★999本の薔薇園から

・『演者は薔薇園のレストランで踊る』より『999本の薔薇園から』サンプル。
・静雄×臨也。
・静雄が薔薇を育てるシリアスな話。


【1】

家を出ると、なかなか実家に帰って来ない者もいるという。
家庭を持てば、子育てに追われて盆と正月にしか帰れないのかもしれない。
仕事で忙しいのかもしれない。大人気俳優として日本のみならず世界を飛び回る弟もその一人なのだろう。彼と最後に会ったのは何ヶ月前になるのだったか。
その割には、自分はよく実家に帰っている。何も知らない人ならば、家を出なければ良いだろうと思うかもしれない。
実家に頻繁に帰っているのに、自分でも何故一人暮らしを始めたのか曖昧なまま今でも古いアパートを寝床にしていた。
正確には実家に帰っているのではないからだろう。実家に付属している庭に帰りたいだけなのだ。庭の面倒を見たいから帰る、それだけのことであるから、両親と会話をすることも少ないし、夕飯を食べて帰ることもない。機械的に庭の面倒を見ているだけだ。
自らの手で育てた薔薇たちは最近百本を越えた。実家の庭で子供の頃から育てていたそれは、幾度の冬を乗り越え、強かに花を付ける。蔓薔薇にない、凛とした佇まいは平和島静雄の支えであった。
百数本の薔薇の手入れにかかる時間は少ない。仕事帰りの毎日の世話が功を奏しているのだろう。
けれども、彼はその内のまだ背丈の低い一本を乱暴に踏み潰した。足を離してみれば、粉々になった花びらが土に混ざっていた。まるで血痕のように飛び散った紅い花びらは、そのうち腐って土に還り、他の薔薇たちの餌になるだろう。
いくら時間をかけられたといえ、かつての同族を食べるという行為は、静雄にとってすれば共食いにしか見えない。だが経験の礎の上に成り立つのが生物の進化なのだとしたら、その行為は妥当なのだろうとも思う。それくらいには静雄は大人になっていた。



静雄が幼かった頃、平和島家の裏手には美しい邸宅があった。西洋風の建物に老婆が一人住んでいるだけの、少しだけ裕福そうな一般家庭である。
だがその家は他とは決定的に違った。家全体を覆うように、庭に花という花が咲き乱れているのである。中年の女が暇潰しに始めるガーデニングではないのだ。花の一つ一つが綺麗に開き、一切の無駄のない完璧な庭園だった。世界中に広がる、春に花をくすぐる甘い香りは全てあの家から漂ってくるのではないかと錯覚するほど見事だった。
小学校の通学路の途中、静雄は必ずその家の前を通った。
庭の様子は毎日少しずつ変わっていくこと、時間と空模様にも大きく影響されることを知った。
同じマーガレットでも、ある日には桃色に見えたり、ある日には黄色に見えたりするものだった。自分の目に映っているのは確かに白いのだけれども、マーガレットの纏う全身の姿がそう見せているのだろう。
こんなことを人に語ったら、可笑しいと笑われるのだろうと静雄は思った。そもそも語る相手がいなかった。同年代の子供だけでなく、通りすがりの近所の大人ですら静雄を見るたびにそそくさと離れるのだ。道端の石に躓いて転んだとしても手を差し伸べる者など誰もいなかった。だから夕暮れ時に邸宅の庭を長い間見つめていても誰も咎めなかった。

ある時、装飾された塀の柵の間から庭を勝手に覗いていたら背後から声を掛けられた。買い物袋を下げたこの家の主だった。
すぐさま静雄は謝って逃げ出そうとしたが、老婆の呼び止める声に振り返ってしまう。庭を案内する、と門を開けた老婆に促されて、静雄は豪奢な庭に足を踏み入れた。
色とりどりの花が鮮やかに植えられて、緑の葉と柔らかい匂いが立ち込めている。中でも薔薇が見事だった。様々な色と形の薔薇を息を飲んで見つめた。渦を巻いた花弁に飲み込まれるようだった。
毎日花を見に来る理由を訊かれたが、静雄は視界に入る情報を捌ききるので精一杯で、殆ど中身のある返事はできなかった。
その様子を見て老婆は薔薇に鋏をいれた。一輪を手渡される。
植物の茎に触れるのは初めてだった。思っていたよりも重く、湿っていた。根から吸い上げられた水が体内を循環していることを知る。切られた茎の先端が少し濡れるのを見て、血が溢れてくるようだと恐ろしくもなった。紅い薔薇の花びらは眩暈がするほど見事な渦を作る。
その奇妙な感覚に吸い込まれた静雄は、どうしていいかわからなくなって、薔薇を老婆に返そうとした。
彼女はそれを遠慮と受け取ったのか、いいのよ、ともう一度静雄に持たせる。
小学生なら誰でも一度は、夏に朝顔を育てるだろうが、静雄はそれを枯らしてしまう方の生徒だった。真面目ではあるがマメではない。三日もすれば水遣りを忘れるのだ。実を付けずに、花も咲かずに枯れてしまった経験から、静雄は自分は花の面倒をみられないと思っていた。
だから受け取れるような身分ではないと、もう一度老婆の申し出を断る。
それでも、と彼女は静雄の手に一厘の薔薇を握らせた。
静雄は薔薇を持ち帰ると自分の家の庭に埋めた。ゾウの形をした如雨露でたっぷりと水をやる。幼い頃は、そうすれば花が咲くのだと信じていたのだ。

