夜にふれあう


うつくしさに泣いてしまいそうな夜だった。灯りをひとつ引き連れ、暗やみを歩いてゆく。不揃いな岩場を踏みしめ、高台に立ち、握りしめた手燭の火を消した。この一帯を包み込んでいるのは空かも知れないし、湖かも知れなかった。
広がる自然に境目はなく、それは上も下もない、全てが繋がり調和している。目の前に流れる星のあとを辿り、吹いた風に目を瞑る。ふたたび目を開いたとき、世界は変わらず、同じ景色を宿したこの目には、深い深い真っ暗な湖の水面だけが取り残される。その奥底にはまだ知らない、私の小さな世界の果てがある。一歩踏み出した。土がこぼれ、欠けた石の落ちる音がした。その深層を見てみたいと、それだけを考えていたーー

「死ぬつもりか」

突然、片腕を掴まれ引き戻される。「何を考えている」そう云われ、見上げた顔は暗がりでよく見えなかった。柔らかい髪が頬にあたり、はためく羽織の音が耳についた。



 一


「全く困った娘を持ちました。昨晩は危ないところを助けていただき、何と御礼を申し上げたらよいか」

父は向かいに座る男にへこへこと頭を下げた。目の前の男は軍服のような黒い詰襟を身に纏い、静かに茶を啜っている。私は正座し痺れた足先を二人に見えない所で頻りに動かしては、明るい場所で初めて目にする男の顔をじっと見つめた。
男は手にした湯呑みの茶を見つめていた。それは私が湖の底を覗き込もうとするのと同じであると思った。


湖のほとりに私の家はある。此処に温泉宿を営む父と二人きりで暮らしている。市街地から切り離されたこの場所には、私たち家族と、新しく橋を建設するため滞在している作業員たち、宿を利用しに時折訪れる客の他はいない。此処へ来るためには、たった一艘の木船に乗るしか手段はなかった。男は昨日その船に乗り、このほとりへとやって来た。父は男を、鬼狩り様と呼んだ。

「時に、鬼狩り様。滞在中の宿はいかがされるおつもりか。暫くおられる予定なのでしょう」

滞在期間はまるで決まっていないようであった。このほとりを去るのは探し物が見つかり次第、と話していた。父は昨晩泊めた宿の一室をそのまま男に貸し出すことにした。
宿の部屋はあわせて四つあり、そのうち三部屋は隣接していて、廊下に出なければ外の景色も見ることのできない簡素な一室だった。その三部屋を通り過ぎ、細い廊下を抜けた先の突き当たりに、残りの一部屋は位置している。この部屋だけは、部屋へ入り向かいの障子戸を開け放てば、左手には湖、右手には山々をのぞむことができる。他の部屋から離れ落ち着いて過ごすことができることもあり、大概は長期滞在の客に向け貸し出されていた。

「何か必要なものがございましたら、仰ってください」

開け放たれた障子戸から、暖かな風が吹き込んでいた。外の景色を眺めるその背に向け一声掛けると、男は振り返りもせず、何かに見入っているようであった。
何故この一室だけ、特別な造りなのか。いつもは気にも留めないそんなことをふと思い、男の背中越しに映る景色を見上げた。

「気遣いに感謝する」

暫くして振り返った男の表情を、私は上手く捉えることができなかった。



 二


落ちていた枝を拾い、宙に曲線を描く。草花の上を二匹の蝶がひらひらと舞い、私の描く曲線よりもずっと上手だと思った。

「お客さんはどちらから」

「東京府だ」

男は少し距離を置きながら、ゆったりとした足取りで後をついてくる。父に温泉場を案内するように云われ、私は男と丘の上まで歩いて来ていた。

「鬼を探しに来たのですか」

「ああ」

抑揚のない声であった。少し間を置き、男は続けた。

「鬼を信じるか」

「さあ、どうでしょう」

ーー見たことは、ありません。

東京から人が訪れるなど珍しく、私は好奇心から深く思案せず質問を投げ掛けた。男は大抵の質問には答えてくれたが、家族の話しになると、どこか考え込むような表情をしていた。

「東京はどんなところですか」

「よく覚えていない」

「色々な所に行かれるのでしょう」

「いづれも記憶にない」

「家族はいますか」

「息子が二人いる」

「奥さんは」

「妻は死んだ」

私たちの背後には鏡面のような透き通った色の湖が広がっている。それを見下ろす男の表情は風に棚引いた髪で遮られよく分からなかった。その声は何ものにも愛着を感じさせない響きをしていた。

