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バーマンさんが届けてくれた社員証を片手に退勤して、出来るだけゆっくり歩く。 Calmに早く行きたいような、行きたくないような、そんな気持ちがずっと渦巻いてて、どうにか気を鎮めようとスマホを取り出した。 さっき主任が言ってたカクテル名を検索して、出てきた画像とレシピに、美味しそうって勝手に口を突いて出る。 へー、ワインとオレンジジュースとグレナデン・シロップとホワイト・キュラソー…。 主任が呑んでたら凄くしっくりきそうだなって思ってから、立ち止まった。 出てきたばかりの会社へ振り返って、見上げてみる。 大丈夫、かな。 そう考えても、私が今大事なのは"Calmで待ってる"って書き置きをしてくれたバーマンさんだから、戻る事は出来ないんだけど。 主任達が暴いた不正は、事が事だけに会社中にすぐに知れ渡って、社長から何から、いつもなら見た事もない偉い人が集まってた。 当たり前に私も聞き取り調査の協力を命じられたんだけど、今日だけは無理ですって必死に突っ撥ねた。 だって、これで私が行かなかったらきっと本当に終わっちゃうから。 だから渋い顔されたけど、何とか自分を貫いた。 直接関わってた訳じゃないし、とりあえず後日って事で許して貰えたんだけど、事務の中でも何人か、同期に言われるがまま手を貸してた子も居たらしくて、主任がちょっと、っていうかだいぶショックを受けてたのを思い出す。 疑わしい子は何人か居たのはわかってたけど、経理の子達を調べれば、それだけで証拠は十分だから、それは後回しにしたって言ってた。 だから、大丈夫かなっていう言葉が過ぎる。 それでも私に心配掛けないように、笑顔でCalmへ送り出してくれて、ほんとに感謝しかない。 人事の元カレさんがこっそり「俺が居るから大丈夫」って言ってたけど、もしかしてまだ主任の事好きなのかなってちょっと思った。 元サヤとかになったら素敵なのにな。 今、他人の事心配してる場合でもないんだけど。 またCalmの方へ向き直して、消えてしまった画面をつけた。 ワイン・クーラーのカクテル言葉は"あるがままの心で" あるがまま…。 でもさって、また考えちゃう。 辛うじて足は動かすけど、気持ちは晴れない。 だって私があるがままの心で伝えても、バーマンさんがどう思ってるかによって、答えはまた、変わってくる。 バーマンさんを傷付けたくないって思うのと同じ位、やっぱり、私も傷付きたくない。 だけど、そしたら結局、何にも進めないんだなっていうのも、気が付いた。 Welcome to Bar Calm 地下の階段を下りて、自分が作成したCalmの看板を眺める。 これだけで嬉しいって思う気持ちは全然、変わってないなって改めて噛み締めた。 扉に掛けられたClosedの文字には一瞬迷ったけど、でも待ってるって書いてあったしって勇気を出してそれを開く。 カランコロンって鳴る鐘に、あれ、そういえばこの間どうして鳴らなかったんだろうって思ってからフラッシュバックする光景に一瞬だけ目を瞑った。 大丈夫、大丈夫。 言い聞かせて、目を開けてみる。 誰も、居ない。ほんとに誰も。 そう思ったのと同時に、裏から姿を現したバーマンさんに、ドキッとしたような、ホッとしたような、言いようのない感情が押し寄せた。 「…鍵、閉めてくれ」 「あ、はいっ」 言われた通りにしてから 「…あれ?でもお店…」 当たり前に疑問が湧く。 「今日も貸切だ」 それだけ言って手を洗い出す表情は全然いつもと変わらなくて、何を考えてるんだか読めない。 「バーマンさん、大丈夫ですか?こんなに閉めてたらお店「新作が出来たから、名前に呑ませたい」」 あ、そういう事かってすぐに納得はする。