煉獄 杏寿郎
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みなさんは自分が認識していたよりも踏みしめた階段が一段低かったり、床が高くてつんのめったりした経験はありませんか。
いえいえ、大した話ではありません。今日の私がいかに呆けて前を歩いていたかということを申し上げたかったのです。先ほどぶつけたばかりのつま先がじんじんと痛みます。
室内は春のうららかな日差しに包まれていました。廊下を忙しなく駆けてゆく幾つもの足音を耳にしながら、私はどこか落ち着かない心持ちで職務に向き合っていました。今日も蝶屋敷は慌ただしく、次々と負傷した隊士が運ばれてきます。
「痛い痛い! 名前さん。注射が深すぎやしないかい」
「ああ! 申し訳ありません! 私ったらなんてことを」
職務中に茫とするなど、あってはならない。慌てて診察台の脇に置かれた布を手に取り、刺し口を抑えました。注射というのは、何度やっても、どうにも扱いに慣れないのです。
「いいんだ。あなたに触れていただけるなら僕は何度だって……練習台になりましょう」
男の人は両手で私の手を包み込み、さわさわと手の甲に触れました。そういえば以前にもこのようなことが、あれはたしか。
「それだけの覚悟がおありなら、戦いの中で見せていただきましょう。さあ、治療を終えられた方はお帰りください。次の方がお待ちです」
しのぶさまはにっこりと微笑み、鈴を転がすような愛らしい声で私の目の前に腰かける隊士へ声をかけました。
ここは女所帯。まれに治療以外の目的で来られる方もいるようで、常日頃からしのぶさまより、そうした場合はお帰りいただくよう仰せつかっていました。
さて、本来であればこの方も例外ではないのですが。
「煉獄さま、目を瞑ってください」
かつて歴史上の方々が鷹狩りといって、自身の遊びに連れ出したという、まるであの猛禽類のような大きな目をカッと見開いて、こちらをじっと見上げている煉獄さまは、一向に目を閉じてはくださらない。
「目蓋にお薬が塗れません」
困りながら彼を見つめていると、
「君を前にして目を閉じることが出来る男がいるのなら見てみたいものだな!」
「それよりも!」と、煉獄さまはこちらに手を伸ばし、私の額に触れました。
「額が赤くなっている! 何処かへぶつけたのか」
思わず私は自分の額を抑えました。今朝方、階段で躓いた際に、手すりに額をぶつけたことを思い出したのです。
相変わらず煉獄さまはこちらを見つめたまま、目蓋を閉じようとはなさりませんでした。私はこの時、彼の目を見つめながら自分がこのところ呆けていたのではなく、それは惚けていたのだと悟りました。
「今日こそは君を連れ帰りたい! 結婚を申し入れたく此処へ来たのだ!」
明るくあっけらかんとした表情で、この月、何度目かのそのお言葉を口にしました。
どこまでも真っ直ぐなそのお姿に、遂に心が傾きかけていた時のこと、「煉獄さん」と窘める、しのぶさまの先ほどよりも低く静かな声が響き渡りました。