん」

この声を、じゅげむは知っていた。ひた、ひた、と足音が迫る。何とか平静を保とうと唇を噛む。そして、足音がする方に視線を向けた。
暗闇に、赤が浮かび上がる。徐々に明るみに出るにつれ、それが黒地に赤いラインのセーラー服だと気付く。じゅげむが高校時代に着ていた制服と同じものだった。

「久しぶり、御幸ちゃん」

彼女は、そこにいた。彼女はそこにいて、じゅげむを見ていた。鼓動が高鳴る。胸を掻き抱く。この人は、六年前に亡くなったはずだ、なのに、何故。

「…さ…くら、こ、せ、んぱ…」

掠れるじゅげむの声に対し、彼女はにこりと照れ臭そうに笑ってみせた。その笑顔が懐かしくて、じゅげむの黒い目に悲哀の色が宿る。
…否、飲まれるな。この人は、彼女は、あの人じゃない。あの人は死んだ。見てみろ、姿形も六年前のままだ。あの人の時は六年前で止まっているはずだ。そしてそれは、二度と進むことがないはずだ。
首を横に振り、彼女を睨みつける。

「……あなた、は…」

あなたはあの人じゃないだろう。そう一言推量すれば、目の前の彼女の…死者に擬態するという"青葉の街"の化けの皮を剥くことができる。けれど、喉が震えない。息ばかりが漏れる。それでも、笑う膝を鞭打つことはできた。
彼女は眉根を下げ、首を傾げる。そして口元に手を当て、くすくすと笑い始めた。

「…てっきり、泣き崩れたり発狂したり…大喜びしたりすると思ったんだけど。……意外と強いんだね、御幸ちゃん」

じゅげむは奥歯を噛み締める。あの人は、吃音だった。それに、こんな嫌な笑い方をしない。こんな酷いことを言わない。現実とのギャップに、本物を知るじゅげむは何とか正気を保っていられる。
彼女はやれやれといった風に首を横に振り、自分の顔の前に両手を置いた。

「じゃあ、これならどうかな………御幸」

彼女の声が、いきなり野太い嗄れた男のものになる。その声を、じゅげむは知っていた。黒いセーラー服がはためくと、それは黒い着物になる。彼女が手をずらす。見えた目は赤く、その目尻に浮かぶ斑点もまた赤く。

「なぁ御幸」

白髪に黒い髪が数房。その顔を見て、じゅげむの目がこれまでにないほど見開かれる。彼は、身寄りのないじゅげむを本物の娘のように愛してくれた、しかし五年前に死んだはずの……

「……伎鶴(きかく)、さま…?」

彼は何かを含むような笑みを浮かべている。じゅげむの背中を嫌な汗が伝う。

「元気にしていたか、御幸?…鶴日はまぁ、元気だろう」

彼女を目にした時以上に、頭の中がぐわんぐわんと警鐘を鳴らしている。彼女には、ただ純粋に会いたかった。だから、生きてるはずがないという理性がかろうじてじゅげむを止めていた。しかし…彼には、会いたかったけれど、会いたくなかった。…彼の死から、逃げていたから。

「俺が死んだのはお前の所為だったよな、御幸」

彼の言葉に、走馬灯のように思い出される五年前。今となっては顔も思い出せないクラスメイトに尋ねられた他愛ない質問。「鶴日くんのお父さん、卒業式には来られるのかしら」
それに対して、他愛ない返事をした。「伎鶴さまは…もう、長くないだろうな」
その返事が……『推量が現実になる』言の葉が、彼を殺した。

「俺が死んだから、鶴日は即位した。今でこそ鶴日の治世は安定しているが、即位というのは大変なんだよ、御幸。お前は俺を殺すことで、鶴日にその重荷を押しつけたんだ」

じゅげむが膝からくずおれる。耳を塞ぎ、固く目を閉ざす。その目から涙が溢れた。今まで逃げていた現実が、容赦なくじゅげむに降り注ぐ。あなたは伎鶴さまじゃないだろう。そう推量すればいいだけの話なのに、そこまで頭が回らない。
彼はゆったりとした足取りでじゅげむに近付く。そして蹲るその体を軽く押してやれば、彼女の体は簡単に床に転がった。

「そうか、お前は俺を殺したという事実を受け入れたくないんだな。ならば、受け入れさせてやるのみだ」

起き上がろうとする彼女の体に蹴りを入れる。かは、と音が漏れた。そのまま足で転がして仰向けにしてやり、胸を踏む。

「全部お前の所為だ、御幸。お前の所為で俺は死んだ。お前の所為で鶴日の人生は変わってしまった。全部、全部お前の所為だよ、なぁ御幸!」

肺を潰すかのように踏み躙られ、じゅげむはもがく。彼の足首を掴むが、やはりどうしても抵抗することができない。徐々に視界がぼやけていく。意識が朦朧とする。意識の手綱をなんとか指先で摘んでいるだけの状態だが、それももう限界に近い。涙が溢れる。それが苦しみからくる生理的なものなのか、あるいは今まで逃げてきた罪の意識からによるものなのかは、今の白んだ頭では分からない。

『御幸ちゃん!』

そして、いつもそばにあった声がじゅげむの意識を拾い上げた。左耳のイヤホンから聞こえる、彼女の帰りを待つ彼の声。

『御幸ちゃん、しっかりして、御幸ちゃん!』

息を切らしながら、左耳に手を添える。

『今の御幸ちゃんは、昔の御幸ちゃんとは違う』

はっと目を見開く。

『今の御幸ちゃんのことは、僕が誰よりも知ってる!』

よみ、と乾いた唇が動く。

『僕がいるから。御幸ちゃん。僕は絶対にいつまでも永遠に御幸ちゃんの味方だから!』

じゅげむの手刀が、彼の足首に叩き込まれた。傾ぐ彼の体に、じゅげむは下から足を突き入れる。すぐに彼の下から退き、咳き込みながらも立ち上がった。

「…我は寿御幸にあらず」

床に這い蹲る彼を見る目からは、感情が消えていた。彼女はそのまま般若の面を被る。

「我が名はじゅげむ」

くぐもった声。白く細い指が持ち上がり、ゆらりと彼を指差す。

「お前は日元伎鶴ではないだろう?」

推量が現実となる。"日元伎鶴"の皮が弾け飛び、現れたのはスーツ姿の女。彼女は口端から溢れる血を拭い、じゅげむに向けて両手を上げる。

「……あんた、強いね」

じゅげむは何も言わない。しかし早足で草履を擦るように女に近寄り、その頬をぴしゃりと叩いた。






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