しかし翌日には薔薇は庭の土に横たわっていた。
へなへなとしおれた薔薇を持って、慌てて静雄は老婆を訪ねた。
日曜日も変わらず庭先で花の手入れをしていた老婆は、薔薇が駄目になったと泣きそうな顔で訴える子供を宥めると、小さな鉢植えを抱えてきた。昨日渡した薔薇と同じ種類の株だと言い、彼女は鉢植えを静雄に持たせた。
薔薇の世話について簡単に教えた老婆は、薔薇の世話で分からないことがあったらいつでも聞きなさい、と教えると静雄を送り出す。
静雄はどうして老婆が親切にしてくれるのかわからなくて、その理由を訊くと、老婆は、花が好きな人に悪い人はいないといった。

「薔薇は魔法の花なのよ。色や形、種類、本数によっていろんな意味を持つの。貴方は、何本育ててみたい?」

沢山。多ければ多い方が綺麗だから。
そんな素朴な理由で、静雄は鉢植えの面倒を見始めた。毎日水をやって、虫がついたらそれを払うだけの、簡単な世話だった。虫を取ろうと躍起になって、うっかり枝を折ってしまったこともあるが、そんな環境にも関らず薔薇はよく育った。
暫くして、薔薇が花を咲かせたことを老婆に報告すると、肥料の与え方や剪定の方法を教わった。
静雄が小学校高学年に上がる頃には薔薇は鉢植えから地面に植え替えられた。薔薇は増え続けて、背丈が大きくなった。このまま育てれば庭一面に薔薇が広がるだろうと静雄は喜んだ。
けれども、静雄が薔薇を育てていくのに反比例するように裏の家の庭は枯れていった。
数日後、老婆が亡くなったことを知った。荒れていく庭に際限なく雑草は生え、蔓薔薇は予期せぬ方向へ伸びていく。
数週間が経った頃、邸宅は取り壊された。ショベルカーが運び込まれて薔薇の根ごとごっそりと抉った。マーガレットは無機質なキャタピラに巻き込まれて絶命した。
更地になった邸宅には新たな家が建った。
静雄は、新しい家に見知らぬ家族が引っ越してくるのを見て、植え替えようと思っていた薔薇の植木鉢をごとりと落とした。どうしようもない、つまりは大人の都合というものなのに、支柱を失った朝顔のような、虚無感と無力感を得た。

そのまま喧嘩に明け暮れた中学時代に、静雄を支えたのは薔薇だけだった。老婆から貰った薔薇から枝を取って挿し木してから随分経つ。
庭からはみ出した薔薇は、玄関の周りにも咲くようになった。これには母も喜んだ。ただの成り行きで育てた薔薇を気に入ってくれる人がいることに感謝した。
だが、どうもその静雄の感謝が気に入らなかったらしい。
折原臨也は、静雄を否定する。

「人間に優しくできない化け物なのに、薔薇には優しくできるんだっけ?」

静雄は臨也の情報網を甘く見ていた。自宅でひっそりとガーデニングをしていることなど知っているはずがないと思っていた。
静雄が庭を整えているのは家族しか知らない。
誰に聞いた、と訊けば、他所から情報を集めただけでなくその裏付けのためにも臨也は自分の目で確かめたという。証拠写真も持ち歩いている臨也に隙はなかった。
静雄は、臨也に唯一の趣味を知られることが気に食わなかった。化け物のすることだと笑われることが悔しいのではない。神聖な結婚式に乱射魔が飛び込んでくるのと同じくらい、自分の中の大切な領域に土足で踏み込まれた気分になったからだ。

