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時刻は午後の6時。 30分だけ残業をしてから帰り支度をすると席を立つのはわざとだ。 「お先に失礼しまーす」 他の仕事を押し付けられない内にさっさと社外に出てしまおうと出口へ向かう私に 「あ、苗字ちゃん、また今日も行くんでしょ〜?」 ローズ系で塗られた口唇が綺麗に弧を描いて思わず肩を竦める。 「わかります?」 「バレバレよ〜。だってすごい嬉しそうなんだもん。顔つきも足取りも」 「え?そんなに態度に出てますか?」 「出てる。苗字ちゃんってとってもわかりやすいのよねぇ」 小さく笑うとヒラヒラと振る右手で、あ、主任またネイル変えた、というのに気付いた。 「行ってらっしゃ〜い。またアタシにも付き合ってよね」 それだけ言うとパソコンに向き直す背中に一礼だけをして会社を後にした。 Welcome to Bar Calm 歩いて10分も掛からない所にひっそりと佇むビルの地下1階、4度目となるその扉を開ける。 「こんばんは〜」 カウンターの向こう側、グラスを拭いている手が止まると紺碧色の瞳が上げられた。 「…お前か」 それだけ言うとまた作業を再開させるのを後目に、左から2番目、すっかり定位置になったその目の前に腰を下ろす。 「今日も誰も居ないんですね」 見回さなくても扉を開けた時点でそれは分かっていたけれど、敢えて口に出したのは、この人と会話をしたいという一心だ。 「Barの客入りが盛んになるのは日が変わる辺りが多い。開店直後に来る物好きはお前位なものだ」 涼しい顔でそう言うとピカピカになったグラスを定位置へ戻していく手を眺めながら浮かんだ疑問を口にする。 「此処って何時までやってるんですか?」 「特に決まってはない。客が居れば開けているし客が居なければ閉める」 「へー。結構自由なんですね」 そんなので儲かるのかな?というのは心の中で思うだけにした。 「注文は?」 「あ、そうだ。待ってください」 鞄から取り出したのは電子ノート。 画面を出してからカウンターに置くと腕を組んで考える。 「うーん…」 険しい顔でそれと睨めっこする私と同じようにその瞳が覗いてきて当たり前に縮まった距離にドキッとしてしまった。 「な、何ですか?」 「前から気になっていた。何だそれは」 電子ノートをじっと見つめる瞳に、あ、睫毛長いな、羨ましいと思いながら慌てて答える。 「呑んでみたいカクテルをメモしてるんですよ。今日はどれにしようかなぁって」 初心者でも呑みやすく、かつ自分が気になったものをいくつか調べて手書きでメモしたもの。 呑んだものはイラストを添えて、簡単な感想を付け加えるのが最近で言う趣味になりつつある。 「それは見ればわかる。その機械は何だ」 「えー?知らないんですか?電子ノートですよ?」 「…タブレット端末とはまた違うのか?」 「全然違いますよ!これはホントにメモするためだけって感じで、安く買えますしほんとにノートみたいに使えて便利なんです。例えば、んー、これとか」 収納されていた専用のペンを取り出すと画面を変える。 分かり易く説明出来るのに適したメモはないものかと大量に溜まっているメモをスクロールして、一度止めた。 「ほら、こんな風に」 そうして見やすいようにひっくり返すとその目が驚いたように見開く。 出したのは"カクテルグラスの種類と違いについて"と銘打ったページ。 自分のために纏めたものだからとても簡易的ではあるけれど、パッと見てもわかるようにグラスのイラスト付きで書いてあるからわかりやすいんじゃないかとそれを選んだ。 「こんな風に文字も書けるし絵も描けて色も変えて塗れたり出来るんですよ。パソコンにもこのまま転送出来るし持ってると良い事づくめです」 無言で電子ノートを見つめていたかと思えばおもむろに拾い上げる右手。 更にまじまじと見つめる瞳が細くなっていくのに気付いた。 「え?何か…間違えたりしてます…?」 「いや、良く調べていると関心していた」 返された電子ノートを受け取って、勝手に上がってしまいそうになる口元をすぐにそれで隠す。 「…注文を聞いてなかったな」 涼しい顔を崩さないままそう言われて、画面をさっきのメモへ戻した。 「…そうだ、どうしようかなぁ…」 小さく呟いて考える。 主任に連れて来られたのを除くと此処に来て今日が3回目。 気になるカクテルはすごくたくさんあって目移りしてしまう。 1回目はブルー・ハワイ、2回目はカシスオレンジを呑んだから、今日はオレンジ系は避けた方が良いかな、と思うけど呑んでみたいと思うのがオレンジ系ばっかりなのがまた悩み所である。 