紫色の花が消えるから


深く瞑目する。息を吸い込み、開いた目蓋は重たく、見下ろした手元は泥に汚れている。
掬い上げた水が手の隙間をすり抜けて、然程顔を濡らすこともなく、落下した。
落ちたのは水だけであったか。
俺は懐から文を取り出し、破り捨てた。川の水は、流麗な一文をゆるやかに流し去った。差出人は書いていない。鬼のいる場所は分かっている。少し飲みすぎたために取り逃したのである。鴉は然も当然かのように次の任務先を告げに来るが、この戦いに終わりはあるのであろうか。
再び水面に視線を落とし、冷たい水に頭をつける。濡れたままの姿で立ち上がり、覚束ない足を前に動かす。靴を履いているというのに裸足のような心地がした。
日々は同じことの繰り返しである。朝の空は白んでいる。
佇んだこの地点から、人は己の生を見上げるのだろう。それを正しく捉えるには、その一生を要する。

刀を抜いた。斬るものはなかったが、斬らねばならぬと思った。それは己か、この幻影かーー。
風に揺れ、群生をなす葦の向こうで、見慣れた女の背が揺れていた。
振り向いた女の表情はよく解らなかった。
見失う前に追いかけねばと、その後を追った。
人が通ることを良しとはせず、歩くようにはなっていないおうとつのある道を、女は飛びゆくように駆けて行った。
林を抜けた先の湿地帯に辿り着くと、女は燕子花(かきつばた)の花に身を屈め、その花の香りを嗅ぎ、此方を振り向いた。唇は弧を描いている。

「だんなさま」

確かにそう云ったような気がした。やはり覚えのある声であった。
その時、急に愛しさが込み上げて、だらりと腕を下げ、力なく刀を手離した。


記憶というのは曖昧だ。混在した己の感情をあたかも現実かのように映し出す。
境目を見失い、真実を見出だす前にはその対象へ手を伸ばしている。

「あなたのお好きになさってください」

己の手を取り、自身の胸元に押し付けた女の言葉に縋るように、俺はその身体を押し倒し、あらゆる雑念を振り払った。

どこかひんやりとした面差しからは想像のつかぬ、無邪気な女であった。ころころと笑い、名もない花に目を細めた。
失ったものは数多あるが、この女だけは失いたくはないと幾度もその手を引いた。
永遠などはないのだ。ただこの時を生きーー
長い長い川を二人で身を寄せながら歩いていた。


 *

目覚めると女の膝の上に頭を預けていた。
髪を撫でながら綺麗に笑う女の顔を見て、ああ、俺は夢を見ていたのだと、気が付いた。額に置かれたその白い手を握りしめる。
夢で見た、川に流したあの文には、一体なんと書かれていたのだったか。文字の美しさだけが心に残り、肝心なことは思い出せぬ。
仰向けに寝転び、いつまでそうしていたのか、目を細める女の手に頬を寄せて、横たえた身体を庭先に向けると、暖かな日差しが一帯を包み込んでいた。
じきに春が終わる。代わる代わる訪れる小鳥の囀ずりを、心地よく感じる。


「今日はずいぶんと甘えた素振りをなさるのですね」

女の声が静かに響いた。鳥たちに啄まれた土の、点々とひっくり返るのを目に留める。その奥のほう、池の隅で燕子花の花が濡れている。

「先ほど通り雨が降ったのです」

鳥たちが慌てたように飛び立ち、雨が止んだ途端、静かに戻って参りました。この庭の、土のなかへそんなにおいしいものでもあるのでしょうかね、と女は誰に掛けるでもないような風に言葉を呟いた。

「あのような場所に紫の花など咲いていたか」

「花が咲くまで目立たなかったのでしょう」

己の着物に手を添えながら、「そろそろこれも、繕い直さなくてはなりませんね」と袖口を摘まんだ。

「お前はいつもそのようなことばかり考えておるな」

「女とは、そういう生き物なのです。腹が空いていれば満たしてやりたいと思い、ほつれていれば整えてやりたい」細い指が視界を掠め、己の眉をなぞった。

「大の男の寝顔さえも、愛おしく思えてくるのですから」

それは母が子を見る眼差しでもあり、誘うような女の情を含んだものでもある。どちらとも判断がつかぬのは、この女の掴みどころのなさに己が翻弄されてしまっているからであろう。

「後悔をしたことはあるか」

「なにをです」

可笑しそうに微笑んだ女の顔を見上げる。その顔に手を伸ばし、少し引き寄せる。

「色々だ」

「ありません」

化粧をしていない色のない顔が厭に艶かしかった。指の腹で唇をなぞり、水気を含んだ肌の吸い付くような触り心地に惹き付けられる。耳朶の赤みが際立っていた。
それから、「目が赤い。泣いていたのか」と問うと「いいえ、幸せを噛み締めていたのです」と女はまた綺麗に笑った。

「さあ昼餉にいたしましょうか」

優しく語り掛ける女の口を塞ぎ、ゆっくりと身体を起こし、天と地を返す。
障子戸に互いの足先がぶつかり、驚いた数羽の鳥たちが一斉に飛び立つ音を聞いた。




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