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::蜜の匂い

久しぶりの時代劇。つまり、殺陣芝居だ。動き回るのは得意じゃないというか、できることなら楽をしたい性分だが、殺陣は別だ。だって、あの人に会えるのだから。

「ハァーイ今日はここまでな!各自しっかり復習しとけよ!あとそこの新人!体力つけねぇと板の上でおっ死んでも知らねぇぞ」

緑に艶めく黒髪を雑に結わえ、マスクにジャージ姿の女性が模造刀を片手に吼えている。名指しされた新人は肩を震わせながらひたすら頷いていた。
殺陣稽古が一旦終わり、休憩に入る。彼女の仕事はここまでだ。素早く支度を終え、彼女が稽古場から立ち去る。
しばらくして、彼も稽古場を離れた。移動用の非常階段を駆け下り、目的の人物の後ろ姿を見つけて思わずにやける。

「お師匠!」

呼びかけると、彼女が振り返った。簪でまとめられた黒髪、くすんだ桜色の目、そして落ち着いた海松色の着物。その手には、綺麗に畳まれたジャージ。

「ほんと、着替えるの早いですねー」

彼女は黙り込んだまま、頷く。その目はどこかぼんやりとしていて、彼を見ているのかすら怪しい。しかし彼はそんなことを気にも留めず、ふと感じた疑問を口にする。

「あれ?今日旦那さんは?」

「……ちょっと遅れるって連絡来てた…」

先程の叱咤とは打って変わってひ弱な声。そうなんだ、と相槌を打つと、彼女は携帯端末を見て、彼の方を見た。

「…早く稽古場に戻った方がいいんじゃない…?」

「……あ、ほんとだ」

時計を見れば、稽古再開の時間が迫る。じゃあまたねお師匠、と踵を返し、階段を上り始める。…あぁ、この瞬間がとても好きなのだ。

「…ちゃんと復習してないと、ぶった斬るぞ、って初代さまが言ってるから、よろしくね…」

了解、と背中越しに答える。彼女が階段を下りていく足音が聞こえる。

殺陣師玉水。芸能界に突如現れた鬼才。現在の芸能界、特に舞台界隈で彼女の名を知らない者はいない。
…しかし。
殺陣師の彼女は仮初めであること。彼女に夫がいること。彼女の素顔。彼女の素性。彼女の本名。一つも漏れてはいけない、漏れればその界隈が大騒ぎになるようなことを、彼は全て知っている。それがたまらなく幸せなのだ。そして。
その秘密を本人と共有する瞬間。自分の中で静かに保管しながら、何も知らない連中の中に入る瞬間。自分だけが全てを知っているという優越感が、匂宮香衣にとっての甘い蜜なのだ。




 

2017.11.10 (Fri) 20:36


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