人生初のカクテルがそれだったし、単純にやっぱり呑みやすさで考えるとそこばかりに目が入っちゃうんだよなぁ。 「ミモザ…ファジー・ネーブル…スクリュー・ドライバー…」 「…そんなに呑むのか」 驚いている紺碧に勢い良く顔を上げた。 「今のは注文じゃなくて!悩んでただけ!そんな分を弁えない事はしませんから!」 つい大声を出してしまった、と口元を押さえる。 「…ごめんなさい…うるさかったです…」 「他に客が居る訳じゃない。気にしなくて良い」 「……すいません」 縮こまってしまうのは、大人な雰囲気に全くそぐわないと自覚はあるからで、でも此処に通いたいと強く思うのは、単純にカクテルの美味しさと奥深さもあるし、この愛想がないようであるような不思議な存在が気になる。 「オレンジ系のカクテルが好きなのか?」 未だ定まらない一択に画面を見続けていた視線を上げたけど、瞳は完全にその手元へ落とされていて、此処からじゃ何をしているのかは良くわからない。 「あー、はい。やっぱり呑みやすいなぁって思うしフルーツ系って健康に良さそうなイメージがして」 口に出してから何かものすごい頭の悪い返答してるんじゃないのかな、と思ったけれどもう遅い。 「…そうか」 短く答えるとシェイカーを軽く上に投げた。 クルクルと回りながら落ちてくる銀色に視線を向けないまま器用にキャッチする。 思わず見惚れたまま動けなくなった私に 「ならばその健康に良さげなカクテルを作ろう」 それだけ言うと、トップとストレーナーという蓋に近い物を外した。 並べられた瓶から3本、チョイスしていく手元を見つめる。 その内の1本がウォッカだというのは把握出来たけれど、あとの二本は何なのか良くわからない。 多分シェイカーにそれを入れているんだろうけどカウンターが邪魔で窺えないので大人しく電子ノートに視線を落とした所、急にガガガッ!と鳴り出した地響きにビクッとしてしまった。 「なん…何の音!?」 「ミキサーだ」 相変わらず涼しい顔を崩さないのを気になってカウンターの中を覗き込めば、言葉の通り電子音を唸らせてグルグルと回る黄色い液体にまた疑問が湧いて出る。 「それ何ですか?」 「パイナップル」 それだけ答えると若干ドロドロした液体を濾していく動作を身を乗り出したまま眺めた。 「興味津々、という顔だな」 「え?あー、ごめんなさい…ウザイですか?」 「そうは言っていない。見たいのなら見ていて構わない」 「やったっ!」 空になったミキサーの中を濯ぐと今度はオレンジの実を入れる右手をただ眺める。 何を作ってるんだろう。 どんなカクテルが出来るんだろう。 期待がどんどん高まっていく。 先程と同じように濾していくのを眺めてから乗り出していた身体を大人しく椅子に戻した。 紺碧の瞳が僅かに細くなるのに気付く。 「これ以上見ちゃうと完成した時の楽しみが半減しちゃうから我慢します」 本当は全部見たいけど。 思ったままを伝えてから意味もなく天井で回り続けるファンを見つめた。 そういえば初めて来た時は、紙パックのオレンジジュースを使ってたのに、と疑問が浮かぶ。 ブルーハワイを頼んだ時のパイナップルジュースも紙パックだった。 そう考えると益々ワクワクしてくる気持ちを押さえながらシェイカーを振り始めた姿をドキドキしながら見つめてしまう。 本当に、素直にカッコイイなって。 それは顔だけじゃなくて所作っていうのかな? カクテルを作り上げていく動きをずっと見ていたい。 その手から作られるカクテルは魔法を掛けたみたいに綺麗で美味しくて、完全に魅せられてしまってる。 コースターと共に差し出されたのは初めて出されたのと同じ型のグラス。 それがピルスナー・ゴブレットという名前を持つのを知ったのもつい最近。 オレンジとパイナップルが調和した温かで明るい色合いと、グラスの縁に添えられたスライスオレンジで更に心がワクワクしてくる。 「このカクテルの名前は?」 「アンジェロ」 短く答えた言葉を反復しながら電子ノートへペンを滑らせていく。 アンジェロ、なんてカクテル名、初めて聞いた。 記憶が薄れてしまわない内に見た通りにささっとイラストを描いていけばその瞳が驚いてるのに気付く。 「…メモってないで呑めって感じですよね」 小さく頭を下げてペンをしまおうとした所で 「いや、随分と器用に絵を描くものだと考えていた。先程のグラスもそうだが良く特徴を捉えている。絵が得意なのか?」 その質問に照れくささから意味もなく笑ってしまった。 「好きは好きです。だからって得意って訳じゃないし何の役に立たないんですけどね。