「よいところだな」

「湖のほか何もありません」

「それがよいと思った」

暫く歩みを進めれば、行く道の両脇に巨木が聳え立ち、所々突き出した岩の上には苔が繁茂している。木立から漏れる日差しが、薄暗い森のなかを照らしていた。
整備されていない草木の生い茂る道を抜け、苔むした石畳を延々と歩いていくと、奥に温泉場がひとつ深い緑に囲まれて姿をあらわす。それらを神秘的だと感嘆を述べる客も居れば、とんでもないところへ来てしまったと自然の創造に息を漏らす客もいた。男は何も云わなかった。感動している様子も、疲れている様子もなかった。

「二人きりで営んでいるのか」

不意に投げられた言葉に振り返り、後ろを歩く男を見る。金色の髪が風に揺れ、やはりこの時も男の顔を上手く捉えることは出来なかった。今朝見たときの茶を啜る姿同様、いつまでも男の輪郭は私のなかでぼんやりとしたまま息づいている。

「春のはじまりと、秋の終わりだけ。お客さんの多い時期は、湖を渡って、街から人が手伝いに来ます」

そうか、と一言呟くと、男は頭上を見上げた。

「雨が降りだしそうだな」

空は晴れ渡っているように見えた。男は温泉場に辿り着いても中へ入ろうとはせず、木々の隙間から覗く空を、いつまでも見上げていた。


程無くして、男は最初から宿など探してはいなかったのだと思った。日中に着替えの浴衣と褥の敷き布を取り替えようと部屋を訪れると、それらはいつも新しいままだった。部屋を使われた形跡はほとんどなく、いつ帰ってきているのかさえも分からなかった。
いつしか私は男の生活が気に掛かるようになり、短い間で重ねた記憶の断片をあつめ、その生活に思いを巡らせるようになった。



 三


斜面を見下ろし背負った竹籠を地面に落とす。岩の窪みにそろそろと足を掛け降りてゆくと、高木のないぽっかりと開けた場所に、蓼藍(たであい)の自生している一角があった。程よく湿気があり、光のあつまる、日溜まりのできるこの場所に、数年前から染料となる植物の姿が目につくようになった。葉を指で擦り、摘み取った葉を籠に入れてゆく。
人は記憶を辿る時、何をきっかけとするのだろうか。触れた葉の柔らかさか、はたまた立ち込める香りか。この葉に特徴のある香りなどはしなかった。それは恐らく記憶の中の母の香りだ。母は摘み取った葉の扱いに長けていた。母が染めた布の端切れを、今でも大切に持っている。父は蓼藍を見ると母を思い出すのか、私がこうして摘みに出掛けることをよく思っていなかった。母が亡くなってから、父は随分と心配性になったように思う。


ある晩、一度だけ男と出会したことがあった。
湖を見下ろす高台に位置したその場所へ、湯に浸かるため足を運んでいた。冬になり日が落ちるのは随分と早くなった。従業員である私が温泉場を利用するのは、誰も使用しない日暮れ後か、夜明け前と決まっていた。虫の音と風に揺れる葉の音しか聞こえてこない、そんな静かな夜の出来事だった。
その日も空には数えきれないほどの星が点在し、吸い込まれてしまいそうなほど神秘的な世界を作り出していた。
外気のつめたさが、剥き出しの肌に心地よく、研ぎ澄まされたような感覚を覚えた。ゆっくりと足先を湯につけ、腰を下ろしたその刹那、闇を押し込めたような深い色の物体が視界を遮り、忽ち何もかもを飲み込んでしまった。
私は理解が追いつかず、どこかこの瞬間を他人事のように見つめていた。瞬く間に視界が開けたその時には、目の前の物体が引き裂かれたのだと悟った。
同時に断末魔が耳の奥深くまで響き渡り、裂けた物体がたしかに生き物であったことを理解する。裂けたその狭間から、夜の景色に浮かび上がった男の立ち姿が、いつまでも目に焼き付いたまま離れなかった。

あの晩のことを父には話さなかった。口にしないことで、段々と私は何か誤った記憶の中に落ちていたのではないかと思えた。このままあやふやになってしまえばいいと、どこかでそう願っていた。いつからか、置き場に困った記憶の断片が、いつもそうして消えてゆくのを望んでいた。


「鬼を信じるか」

初めて出会った時、男はそう問い掛けてきた。私は鬼を見たことがないと云ったが、思えばずっと前から知っていた。それは私にも、誰の胸にも棲まう、あの凍てつくような感情のかたまりだ。