味を良く知ってる常連客に試飲とか、そういうのあったりするもんね。 「どんなカクテルなんですか?」 こんな時でもワクワクしていく気持ちは隠せない。だって、絶対美味しいってわかってるから。 「座ってくれ」 「はいっ」 迷わず特等席に座って、バーマンさんを見つめる。 あー、やっぱり好きだなってニヤけてしまいそうになった。 好きなだけで良いかな。ってそう思っちゃうのは私が臆病だからなんだけど。 それでも手元をじっと見つめたまま動かなくなってしまったバーマンさんに、今度は顔が強張っていってしまう。 明らかにいつもと様子が違うから、何を、言われるんだろうって、抱えたままだった鞄を持つ両腕に力が入った。 音楽も流れてないから、無音の空間が段々と怖くなってきて、どうにか話題を探す。 そうだ。社員証の事、まだお礼言ってなかった。 「あ、バーマ「両親が、死んだ」」 どくんって音がして、何にも返せなくなったけど 「子供の頃の話だ」 その一言で、ちょっとだけ安心する。安心って言い方も違うけど、でもそれで紺碧色の瞳が優しいものになったから、それがちょっと、良かったなって。 「元々2人共、虚弱だった。姉は死期を知らされていたが、俺には何も聞かされていなかった」 凄く穏やかな声だけど、瞳はずっと一点を見つめていて、黙ったまま次の言葉を待った。 多分、だけど、今私が余計な口を挟んじゃいけないって、そんな気がするから。 「それから16になるまで、児童養護施設で育った。錆兎と真菰と出会ったのもその時で、鱗滝さんは、そこに金品を寄附する支援者だった」 自分の事を話す時って、こんなにゆっくりになったり急に速くなったり、そんな風に喋るんだって、何だか凄く無性に、愛おしくなる。 いつも堂々としてたバーマンさんが、今はとても小さく見えるからかな。 「俺を、高校に行かせてくれたのも、鱗滝さんだ。人並みの学歴がなければ、生きていくのは難しいと。だけど、それもすぐにこの道を志したため、無駄になった」 下を向いていた顔が上げられて、見つめ合う。 返事の代わりに頷こうとするより早く 「その学生時代、告白を受け、僅かな時だが付き合いをした事がある」 言葉の意味を噛み砕いた瞬間、思っていたよりも心が痛んでいくのを感じた。 「それが、この間名前が見た人物だ」 あぁ、だからって、心がざわついてるけど、納得をしてる。 そしたら名前で呼ぶし、抱き合ったり、するよねって。 「正直に、言えば、あの時の俺は全てにおいて、定まっていなかった。自分の人生も、気持ちも、良くわかっていないまま、ただ周りに流されていたから、バーマンになると決めた時に、初めて自分が何を成し得たいのかを漸く知った」 小さく息を吐いた瞳は、また下に落とされて、きっとその時の事とか考えてるのかなって何となくそう思った。 「自分というものが明確になった時、俺は"普通の人間"に、なろうとしていたのだというのも、気が付いた」 普通の、人間。 心で繰り返して、痛んでいくのを感じる。 私が嫌だった"普通"をバーマンさんにはないもので、望んでいたっていう事実に。 「他人に倣えば、群衆の中には紛れていられた。だが距離が近くなれば、その違いが顕著に現れる。俺が高校を退学した事が、相手にとっては不信でしかなく、バーマンになる選択を罵られたため、そこから一切会うのをやめた」 「…え?でも」 つい疑問を口に出してしまった。黙って聞いてようって思ったのに。 「実際に俺がバーマンになったという噂を聞きつけ、勤務先を探したらしい。バレンシアがブログで紹介された事で、そこからCalmのホームページに流れ着き、掲載されていた写真が似ていると確かめるために此処まで来たと言っていた」 凄いって、正直に思ってしまった。 カクテルを作る手だけでわかる位、好きだって事だから。 