novel | ナノ
かつての主人の屋敷は、かろうじて面影は残っていたが少し襤褸くなっている気がした。無理もない、彼が此処にいたのは三百年も前の話なのだから。屋敷が老朽化するのは当たり前だ。屋敷の門を叩けば、見知らぬ少女に出迎えられる。無理もない、彼が此処にいたのは三百年も前の話なのだから。少女を見知っているわけがない。
少女に連れられ、主の部屋に辿り着く。部屋の中にいたのは、美しい女だった。吊り目だが翡翠の眼差しには慈愛が含まれている。彼の中で血がざわつく。そして血が告げる。彼女が今の当主だ、と。

「おかえり、化け物」

「…只今戻りました」

跪き、首を垂れる。顔を上げろ、言われるがままに面を上げれば、当主の翡翠と目が合った。

「私が幼い頃に死んだ奴が最後だと思っていたのだが、まさかまだ一人いたとはな。まぁ、話は察しているよ、よく戻ってきてくれた」

髪を纏める簪の飾りを揺らしながら彼女は立ち上がり、彼の目の前に進み出る。ここぞとばかりに彼は顔を上げ、当主を睨めつけた。

「当主、今日は折り入ってお願いが、」

「さて」

しかし当主は彼の言葉を阻み、着物の裾をたくし上げて指を鳴らす。すると、彼を案内してくれた少女が当主と彼の間に入り込み、彼の目の前に手を翳した。その途端、眠気にも似た倦怠感に襲われ、意識を飛ばしかける。が、何とか踏み止まり、少女の腕を掴んだ。しかしびくともしない。まるで石のように重く、冷たい腕であるような錯覚さえ覚えた。
目を塞がれ、当主と少女が何をしているのか分からない。何とか逃れなければ、そう思っていると、足が動かないことに気付いた。氷のような固い何かが足元から侵食してくる。その速度は早く、あっという間に胸元にまで到達した。意識を落とすまいと抗うが、頭の中がぼんやりとしてくる。

…ごめん、ローザ。

声になったかどうか、本人でさえも分からないままに彼の意識は闇に堕ちた。



「おやすみ、甘い華に囚われた化け物よ」

葉を芽吹かせる名を持つ当主は翡翠色の目を細め、眠った彼が結晶に飲まれていくさまを見つめていた。

「未来に咲く華の為にしばし眠れ」





彼がいなくなって半年が過ぎた。一ヶ月前から彼女は日記を書くことにしていた。彼がいない寂しさを紛らわす為だったのか、あるいは彼が戻ってきた時に「私はこんなに待ったのよ」と雑談の種にする為だったのかはあまりよく考えていなかった。
今、屋敷には両親がいる。そして、客足が増えた。客達はひとしきり両親に怒鳴って、そして帰っていく。メイドも減ったし、食事のメニューも日に日に貧相になっていっている。どうやらこの家がもうすぐ終わるらしい。…"神"がいなくなったからかな、ぼんやりとそんなことを考えていると、部屋の扉がノックされる。軽くひとつ返事をすると、両親が入ってきた。

「ローザ」

母に呼ばれ、彼女は両親の前に進み出る。ウォーブローの"神"を逃がしたことを言及されるのかと思ったが、父は封筒を差し出してきた。

「ジパング行きの舟券だ」

ジパング。その国の名前を聞いて、彼女は顔を上げた。彼が行った国だ、そう思った。しかし、両親の微笑みを見て一瞬、彼のことではなく目の前の両親のことが脳裏をよぎった。

「…ウォーブローはもうおしまいだ。ローザ、お前はジパングに逃げなさい」

「……え……?」

「家、敷地、何もかももうすぐなくなる。娘を差し出せばいくらか金が入ると脅されたが、大事な娘を売り飛ばすなんて私達には出来ない。だからお前は逃げなさい」

どういう意味なのか、すぐには理解できなかった。だが、両親の言葉に胸の奥があたたかくなるのを感じた。ローザは頭を下げ、封筒を受け取る。さぁ支度を、母に言われ、ローザは頷く。

「ケイカインという、ウォーブローと親交のあった家がお前の世話をしてくれる。言葉、文化、いろんな壁があるかもしれないが…どうか、乗り越えて強く生きてくれ」

初めて感じた親の愛情を痛感し、何度も何度も頷く。涙が頬を伝う。どうして素直になれなかったんだろう。ごめんなさい、ごめんなさい、…ありがとう。言葉にならない嗚咽を漏らしながら、彼女は荷物をまとめ始めた。





祖母のように慕っていた、異国から来たメイド長の葬儀が終わった。年老いたメイド長はいつも彼女に、「誰かを愛することは素晴らしいことですよ」と口癖のように言っていた。


「ローザは誰かを愛したの?」

「えぇ、少し意地悪だけど寂しがり屋なひとを。今でもずっと愛していますよ」


「お嬢様は昔の私にそっくりです」

「ほんと?」

「えぇ、自分で言うのも何ですが、私、とても美しかったんですよ」


メイド長と過ごした時間が空間が、走馬灯のように蘇る。目の奥が熱くなるのを堪えていると、母に呼び出された。ぐずつく鼻をすすって母について行く。するとそこは、屋敷の地下だった。そして、暗い地下室の中で煌めく大きな結晶を見つけた。

「荊華院の宝です」

「……宝…?」

母の言葉を訝しみながらも結晶に近寄る。すると、その結晶の中で眠る美しい青年の姿を見た。どこか彼女の同僚と似ている気がした。しかし、そんなことよりもこれは何なのかという疑問の方が大きかった。思わず母を見やると、彼女は頷く。

「書物で読んだことがあるでしょう。荊華院に使役される化け物の最後のひとりです」

母の説明に、彼女は息を飲む。確かに書物で読んだ。まさか本当に存在しているとは思わなかった。

「わたくしの曾祖母……あなたの高祖母である葉ツ芽の時代に、異国から戻って来たそうです。その時に葉ツ芽が未来の荊華院の為に眠らせたのだとか」

母が手を叩くと、メイドが姿を現した。普段はドジばかり踏む愛らしいメイドは、今は憂いを帯びた目を細めて真剣な顔をしていた。

「今がこの時です。巳子、よろしくお願いします」

メイドは頷き、結晶に手を翳す。すると結晶は頂点から氷のように融解し始め、内包していた彼が姿を現した。
ゆっくりと彼が目覚める。その深い青は、彼女を映した。

「…………」

言葉を発そうとしているようだが、声が上手く出せないらしい。しかし彼女は、彼の唇の動きをしっかりと見た。

…ローザ?

確かにそう動いた。たったそれだけだったけれど、彼女の中にある仮説が浮かんだ。

「おはようございます、美しき化け物よ」

桐の名を持つ当主は翠の目を見開き、融解する結晶の中から現れた彼を見つめていた。

「あなたは我らの華である薔薇を守る為に目覚めたのです」

彼は当主を見やり、そして彼女を見る。そして、その青い目に諦めにも似た儚い色が宿った。先程の口の動き、彼の目、彼女は悟った。そうだ、彼はきっと、彼女の………もし本当にそうだとするならば。
彼女は彼の前に出て、彼の手を取る。氷のように冷たかった。その冷え切った手を両手で包む。彼の青が驚きに満ちる。対して彼女は柔らかく微笑み、彼の青を見つめた。

「…わたくしに、従いなさい」

眠りに就いた彼女の代わりに彼を幸せにする方法を見つけなければいけないと思ったから。



…斯くして、二人の運命を翻弄させた沙霧の果てに待っていたのは、うるわしき荊の華だった。





Title by Discolo



[ back to top ]