待ち合わせ
くるくるとスプーンでカップの中のコーヒーをかき混ぜると気まぐれに入れてみたミルクが円を描いて溶けた。今時店内で昔どこかの外国で流行ったようなジャズを流しているこの喫茶店は自宅から電車で二駅程離れたところにあり、俺はここに何十年も何百年も通い続けているが、俺がこの場所を実際に思い出したのはつい一年前のことだった。意味が分からないと思われるかもしれないが、そういうことなのだ。
ずっと昔に俺は戦の中で死んだ。だがその数十年後、俺は生まれ変わり再びこの世に生を受けた。五つの時にふとした瞬間思い出し蘇った前世の記憶と一緒に。それからも俺は何度も生まれ変わっては度々、前世の記憶をその度に思い出した。現世もそうだ。一年前、仕事中に簡単な計算を電卓で弾いていた時、ふと自分が何者か、いや、何者だったかを思い出したのだ。何の前触れもなく。厄介なことに記憶は生まれ変わるごとに蓄積されていくらしく、二回目に生まれ変わった時の一生もその次の一生も、上書きされることなく別フォルダで記憶が残っている。厄介なことだ。思い出したくないことまで普通の人間の数倍持ち合わせているのだから。そんな俺の一番最初の記憶、俺が日向ネジという人間だった時、戦の前に約束をした人物がいた。
「戦争が終わったらきっとここの茶屋で一緒にお茶をしよう」
そう言って笑った彼女の顔は、もう今ではハッキリと思い起こすことも出来ない。だが俺は生まれ変わる度、その場所を探した。彼女と約束をしたあの茶屋を。勿論、二回目に生まれ変わった時にはもうその茶屋はなくなっていて空き地になっていたから俺は記憶を思い起こす度、今ではどんな姿形になっているかも分からないその場所を手当たり次第に探すのだ。時には勘で、時には古い地図を辿り、そして毎回きちんと見つけ出す。しかし骨を折りやっとの思いで見付けたその場所でいくら待てど暮らせども、これまで一度たりとも彼女が俺の前に現れることはなかった。今だってそうだ。降りしきる雨の中、やっとの思いで見つけ出したこの喫茶店の窓側の席で一人コーヒーを飲んで外を眺めてみたり本に目を落としてみたり。こんなことを一年前から暇を見付けてはやっているが彼女が現れる気配もない。
「はあ」
また時計回りにコーヒーをかき混ぜる。もしかしたらこの行為自体無意味なのかもしれない。前のこと過ぎて、この約束、いや彼女の存在自体、俺の作り上げた幻なのではないだろうか。そもそも、もし彼女が俺と同じように生まれ変わっていたとしても今のその姿を見て俺は気付けるのだろうか。朧気にすら顔も思い出せないというのに。
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」
数時間ずっとそうしていた俺にウエイトレスがコーヒーポットを手に寄ってきた。
「申し訳ない。長いこと、さぞ迷惑だろう」
苦く笑いそう言うとウエイトレスはとんでもないと慌てて手を左右に振った。
「いいんです。混んでいる訳でもないし。ただ気になって。あの、失礼ですけど、いつもそうして窓の外に目を向けていますけど、誰か待っているんですか?」
店員が言う。
「ーああ、多分」
これまた朧気に俺が答えた。
「多分…?」
「俺は待っているつもりなんだが相手は来ないつもりなのかもしれない」
「それは、どうして」
「…随分、怒らせてしまっているかもしれない」
こくり、とコーヒーを喉に通せば苦味が追いかけてくる。
その後、少しの時間をウエイトレスと話して過ごし、俺はいよいよ席を立った。今日はもう帰ろう。会計を済ませ釣り銭を受け取るとレジをしてくれたオーナーがふと窓の外に目を向けながら呟く。
「雨、上がりましたね」
窓の外へ目をやれば、確かに上がっていた。
ー手動のドアを、ギ、と押し開ければチリンチリンと鈴が鳴って扉が閉まる。一歩、店から外に出ると梅雨独特の湿った空気。しかしまだ真夏の茹だるような暑さではないから助かる。何気なく下ろした目線。視界には自分のつま先と、その一歩先にある水溜り。これから一旦帰宅して、準備をしたら夜は久々に大学時代の友人達と飲みに行くことになっている。その前にシャワーでも浴びてしまうか。そんなことを思っていた時、水溜りに、俺と向かい合うように現れた人の影。ふと我に返り、自分がぼうっと立っている場所が喫茶店の入り口の真ん前だったということを思い出した。慌てて顔を上げ身を端へ寄せる。どうも立派な営業妨害をしてしまっていたようだ。
「すいません。邪魔をしました」
そう口にし、相手に目を向ける。そして、止まる。全てが、だ。時も止まる。長年流れ続けてきた時が確かにぴたりと堰き止められたように止まったのだ。ライムグリーンのワンピースが風に揺らめく。焦げ茶の髪は肩まで伸ばされていて、その表情は、
「遅かったじゃないか」
ーその表情は、
幻でも何でもなく、俺の積年の記憶を確かな事実だったと裏付けるには充分なものだった。今まで朧気だったのに記憶の中の彼女が鮮明に色付き重なる。ああ、漸く声が聞ける。
「約束すっぽかして私のこと置いていった罰だよ」
まずは何から話をしようか。
兎に角今日の飲み会には行けそうにもない。今は募る話と、そして約束を果たす為、つま先を戻し再びこの喫茶店へ入ることにしよう。今度は二人で。
20150703