「悔しがらなくてもいいんだよ。人間にも優しくできるようなら育てればいい。君にはきっと無理だと思うけどね」

臨也の挑発に乗っては駄目だと理性が訴えている。それでも静雄は理性を抑えた。次の理性の獲得のために今は本能に身を任せた。
静雄の行動を全て知っている臨也なら隙を突いて庭を荒らすのは造作もないことだろう。重機を持ち込んできてもおかしくない。老婆の愛していた庭の二の舞にさせるわけにはいかなかった。

「それについては俺個人の問題だ。手前の好きなようにはさせねえ」
「それなら俺は、君が人間を傷つけた数だけ薔薇を潰してあげよう。嘘吐きだ、って教えてあげる」

その時の静雄は、いつもよりもこの力が暴走していたように思う。手元の鉄パイプで、よく回るうるさい口から血を吐かせたのだから。
だが静雄は、庭の薔薇の一本がナイフのようなもので刈り取られているのを見たのだ。今日、静雄は人間を一人傷つけたのだ。


【2】

自ら薔薇を踏んだことは何度かあった。今日のように、取立先で我を忘れて暴れてしまったりした時は必ず薔薇も壊すようにしている。
その役目は臨也の役目であり、自分は関係ないのかもしれない。
それでも静雄は、あの時、自分が臨也の挑発に乗ってしまったのだから、その通りに従うべきだと思った。
誤魔化すよりも、そのルールにおいて完全な勝利を決めるほうが気持ちが良いからだ。静雄のもう一つの趣味である格闘技観戦でも、小手先を利かせるより正々堂々と殴り合う方が見ていてスカッとするのだから、きっと自分と臨也の勝負もそういうものなのだと思っている。
たとえ臨也がズルをしてきたとしても、自分はそんなことはしない。そうして勝ってこそ、自分は本当に臨也に勝利した、そう思えるのだろうから。

翌日、静雄は沢山の植木鉢を抱えて柔らかな土の上に立っていた。
実家の庭があまりにも窮屈になって車道に薔薇が飛び出しそうになったので、今日からは池袋の外れにある小さな土地で育てるのだ。
静雄の安月給で借りたその土地は、どうやら曰くつきの土地らしく何年も借り手がつかなかったらしい。
しかし静雄がしたいのは薔薇の世話であって、そこに住むわけでもレストランを開くわけでもないので、何も気にならなかった。むしろ実家から薔薇を運ぶ際に薔薇に悪影響が出ないかどうかの方が心配だった。
薔薇は毎日少しずつ植え替えるつもりだ。数週間もすれば運び終わって新しいこの庭で花を咲かせることができるだろう。
しかし一週間後、庭は無残にも荒らされていた。
勝手に余所者が立ち入りができないよう塀を作ったり、扉をつけたり、それなりの対策はしてあるはずなのに、芝刈り機をかけれたように綺麗に薔薇が刈り取られている。
その切り口は鋭かった。ここ数日、幸運なことに静雄は一度も暴れていない。臨也のズルは盛大だった。
庭は元通りになった。臨也に散らかされた薔薇はあくまでも実家の庭にあった薔薇の三分の一だったので、大した被害ではなかったのだ。
実家から全ての薔薇を運んできた静雄は、元気な薔薇の枝を切り、小さめのプランターに挿していく。
今日は、何の逆恨みか、取立て後に包丁を持って突進してきた暴漢から田中トムを守った。自分の力は、こうやって人のために使うべきなのだと最近気が付いた。
それなら、これからはもっと人のためになるような力の使い方をしようと、静雄は前向きに思う。
薔薇の数が増えれば、きっと臨也も自分を人間だと認めるはずなのだ。静雄の薔薇作りを応援してくれる先輩のためにも、この薔薇は特に大切に育てたいと思った。

その矢先に、静雄は枝を植えた手を引っ込めることになった。何かが後ろから飛んできた。そしてすぐにその手を避けなければよかったと後悔する。
枝を裂いてプランターに突き刺さったナイフを引き抜く。

「君は一生化け物で良いのに。花を育てるなんて人間じみたことはもうやめたらどうかな。君が薔薇を世話する限り、俺は何度でも君の薔薇を踏み散らかす。イタチゴッコだと思わない?」

臨也はあの高い塀を飛び越えてきたのだろうか。パルクールとは随分様々なことに役立てられるらしい。
静雄は何故だか、街中にいるよりもこの庭にいるほうが臨也に対して理性的な態度を取ることができる。それは自分の強みでもあり弱みでもある薔薇の存在があるからかもしれない。特に、今の静雄には臨也の姿がとても痛々しく見えた。