生まれてから父が宿を開くまでの間、私は市街地の中心部で暮らしていた。忙しない人々の往来を眺めては、目に映る全てのものを記憶に留めようとした。あらゆる記憶は消化されることなく、いつまでも降り積もり蓄積されてゆく。感情の揺れは境目を失い、きっかけを見つければ堰を切ったように溢れ出す。
幼かった私は、いつも見ていることしか出来なかった。ある時、男たちは突然家に押し入ってきた。必死に掴んだ手は引き離され、響いた叫び声はすすり泣きにかわり、幾つもの畳をこする音は、重なるように一定の音に変わった。遠退いていく足の音と、障子戸に遮られた空の景色と、横たわる力ないひとの姿。それからのことはよく覚えていなかった。けれどこんな日は繰り返し訪れた。記憶はいつも同じ場所で途切れ、私は部屋の隅で、そのひとは部屋の中央で、蹲ることしか叶わなかった。

あらゆる感情は地続きに繋がっている。そう悟った子供は大人に秘密を抱えるようになる。むかし魚を売りに来たお爺さん が云っていた。感情はいつしか塔のように積み重なり、高い建物となり、頂上にただ一人立っているかのような錯覚を起こさせる。皆が胸の内に自分の塔を持ち、互いの塔に乗り移ることも出来ず、身動きの取れない状態を、人は孤独と呼ぶのだと。

母は父には云わなかった。私も云わなかった。


遠くから水の流れる音がする。甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。手元から視線を移し顔を上げると、一人崖の淵に立ち尽くす男の姿があった。



 四


力一杯縄を掴み下へ引き寄せると、井戸から汲み上げたばかりの水が、木製の釣瓶(つるべ)桶から溢れた。冬の弱々しい陽射しに照らされ、薄ぼんやりと桶の水に浮かび上がった自分の顔は、どこか素知らぬ他人のように、こちらをつめたく見つめていた。
昼時になると、近くで橋の建設をしている作業員たちがかわるがわるこの井戸の水を飲みに来る。

「いくつだ」

煤汚れた着物の裾をはたき、捲し上げた袖を手首までおろしながら、いかにも快活そうな一人の作業員が声をかけてきた。
水をくれないかと云われ差し出すと、口の端から溢れた水を腕で拭いながら、躊躇いもなく笑顔を見せた。その自然な笑みに呆気に取られた私を、彼は可笑しく思ったのか、目を細めてもう一度笑った。

「十六」

「俺は十九だ」

日焼けした肌は泥に汚れていたが、冬の枯れた景色に不釣り合いなほど彼は生命力に溢れていた。
そして私には、彼の放つ生き生きとした雰囲気が新鮮だった。

「そんなに警戒しなくていい。何もしやしない」

そう云って、私の顔に触れようと手を伸ばした。彼は無意識だったのか、その行為に彼自身も驚いているようだった。伸びてきた手を反射的に避けようと後ずさると、手にした桶からふたたび水が溢れた。視線に耐えきれず思わずうつむき、地面を見つめる。溢れた水が足元を濡らしていた。顔を上げると、彼は仲間に呼ばれ、我に返ったように私を一瞥し、慌ただしくこの場を立ち去っていった。


橙の光が山々の間に幕を下ろし始めた。
後ろから砂利を踏みしめる乱れた足音が近づいてくる。男は私の前で立ち止まると手から柄杓を取りあげ、桶の水を掬いあげた。

「今日はどちらまで行かれていたのですか」

男を見上げると、先ほどの作業員とは対照的な虚ろな目をしていた。つよい酒の匂いがし、視線が合うことはなかった。

「出掛けるのはこれからだ」

「じきに日が暮れます」

「日が暮れねば意味をなさん」

男は来た時と変わらない調子の足音を響かせ、山の方へゆっくりと歩き出した。先日の出来事を口にすることは出来なかった。


湖のほとりでの生活はどこまでも閉ざされており、外界からの情報も、物資も少なく、あるのは広大な自然と、数少ない人との交わり、そこに映し出される自分の姿だった。
私は日々を持て余していた。どこかで誰かがこの生活に変化をもたらしてくれることを望んでいた。

「そろそろ帰ろう。随分遠くまで来てしまった」

彼は先を行こうとする私の手を掴み、引き戻そうとした。山の凍てついた空気に体はすっかり冷え込んでいた。彼の胸に顔を寄せ、背中に腕を回した。こうして人の鼓動の音を聞いていると、満たされたような思いがして、過去も未来もない今この時だけを共有し、何も考えられなくなってしまうこの瞬間が好きだ。互いのことなど然程知りもしなかったが、説明のつかない淋しさを埋めるには十分だった。

