novel | ナノ
一瞬の出来事だった。珍しく仕事もない一日なので、薔薇戦争が流沙と出掛けようと真っ白なビルの外に出たその瞬間だった。
薔薇戦争の眼帯が弾け飛び、唯一の右目に裂傷が走った。彼らの目の前には、男にしては長い髪を一房肩から流していた青年。空色の目はどこか物憂げな色をしていた。右手には刀が握られていて、その刀身が赤く彩られている。薔薇戦争の顔から赤が溢れた。

「……ば…ら………?」

脳裏をよぎるあの日の出来事。自分が彼女の左目を奪った事故が走馬灯のように流沙の脳内を駆け巡る。ふらりとよろめいた薔薇戦争の体を抱き留め…ようとした瞬間、そこに彼女はいなかった。首を巡らせれば、あの黒髪の男が薔薇戦争のぐったりとした体を抱いていた。彼は刀をしまい、薔薇戦争の長い前髪を掻き上げ、今しがた彼がつけた傷をなぞる。彼女の悲鳴が聞こえた。ここからでは、薔薇戦争の傷がどうなっているのか分からない。

「やっと手に入れた」

黒髪の彼の声がした。

「いとしい愛しい、薔薇の乙女。愛すべき薔子」

はっと息が詰まった。今、こいつは薔薇戦争の本名を口にしなかったか。何故、今いきなり現れた謎の男が薔薇戦争の本名を知っている?焦りが募る流沙を気に留めることなく、薔薇戦争を傷つけた青年は愛おしそうに薔薇戦争の頬を撫でている。そして彼の顔が彼女の顔に近づき、唇が近づき……触れようとしたが、突然動きを止めた。まるで金縛りに遭っているかのように。

「薔薇様に触れるな」

声のした方を振り返れば、黒いマントを羽織った灰色の髪の青年がいた。普段はおっとりとした優しげな黒い目に映るのは、怒り。
ビルが太陽の光を浴び、長い影を地面に移す。彼、シャコンヌS……エス、と呼ばれている……は、その影で青年の影を縫い止めていた。

「ただでさえ流沙と薔薇様がいちゃついてるのを見ることさえ億劫なのに、君のような部外者が薔薇様に触れるだなんて虫唾が走る」

いつもはもごつきながら言葉を濁すエスが、薔薇戦争のこととなるといきなり饒舌になる。それが本当にいつも通りの様子で、流沙の焦りは徐々に収まっていく。

「いやですねぇ」

しかし、飄々とした声がまた空気を凍らせる。動きを止めた黒髪の彼は、笑っていた。そして流沙ははっとする。よく見れば、美しい男だった。その美しさを、どこかで見たことがあるような気がした。

「俺の手の中に薔子がいるのは当たり前のことなのですよ?」

彼の美しさを吟味……否、彼の美しさに見惚れていたのかもしれない。だから流沙は、すぐには対応できなかった。横殴りに襲い掛かる猛烈な突風に。

「!?」

吹き飛ばされ、受け身も取れないまま地面に投げ出される。背中を打ったらしく、猛烈な激痛が走る。エスの意識が一瞬襲撃者から外れた。ほんの一瞬。

「やはり彼の情報に間違いはありませんでしたね」

その一瞬で、彼は日の当たる場所に移動していた。エスがくっと歯噛みする。影がなければ彼を捕まえられない。

「優秀な方です。帰ったらご褒美を差し上げましょう」

薔薇戦争を横抱きにしたまま彼は舌舐めずりをする。それさえどこか妖艶で耽美で、流沙は起き上がれないままやはり拭えない既視感に違和感を覚えた。しかし、すぐに意識は現実に戻される。横抱きにされた薔薇戦争が気を失っていることに気付いた。そして、夥しい量の血が傷から溢れていた。薔薇、叫ぼうとして、肺が軋むような感覚がした。声にならない息だけが漏れた。

「あぁそうだ、この際ですから、あなた方にお伝えしたいことがあるんです」

空色が流沙ではなくエスを見る。すると、何もないのにエスの体が弾かれた。そこに見えない電流が走ったかのように。エス、と掠れた声だけがなんとか発された。

「あなた方は己を神に愛された者などという。ならば俺たちは何なんでしょうねぇ」

教えてあげましょうか、なんて軽々しい声。仰向けのまま流沙は彼を睨みつける。しかし、明らかに状況は最悪で、彼は流沙の視線などものともしない。
彼は薔薇戦争を抱いたまま踵を返す。奪われる、薔薇戦争が。俺の、薔薇、が、いなくな、る。

「俺たちは見捨てられた者。神に愛されたあなた方を引きずり落としに参りました」

まずはあなた方からですよ、流沙、シャコンヌS。そんな言葉が、聞こえた気がした。







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