いと恋しき一編の


いとせめて 恋しき時は むば玉の 夜の衣を かへしてぞ着る/小野小町


それは立派な門構えであった。
新緑の瑞々しい彩りに包まれながら、私たちを出迎えたこの武家屋敷は、主没落の後に長らく持ち主不在であったものを商人が買い取ったのだという。
今は人々の憩いの場として茶屋となり、縁側からその広大な庭を眺めることができた。

「まあ、素敵なお庭ですね」

名前は、目を輝かせて杏寿郎を見上げた。
敷かれた緋毛氈(ひもうせん)の上に静かに腰を落とす。赤い色には魔除けの意味も込められているそうだが、この敷物もそういった意味合いを持っているのだろうか。
平安絵巻のようなこの景色を、何と表現すればよいのだろう。

「ずっと君と来たいと思っていてな! 実は、甘露寺に教えてもらったんだ」

彼は慣れた様子で抹茶の入った器を手にし、少量を口に含むと、清々しい表情で目前に広がる日本庭園を見つめた。
暖かな昼下がりの陽射しが、中央に鎮座した池のなかをまばゆく照らしている。刈り揃えられた松の木の向こう側で、また異なる細い幹の連なるのをうつくしく思った。

盆に乗せられた茶菓子は、桜薯蕷(さくらじょうよ)と云って、大和芋をすりおろして生地に練り込み、皮をふっくらと蒸し上げた昔ながらの饅頭である。
ひと口程の大きさのまあるく白いその菓子は、てっぺんに桜の塩漬けが添えてあり、口に含む時、ほのかに春の香りを楽しむことができる。
薄い小ぶりな皿を手のひらに乗せ、まるで赤子でも見たかのような心地で笑みが溢れた。
不思議なのはこの皿さえも愛らしく見えてくることである。

「まあ、可愛らしいですね」

先程から幾度となく感嘆の表情を浮かべる彼女に、杏寿郎は思わず吹き出し、優しく微笑んだ。
このような時は、同じような言葉しか云えぬものだと思う。淑やかにせねばと思ったが、静かな声量とはうらはらに、感嘆のため息が知らず知らずのうちに幾度も口をついては溢れ出てくるのだ。

「君に、そんなに喜んでもらえるとは思わなかった」

さぞかし家では表情の乏しい妻だと思われているのだろう。
どうしても緊張が抜けず、度々彼にそのことを気付かれては、もっと気楽にしたらいい、と諭されるのであった。
少し気恥ずかしくなり、彼から目をそらして菓子をひと口、口に含んだ。中に入っていた白餡の、控えめな甘さが心地よく口のなかへ広がる。
その美味しさに思わず、また彼のほうを見つめてしまった。
日ごろ勤めで多忙な彼と共にこうして外出をできることも、このうつくしい景色も、愛らしい菓子も、全てに感無量であった。

「連れて来ていただいて、ありがとうございます」

「どういたしましてだ! この日一番の笑顔だな!」

ぼんやりと、千寿郎くんとお父様にも食べさせてあげたいな、などと考えていると、察したように彼が帰りに土産を買っていこうと云った。

煉獄家に嫁いで早二年になる。彼の勤めのことは正直まだよく解っていなかった。彼が家でその話をすることはあまりなく、彼のお弟子さんであったといい、同じ鬼殺隊の甘露寺さんでさえ、たまに遊びに来ても恋の話や食べ物の話しかしないのである。
不定期に日が暮れる頃に出掛けては、何日も家を空けることもあれば、翌朝にはすぐに帰って来ることもあり、その流れは全くと云ってよいほど読めなかったので、あてもなく彼の帰りを待っていた。

それが淋しくないと云えば嘘になるが、彼が自分の勤めについてあまり話をしないように、私もこれが務めであると思い、家事に勤しんでいた。
どうか杏寿郎さんが怪我なく無事に戻り、この家の皆がつつがなく日々を過ごせるようにと願うことくらいしか、私に出来ることはないのであった。


「名前」

彼は優しく微笑み、君に伝えたいことがあると、おもむろに手を伸ばし、膝に置かれた私の手を取った。
思えば私たちは互いにそういったことに疎かった為、このように手に触れ合うことさえも至るまでには大分時間が掛かった。
彼が初めて私に触れた日、いつもは騒々しい彼がとても大人びて見えて、私だけが羞恥に溺れているようで何だか俯いてしまった。
男のひとは皆、女のひとにこんなにも優しく触れるのだろうか。
彼が触れたところが熱を帯びて、後になり彼の不在を告げるので、いつも私は嬉しいような切ないような何とも云えない気持ちでそれを受け入れていた。

「俺の元に嫁いでくれてありがとう」

始まりは見合いであったが、そうではなかったとしても、きっと俺は君を見つけ、愛していただろうーー

胸に焼き付いて離れることはなかった、この笑顔を私は愛している。
あなたが守ろうとした沢山の想いを、私もこの家で変わらずに守っていこう。


 *

どうやら文机に伏せったまま、いつの間にか眠ってしまったようだ。いつもよくこの机で彼は任務を終えると報告の文を認めていた。
その背中を見つめながら、針仕事をするのが私の日常であった。
暮れなずむ橙の光が部屋に射し込み、肩には彼の着物が掛けられていた。

「姉上、風邪を引きますよ」

千寿郎くんが少し眉を下げ、優しく微笑み、佇んでいた。
さあ、夕餉の支度をしなくては。
読んでいた文を文机の引き出しにそっとしまう。

人の想いはけして消えない。
この身が潰えようとも。どうか覚えておいて欲しい。

閉じた文の最後にはそのように記されていた。




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