「なんで何年も、いつまでも育ててるんだよ。そんなに薔薇が大切なの?どうしてそんなに沢山育ててるの?」

わからない。素直にそう答える。
静雄は未だに何故自分が薔薇を育てているかわからなかった。
老婆に薔薇をもらったからか。あの庭のように綺麗な花を咲かせたかったからか。
花の世話が嫌いではないことは確かだが、その明確な理由は自分でもわからなかった。

「誰かに見せたいとか、そういう目的があるの?」

かつてはあったような気もした。貰ってきた薔薇が花を咲かせた時は純粋に嬉しかったから老婆にその話をしたし、家族にも得意げに語ったことを覚えている。
だが今はどうだろう。実家に行くこともなくなり、ただ一人で薔薇の世話をしている。
想い人がいるわけでもない。薔薇を渡したい相手がいるわけでもない。
臨也との一風変わった喧嘩に勝つために、臨也に薔薇を見せることはあるけれども、それは臨也に薔薇を見せたいということに繋がるのだろうか。

「そうかもしれねえけど、そうじゃないかもしれねえ」
「誰に」
「さあ」

臨也は眉根を寄せて、あっそ、と吐き捨てる。塀に囲まれた唯一の出入り口である、扉を通じて、さっさと帰ってしまった。
彼は翌日もやってきた。今度は薔薇を刺さないのか訊けば、君が悪さをしたらすぐに刈るよ、と死神のような笑みを浮かべていた。静雄が薔薇の世話をするのを監視するように見つめていた。庭の端っこでノミのように小さくなっていた。薔薇の手入れが終わって、静雄が帰ろうとする頃にはそこには誰もいなかった。
最近の臨也は庭に黙って入ってきて、黙って出て行くことが多くなったと思う。まるで猫のようだ。
ある時、臨也が薔薇の一本に触れた。臨也が殺す以外の理由で薔薇に触れたことは初めてだった。
静雄は何もしないならば地を這うミミズと同じだと黙って放っておいた。
臨也が触った薔薇は、あの老婆からもらった鉢植えの薔薇だった。

「君は沢山の薔薇を育てるつもりらしいけど、最初の一本の薔薇の寿命を考えている?」
「しっかり育てれば十年、二十年くらい持つって聞いた」

臨也は薔薇の茎から花弁へと指を動かした。白い指と紅い花のコントラストが目に眩しい。ビロードのような手触りを楽しんでいるのか、花弁に指を沿わせている。

「違うよ。君のした優しさは、二十年後も風化しない優しさだったのかい、って訊いてるの」

ぴん、と臨也は薔薇を指で弾いた。しなった薔薇はゆらゆらと揺れると、暫くしてから止まる。
次に風に流されて揺れ始めるのを見て、臨也は薔薇から手を離した。

「そんなこと、ないでしょう」

静雄の心の中にも冷たい風が吹いてくる。臨也に神経を逆撫でされるのは久しぶりだった。
けれども、今回の挑発には、まだ怒るには早い気がした。

「そんなん、優しくしたって人に感謝されたって、それを相手がいつまで覚えているかわからねえし、それに値するだけの優しさだったかどうかなんて誰にもわかんねえよ」
「その通り。でも確かに分かる時もあるんだよね」
「なんだよ」
「人間、何十年の価値にもなる優しさを与えられるのは、一生に一度や二度くらいのものだよ」

静雄はさっぱりその意味がわからなかった。臨也の哲学じみた無駄話に付き合うほど暇ではないので、気にせず薔薇に水をやった。
土が湿っていくのを感じる。時々、土の上に落ちた薔薇の葉が水に乗せられて流れてくる。その動きが川のようだと思って面白く思っていると臨也は少々寂しそうに吐いた。

「そして君はそれを逃がすんだね」

臨也はふかふかの土を踏み歩くと扉を開けて去っていった。
扉は開けたら閉めろ、と静雄が注意するのも聞かずに、数センチほど開けたまま彼は帰っていった。
なんとも小さすぎる抵抗だと静雄は思った。裏を返せば、静雄はそれしか臨也に思うことはなかった、ということだ。


サンプルはここまでとなります。続きは『演者は薔薇園のレストランで踊る』でご覧いただけます。
『この因縁、立ち入り禁止×7』にて頒布します。詳細は此方


2014.02.19

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