ははっ」 冗談で流そうとしたのにクスリともしないその仏頂面に、これは失敗したと思いながら急に居心地が悪くなったのを誤魔化すためにグラスを両手に取る。 近づけたと同時に鼻を抜けるトロピカルな匂いに笑顔が零れた。 「良い匂い…」 呟いてからグラスを傾ける。 「…ん、おいしっ」 爽やかな味わいながらフルーツだけじゃない奥深さというか、何だろうこれ。 何の風味だろう? 視線を上に向けて考えるも答えが出ない。 「フルーツだけではなくハーブとバニラがアクセントになっている」 「あぁ!そうだ!それ!」 思わず右人差し指を天に向けたけど、自分でも良くわからない行動だとすぐにそれを引っ込めた。 「だからスッキリしてるけど後味がしっかりしてるんですね」 美味しくて一気に呑んでしまいたくなる気持ちを抑えてまたグラスを傾ける。 答え合わせみたいにそのハーブとバニラの風味が伝わってきて 「…おいし」 小さく呟いてもう一度口に運んでからコースターへ置いた。 調子に乗ってペースを乱すのは駄目。 自制心を持たなくちゃ。 後片付けを始める目の前の姿を眺めながら、あぁ、カッコイイなぁとか綺麗だなぁとか思っていた所で目の前に出された掌サイズの皿に乗せられたナッツ類に意味がわからず見つめたままになってしまった。 「カクテルに興味が湧いたのはわかるが、空きっ腹で強い酒を呑むのは勧めない。此処にはこの様な乾き物しか用意していないため、もしも今後通うつもりなら何かしら腹の足しになる物を持参した方が良い」 「…Barって持ち込み禁止じゃないんですか?」 「基本的に許可はしていない。だがお前の生活様式から考えるに腹を満たしてから此処に来るというのは難しいだろう。軽食程度なら持ち込んで構わない。そうしたら呑めるカクテルも飛躍的に広がる」 「…ありがとうございます」 ニヤけてしまいそうになるのを誤魔化すようにナッツを頬張る。 まだ4回しか顔を合わせてないのに、私の事良く理解してるなぁ、なんて考えるけど、それも多分、職業柄そういう勘が培われたのかなぁ、なんて。 この人から見ると、私はただ単にカクテルにハマった流れ客が常連になりつつあるっていう認識で特別なものでもないんだろうな。 まずお店とカクテル以外の事は話さないし、私もそんなガツガツ訊けない。 だからこそ話したいが故にカクテルの事勉強し始めたんだけど、それはそれで楽しくなってきてる。 私にとって"普通じゃない世界"だからかも知れない。 「あ、そういえば今日は何で紙パックのジュース使わなかったんですか?」 「既存のジュースは手間が掛からないのが利点だがその分糖度が高くなる。身体に良いとは言えない」 「…あ、だから…健康に良いカクテルって…」 「フルーツを使うカクテルは本来、果物そのものから抽出するのが望ましい。しかしそれには工程が多く処理の仕方によっては雑味も生まれ口当たりが悪くなる。更に毎回均等な味が提供出来ず、デメリットが多いため最近のBarではほぼ既存のものしか使われていない」 「へー…あーそっか。フルーツ自体も結構高いですもんね」 そう考えるとこのアンジェロはもう二度と呑めないという事。 それを踏まえて一口呑めば頬がまた弛まっていく。 「…おいしっ」 あ、忘れないように今の話メモしておかなきゃ。 ペンを滑らせながら、という事は?と考える。 「じゃあバーテンダーさんはすごいんですね」 紺碧の瞳が訝しそうに見てくるものだから画面から視線を上げた。 「だってちゃちゃっと作っちゃったんで」 「ちゃちゃっとじゃない。それにまだ生の果物を使って安定した味は出せない」 「そうなんですか?でも主任めちゃくちゃ褒めてたけどなぁ。マティーニのバランスが最高だったって」 あの主任が褒めるんだから、多分この人すごいんだろうっていうのがわかる。 「あれは少し、気合が入った」 「気合い?何でですか?」 「初見でマティーニを頼む客は大体バーマンの技量を試そうとしている」 「え!?そうなんですか?」 「そうだ。敢えてツイストせず基本のマティーニを出したが、それが功を奏したらしいな」 「ツイスト…?」 「要はアレンジだ。バーマンが100人居れば100通りのマティーニが存在する」 「あー、だから主任あの時"おまかせ"って言ったんだ…」 すごい。 そんな駆け引きがあの時行われてたなんて。 やっぱり奥が深いなぁ。 「カクテルって知れば知るほど面白いですね!」 微笑んだ私にその口元がちょっとだけ上がったような気がする。 例えそれが完全に気のせいだとしても柔らかい雰囲気は本当で、それが嬉しかった。 Angelo 好奇心 ← |