そんないつからか始まった若い作業員との逢引は、冬から夏の終わりまで続いた。もうじき、橋は完成する。彼は作業が終われば新しい土地へと移りゆく。その生活を彼自身はよく思っていなかったが、私は羨ましかった。

別れは呆気なく訪れた。若葉をつけた木々は、気が付けば葉を落とし始めた。湖へはまた別の作業員たちが出入りするようになった。木船の往来も増え、以前よりもこのほとりは賑やかさを増し始めていた。



 五


火の粉が天上へ立ち上り、面を身に付けた人々が体を揺らしながら踊り歩いている。揺れる炎の向こうで月明かりに照らされた湖面がきらきらと輝いていた。酒をすすめる人の声が祭りの音に掻き消され、互いの言葉もよく聞き取れないまま人々は笑い合っていた。
倒木に腰掛け、膝を抱え見つめていると、離れたところで男が喧騒を通りすぎるのを見た。何処かへ向かう男の姿を追い掛けようと後を追うと、いつの間にか先ほどの騒がしさが打ち消されたように辺りは深い闇に包まれ静まり返っていた。男の姿は見えなくなった。

見失ってしまい仕方なく諦めて戻ろうと引き返すと、何処から現れたのか男が目の前に立ちはだかった。

「何故、後をついて来た」

男の声が低く響き渡り、張り詰めた空気に唇が乾くのを感じた。
何も云えず、両手を握り締める。

「父親が探していた。夜は出歩くな」

堪り兼ねた男が踵を返し進もうとするのを、枯れ葉を踏み締める音と同時に引き留める。私は無遠慮にも男の羽織を掴んでいた。

「何だ」

今日もひどくつよい酒の匂いがした。こんなにも至近距離で男が正面からこちらを見つめたことはなかった。何故だか胸が締め付けられるような思いがして、唇を噛み締めた。この人は、夜がよく似合う。

「ありがとう。あの、あの時、助けてもらったから」

言葉はほとんど風の音に紛れてしまった。思えば二度も助けてもらった。そう腑に落ちたのは、暫くしてからのことだったが、私はずっと男と話したかった。

「もう宿に帰れ」


歩き出した男の後ろ姿が闇夜に消えた。



 六


男が宿を発つと聞いたのは、それから数日後のことだった。

新しい寝具の替えを持ち、男の部屋を訪れると、今日も男は部屋にはいなかった。もしかしてもうこのほとりを発ってしまったのかと、抱えていた敷き布を投げ捨て外へ飛び出した。一日探し歩いたが、男の姿を見つけることは出来なかった。
その晩、珍しく男の宿泊する部屋に明かりが灯されたのを見つけ、何も構うことなく、部屋を訪れた。そして障子戸越しに何も云えず佇んでいると、男は静かに部屋へ入るようにと云った。それはあまりに考えなしだった。膝の上に置かれた自分の手を見つめ、長い沈黙が続いた。口火を切ったのは男の方だった。


「何故そんなに無防備でいられる」

少し苛立ったようにこちらを見つめ、間合いを詰めると、私の腕を乱暴に引き寄せた。

体勢を崩し男にしなだれ掛かると顎を掴まれた。指で唇をなぞり、口内に押し込んでくる。私は思わず息苦しさに咽せ込み男の手を掴んだ。
頬を涙が伝った。それはかなしみとも恐怖ともいえない感情のもつれだった。
畳に押し付けられ、閉じようと力を込めた股の間に足を割り込まれる。男は乱れた着物の隙間から手の平を押し付けるように差し込み、手荒に太腿を撫でた。激しい息遣いとともに、降り注ぐ口づけを必死に受け止める。ふと、男は我に返ったように動きを止め、私を見下ろした。

私は冷静さを取り戻した男の姿に途端に羞恥が込み上げ、着物の合わせを掴み、足早に男の部屋を後にした。
込み上げる呼吸の熱さと、胸の起伏は激しさを増すばかりだった。



 七


翌朝、まだ日も昇らぬうちに男は湖を去った。
父は一人船着き場で男の背に頭を下げる。

私は、白んだ景色に包まれながら木船に乗って去りゆく男の姿を岩場から見送った。
岩場の先に剥かれることのないみかんがひとつ置き去りにされている。誰の目に映ることもなく、日に日に小さくなり、静かに失われてゆくのを待っているかのように思えた。
か細く喉を鳴らすトビの鳴き声が響き渡り、昨日最後に交わした男の言葉を思い出していた。


ーーどんなに求めても、己の穴を、人で埋め合わせることは出来ない。

男が遠く、一瞬こちらを見上げたように見えた。
孤独に聳え立つ山間に新しく建設された橋が人工的な輝きを放っていた。






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