不死川 実弥
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「おい待て」
いえ待てません。今日ばかりは実弥さんのペースに乗せられるわけにはいかない。早くこの場を去らなくては。
「どうか放っておいてください」
柱合会議が終わり、親方様の御屋敷から出ようと、足早に玄関口へ向かっていた。時刻は十一時。一時も足止めを食らうわけにはいかないのだ。
後ろをついてくる実弥さんを振り切り、前だけを見据えて長い廊下を抜ける。それにしても親方様の御屋敷は広すぎる。くるくると広い室内を彷徨い、今朝来た道を通ったつもりで、やっと辿り着いたかと思えば離れへ通ずる道であったり、裏口であったりする。表玄関は何処であったか。此処は一体、何処であるのか。
「話が終わってねェ」
突然肩を掴まれ、思わず後ろによろけると、実弥さんの胸にぶつかる。
いつか宇髄さんが云っていた。実弥さんは女性の触れ方というものを知らないのだ。そもそも私のことを女性だとは思っていないのかも知れない。これが好きな女性に対する触れ方であろうか。好きな女性に……、少しむっとして振り返ると、彼の顔が思いのほか近くにあり、開きかけた口を閉じた。
そうだ、まだ彼に好きだと云われたことは一度もなかった。本当に彼はずるいと思う。はっきりと言葉にはしてくれないのに、こうして触れてくるのだから。
「何をそんなに急いでやがる」
「云えません」
互いに一歩も譲らず、口をつぐんだ。云えないことなど何もなかった。何故だか反射的にそのように答えてしまった。
取り合うだけの価値がない内容ほど、唐突に言葉にするのは難しいものである。
実弥さんはいつの間にか掴みとった私の手をばつが悪そうに離した。
その瞳を見つめていると、これまで思い巡らせていたことなど簡単に吹き飛んでしまうから不思議だ。
どうにもここ最近、素直でない態度ばかり取ってしまう。
「おいおいまた痴話喧嘩か」
宇髄さんが少し離れたところから、やれやれと呟きながら歩いてくる。
「そんなんじゃねェ」
どうやら私たちが道を塞いでしまっているようだ。
不服そうに実弥さんが道を空けると、宇髄さんは飄々とした足取りで、「愛情表現は派手に率直にな。それが基本だ」と笑みを浮かべながら去っていった。
すると実弥さんは途端に視線を合わせなくなり、またいつものような不貞腐れた表情でぶっきらぼうに呟いた。
「ほら」
ぼんと投げ遣りに寄越された少し重みのある紙包みを両手で受け止める。ほんのりとした桜の葉の香りが広がり、それは私が今まさに向かおうとしていた和菓子屋の包みであった。
「一緒に食おうと思っただけだァ」
後ろ頭を掻きながら先ほどとは打って変わって今度は私を置き去りにし、ゆっくりと歩き出した実弥さんの背中を見つめる。
この和菓子屋はいつも行列が出来るほどの人気店で、お昼前には店頭に並んだ商品の殆どが売り切れてしまう。甘露寺さんに一度連れて行って貰ってからというものの、すっかりその虜となり、今回は期間限定というその桜餅をどうしても食べてみたかったのだ。
「実弥さん!」
途端に嬉しくなり彼の後を追う。私もなかなか現金なものだ。隣に並び、一緒に食べましょう!と云うと、相変わらず視線を合わせてはくれなかったが、少し口の端があがっているように見える。
「実弥さんこの桜餅! 二週間の限定発売なんです。今週で販売は終わり、今日が最終日なんですよ!」
「お前よく開けてもいねェ包みの中身が桜餅だとわかるな」
実弥さんが感心したような表情でこちらを見てくるので、得意気に顔を上げると今度は呆れたように視線を寄越してきた。
しかし実弥さんはどのようにしてこの桜餅を手に入れたのだろう。今日の柱合会議開始はお店の開店時間と同じであったはず。疑問符が浮かび、首を傾げていると、一つの考えが過る。まさか和菓子屋の亭主をおどして……、頭の中で実弥さんの威圧感に負けた亭主が桜餅を差し出す絵が浮かぶ。
自分でも気が付かぬうちに険しい表情をしていたようで、疑いの目で彼を見ているのが伝わったのだろう。
「なんだかわからねェが、今とてつもなく失礼なこと考えてるだろ」
誤魔化すように笑って見せると、「和菓子屋のおばさんが屋敷に差し入れてくれたんだ」とボソボソとした声が聞こえた。おはぎ好きな実弥さんは、私がこの店を知るずっと前から常連であるらしかった。
「それにしても方向音痴をなんとかしろよなァ」
そっちじゃねェとまた肩を掴まれる。
やっぱり実弥さんは、女性の触れ方を知らないのだ。