泣いていた


深夜0時15分、プラットホームに降り注ぐ青い光、発車標のオレンジに目を留め、点字ブロックを足でなぞり深く息をする。
黄色い線の内側までお下がりくださいーー電車の到着を知らせるアナウンスとともに、顔を上げると強い風が全身を包み込んだ。
息を吐き出すように音を鳴らし開いた扉に、足を踏み入れる。
人は疎らで、同じ車両には四人しか乗っていなかった。車両の一番奥で胸まで新聞紙をかけたおじいさん、その並んだ二列隣で端の席に座り肘をかけた女のひと、それからわたしと、わたしの目の前に座ったスーツ姿の派手な髪色の人は、車両のちょうど中央にいた。それぞれの間隔はぽっかりと空いていて、皆一様に固く目を閉じていた。

電車に揺られるのは心地よい。なんとなくがよく似合う、そんな人より秀でたものも、大切にしたいものも、何もないような気がしてならなかった学生時代。
いつまでもそこから降りずに、延々と周回を続ける電車のなかで、流れる外の景色を眺めていた。
わたしはそこでさまざまな建物の形を知り、線で繋がれる景色の移り変わるのを目に映した。
こんな風に景色を眺めてしまうのは、それは高校生になっても、大学生になっても、そして社会人になった今でも続いていて、時間は同じようには流れていないのだけれど、いつまでもそうして目の前に起こることを受け止めては、胸に留めたままひっそりと抱えていた。

寂しさというのは計り知れなくて、人の心にすっと入り込んでは、関係のなかった感情まで飲み込んでしまう。
わたしよりもひとつ先に社会人になった昔の彼は、今は仕事のこと以外は何も考えられないと言い、ある時抱えきれなくなったように別れを告げた。
会えるのはふた月に一度きり。そんなに会えない仕事なんてあるのかと、当時まだ大学生だったわたしは思っていた。好きじゃないから会わないんだろうと、心のなかで彼の気持ちを決めつけた。
今ならわかる。疲れているんだ。
疲れている時は人に会いたくないし、何も考えたくないし、ただ蹲ってぼうっとしていたい。
好きだとか会いたいだとかそんな気持ち以上に。
けれど彼の疲れた心に癒しをもたらすほどの存在にはなれなかったわけで、二人の関係にそこまでの愛情がなかったというのもまた事実である。
社会に応えることに本気で向き合い出した社会人五年目のわたしも、もう既に夢から覚めた浦島太郎のような気分で、この仕事を辞めたら、この二十代は何をしていたのだろうと思うくらい仕事漬けの生活になっていた。


不自然なほど背筋を正しく伸ばして腕を組んだその人は、静かに目を瞑り、その姿はさながら侍のようである。
背に凭れればいいのにと、そんなことを思いながらわたしは目の前に座るサラリーマンを、窓に流れる景色のようにぼんやりと見つめていた。

駅の到着を知らせるアナウンスが流れ、目を見開いたサラリーマンは、私を捉えた後、行先案内板に視線を移し、慌てたように鞄を掴み電車を降りて行った。
彼の座っていた座席に黒い定期入れのようなものがぽつんと残されていて、忘れ物だと気が付いた時には、反射的にそれを手に取り、後を追うように扉から飛び出した。
大した考えもなかった。しまったと、そう思った時には、時既に遅しで、電車の扉は無情にも閉まり、金属を切るような高い音を鳴らし、この場を去って行った。
これは帰りはタクシーか。

少しふらふらとした足取りで、不意に振り返ったその人は、わたしを不思議そうに見つめた。
それはそうであろう、もう既にホームは彼とわたしだけになろうとしていて、物凄い勢いで飛び出してきた女が、こちらを見て呆然と佇んでいるのだから。

「あの、定期……」

わたしは絞り出すように声を発した。彼は驚いた様子で、こちらへ駆け寄り定期を受け取った。

「申し訳ない! いつの間に落としたのだろう」

彼は頭を掻きながら、はにかんだように笑った。屈託のない、人柄を表したような、人のよさそうな笑みだった。
いたく感謝をされ、「君もここで降りる予定であったのだろうか」と心配そうに問い掛けてきたが、思わず「はい」と答えて、「大丈夫ですから気にしないで下さい」と言った。
何が大丈夫なのか。ここからわたしの家まで、タクシー代で一万円はかかるだろう。
幸いにも昨日おろしたばかりだからお金はある。彼に微笑み返し歩き出そうとすると、せめて駅の入り口まで送ろう、と後をついてきた。
まさかタクシー乗り場まで送ってくれるとは思わなかったが、何かを察した彼が、それならばタクシー代くらいは出させてくれと、気遣い合う者同士の訳のわからぬ押し問答になり、挙げ句の果てにタクシーの運転手さんからは乗るのか乗らないのかと問われ、並んでいた人に気が付いたわたしは、「お先にどうぞ」と順番を譲った。

「本当に何も気にしなくて大丈夫ですから」

いよいよ困り果てて彼を見つめると、「いやいや、そう言うわけにはいかない」と引き下がらないので、初めて会ったばかりだが、この人はなかなか頑固であると思った。

すると彼がよし分かった!と顔を輝かせて、「では恵方巻を奢ろう!」とまるでいい提案でも思い付いたかのように口走ったので、わたしは呆気に取られて何だか笑ってしまった。

気が付けば最終電車から降りたばかりのわたしたちは、コンビニでチューハイと恵方巻を買い、駅のバスターミナルにあるベンチに腰掛けていた。
まだ週の半ばだというのに、いよいよ明日のことなどどうでもよくなり、恵方巻を頬張った。
最初から酔っているのだろう彼は、一人で喋り続けている。そして「食べる方角は南南東だ! 食べ終わるまで喋ってはいけない」と言いながら、「うまい!」と口にした。
すっかり彼のペースに飲み込まれ、124年ぶりに例年より1日早い節分を迎えたらしいこの日を、もう二度とは迎えられないだろうと思いながら、「喋っちゃったじゃないですか」とそう口をついたときには、もう二人してご利益を受けられなくなってしまった。
こんなにも音のない夜に、わたしたちの笑い声が静かに響き渡るのを心地よく思い、少し胸を温めながら残りのチューハイを飲み干した。


それから数週間後、改札で待ち合わせ再び現れたスーツ姿の彼は、初めて会った時と変わらない笑顔を浮かべて、こちらが恥ずかしくなる程大きく手を振っていた。
あの日、恵方巻を食べ終わりすっかり方角も順序も倣わずに、ちゃっかり思い浮かべた彼の願い事は、また君に会えますようにだったんだと、少し照れ臭そうに教えてくれた。




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