私なら、わかるかな?何年経っても、バーマンさんの手、覚えていられるかな…。 「言っておくが、今現在何も関係はない上に一度も連絡も取っていない。この間此処に居たのは、村田が清掃の際にドアベルを上げたのを戻すのも、鍵を掛けるのも忘れたせいだ。出ていこうとしないため話をつけようとしていた。だが平行線を辿ったまま名前が来る時間になったので一度帰らせようとした所で抱き着いてこられ、引き剥がしただけだ」 「…キス、は?」 え?だってしようと、してなかった…?ううん、してた。絶対。あ、キスはしてないけど、しようとはしてた。 「俺からしようとした訳じゃない。拒否する前に名前が居る事に気が付いたため、見られたという驚きで動けなくなった。籠城を決め込もうとするものだから、そのまま放置する訳にもいかず追い掛けられるのも叶わなかった。これが、この間お前が見た全ての真相だ」 「…そう、だったんだ…」 何か言わなくちゃって思ってそう口にしたけど、正直全然、頭が追い付いてない。 えっと、という事は…? 「他に訊きたい事は?」 「へ?」 視線を上げた先で、バーマンさんがちょっと呆れた顔してる。 「お前の事だ。まだ何か引っ掛かっている件があるだろう」 見透かされてるなって思うと恥ずかしいんだけど、でも、嬉しくなってしまう。 「…ニコラ、シカ、は?」 ちょっと枯れた声で、緊張してる自分に気付いた。 私がそう言うのを予測してたみたいで、凄く重たい溜め息吐いてる。 「あれは俺が自分のために作ったものだ。お前に会う前に"決心"するために煽ろうとしていた」 「…決心…?」 真っ直ぐ見つめる紺碧色が、"覚悟を決めて"いて、あ、だからニコラシカだったんだって気が付いた瞬間 「俺と正式に、恋人として付き合って欲しい。そう、伝えるつもりだった」 何も飾らない、間違いようもないその言葉に、動けなくなった。 バーマンさん、一生懸命自分の事を私にこうやって説明しようとか、何度も考えたのかなって思うと何だか凄く、おかしくて嬉しくて、その姿が歪んで見える。 でも、我慢しなきゃって思った時には、涙が鞄に落ちてて、見られないように俯いた。 私がその場で逃げてなかったら、こんな複雑な話になってなかったんだって思うと、悲しくなる。 「…ごめん、なさいっ…」 こうやってちゃんと話を聞いて、わかった事もある。 私、バーマンさんの事、何にも信じようとしてなかった。 好きとか言って1人で盛り上がって、でも都合が悪い場面に遭遇したら、すぐ目を逸らして、自分ばっかり辛いみたいな顔して、だから、子供なんだよね。いつまで経っても。 「何も知らなければ疑心暗鬼にもなる。俺が、言葉にしてこなかったから余計だろう」 悲しそうな声に顔を上げたけど、今度は視線を落とすバーマンさんと合う事はなくて、今までもこうやって、擦れ違ってきた事、たくさんあるのかも知れないって考えた。 「こと、」 張り付く喉に、ますます渇いていくのを自覚する。 強めに咳払いをしてから続けようとした時。 「お前が客で居たいと言った理由も、エックス・ワイ・ジーの意味を流した気持ちも、今ならわかる」 そう言われて意味がわからないまま 「んんっ!?」 すっごい変な声が出た。 意味って、だって"これで終わり"じゃないの!? もしかして違う意味があったとか?怖くて調べられなかったけど、そしたらとんだ勘違い所の話じゃない。 「バーマ「それでも名前にこれを、呑ませたかった」」 コースターを差し出した左手に言葉を止める。 その上に置かれた、初めて来た時と同じグラス、ピルスナー・ゴブレット。 でも中は空っぽで、瞬きを繰り返した。 疑問に満ちた瞳をバーマンさんに向ける前に、ミキシンググラスから液体が注がれていく。 とても濃い、青。ディープブルーにそっくりだって気付いた時には3分の1まで注がれた所で止まって、今度はバースプーンがそっと差し込まれた。 何をするんだろう。 ワクワクしていく心を、鞄で抱える事でどうにか落ち着かせる。 次に注ぎ込まれるのは鮮やかなオレンジ色。 さっき見た、看板を思い出した。だって色が凄く、そっくり。 スプーンを通して、ゆっくり流れていくマンダリンオレンジが、ディープブルーと混じり合っていく。 最後の1滴が注がれた時には、綺麗なグラデーションを描いていた。 思わず声を上げそうになったけど、そっとスプーンを抜いていくバーマンさんの真剣な表情にぐっと我慢する。 凄く、キレイ。 頭の中にはそれしか思い浮かばない。 眺めている間にも、ゆっくりと混ざり合っていく2色をずっと見ていたくなる。 カラン。 スプーンを置いた金属音がして、我に返った。 「…これ、は?」 グラスから、バーマンさんへ視線を向ける。 その口唇が動くのが、何故かゆっくりに見えた。 「カーム」 カームって、お店の、名前…。 だからバーマンさん、何日もお店閉めてまで完成させようとしてたんだ。 看板カクテルだってホームページに載せたら、カクテルを詳しくない人でも来てみようかなって思うだろうし、店名が付いたカクテルなら覚えて貰いやすい。 弛まっていく頬を隠さず、そのオレンジとブルーのコントラストを眺めた。 「…凄い。バーマンさん、ほんとに凄いですっ!綺麗!これならお客さ「お前のためだけに作った」」 紺碧色の真剣な瞳に射抜かれて、瞬きも出来なくなる。 「最初は驚かせたい、それだけだった」 右手が伸びてきて、何だろうって首を傾げる前に鞄を抱える両手を包み込んで、それが凄くあったかいって感じる。 「単純にこの橙から深い青への色変わりを起こせたら、喜ぶだろうと。だが、いつからか、この2色に俺とお前を重ねるようになっていた」 ぎゅっと握られた手は今まで感じた事ない位に力強くて、ちょっとびっくりした。 「これを完成させる事が出来たら、俺は名前の補色になれるのではないか。そんな期待を、持ち始めた。だから、今度こそこれに全てを託そうと…」 ふって短く息を吐いたバーマンさんが緊張してるって、その手の温もりから伝わってくる。 「もう一度、俺にチャンスをくれないか?」 瞬きは止まらなかったけど、真剣な表情に、真剣に返そうと考える。チャンスって何のだろう?って。 もしかして、また擦れ違ってる…?そうださっき、それ思ったんだ。 「カクテル言葉ってなんですか!?エックス・ワイ・ジーの!」 急に身を乗り出したから、ちょっとバーマンさん引いてる。 質問に質問で返しちゃったから訝しんでるし、もしかしてこれも勘違いされちゃうかもってすぐに続けた。 「"これで終わり"じゃないんですか!?」 これでもかって寄っていく眉間に、あ、バーマンさん怖いって瞬時に考える。 「エックス・ワイ・ジーのカクテル言葉は"終わりは始まり"だ。お前が終わらそうとするなら、俺はそこから始めるつもりだと示した」 そういう、事だったんだ。なんだ、そういう事…。 「…バーマンさん…流石にそれは…わかりづらすぎです…」 「……。今、自分でもそう思った」 でも、待って、それって…。 離れていく右手に、感じられなくなってしまった温もりがちょっと寂しい。 罰が悪いんだろうなっていうのは、何となくわかるから両手をぐっと握り締めた。 「私がお客さんに戻りたいとか言ったせいですよね…。ごめんなさい!」 ちゃんと、伝えてくれたから、私もそう。ちゃんと伝えなくちゃ。 全然、何にも整理出来てないけど。 こうしてる間にも段々と混ざりあっていくオレンジとブルーと、グラスについた水滴を見て、渇いた喉を思い出す。 「…バーマンさん」 「何だ?」 「これ、呑んでも良いですか?」 こんな時に?って思われるかも知れないけど、私にとっては、こんな時だからこそ、正直、喉の渇きが限界。 ちゃんと気持ちを伝えるって決意しても凄く長くなっちゃいそうだから、その前にちょっとでも良いから喉を潤したい。 それにカクテルは温度が肝心だから、このまま放置してたら味が変わっちゃうっていうのはバーマンさんが教えてくれたし。 「あぁ」 短い返事を聞いてから、ワクワクが湧いてくるのを感じながらグラスを手に取る。 どんな味なんだろう?最初はオレンジなのはわかってるけど、多分ジュースだけじゃないよねって思った所で、持ち上げる前に呑み口に蓋をするような右手に動きが止まった。 「…やはりまだだ」 「へ?」 もしかして完成じゃないとか?混ざり具合とか、バーマンさんなりの呑み頃とかあるのかなって思ったけど 「名前の本音を聞いていない」 その言葉に、紺碧色の瞳を訳がわからず見つめる。 「尋問する時は、相手に飲み物は呑ませないと、お前の上司が言っていたのを思い出した」 途端に顔を背けるその口元が上がっていて、え?もしかして、まさかバーマンさん… 「え!主任から聞いたんですか!?」 「聞いた。というよりその場に居た」 「嘘!?何処に!?」 って口に出してから、そんなの 「給湯室だ」 そこしかないよねってちょっと冷静になった。 だから主任、私を行かせないようにあの時ちょっと焦ってたんだ。 「社員証をお前の上司に託した時に言われた。本気で怒る名前を見てみたくないかと」 それだけ言うとまた顔を背けて笑いを堪えてるバーマンさんに、何かもう、恥ずかしさで死にそう。 だって見られてたなんて、知ってたらもっと 「お前は本当に、何ひとつ偽りがない」 そう言って、安心したように微笑う表情がすごく、すごく愛しく思った。 きっと私が想像出来ないような、辛い事とか、悲しい事とか、ほんとに全部きっとずっと抱えてきたから、"普通"に憧れたのかなとか。 わかんないけど、そうなのかなって。 「私、ずっと"普通"が嫌いだったんです」 気が付いたら、その言葉が口から出ていた。 「やりたい事とか全然何にもなくて、自分が凄くないのはわかってるから人並みで良いやって諦めて、だから、バーマンさんみたいに全然知らない世界で生きてる人が…輝いて見えました。何て、言うのかな?私もシンデレラみたいに特別になれたみたいで…」 そしたらバーマンさんは魔法使いなのかも。バーマンさんのカクテルで、魔法に掛けられたみたいに、幸せになるから。 「今まで、誇れるものなんて…何にもなかったけど、Calmと、バーマンさんを好きっていう気持ちだけは、誰にも負けたくない、なって…思っては、いるんですけど…」 でも肝心な時に逃げちゃったし、とか。そう考えると絶対とか言い切れないのが苦しい。 歯切れが悪いから、バーマンさんの表情がちょっと呆れてる。 「その好きは、バーマンとしてなのか?」 「へ?」 「それとも1人の男としてなのか?」 「どっちもです!!」 何も考えず即答してしまって、今度は小さく笑うから、その表情が好きだなって、また考えた。 「それなら良い」 そっと離れる右手に、あ、呑んで良いって事なのかなって思ってグラスを口へ運ぶ。 オレンジの匂いに、自然と目を閉じていたのを、喉へ流してから目を開けた事で気付く。 「んっ、おいしっ!」 あ、でもこれ、何だろう。呑んだ事ある気がする。懐かしいような…そうだ。 「テキーラ・サンライズ、みたい…」 呟いた瞬間、バーマンさんが凄く嬉しそうな顔するから、ドキッとした。 「その味を目指した」 「あ、そうなんですね!凄くそっくり…あ、でも」 もう一口呑んでから、納得する。 「…メロンの匂い」 「わかるのか?」 「わかります。ちょっとだけど」 鼻を動かして、うん、間違いないって思う。 テキーラ・サンライズの時はこの匂いはしなかったから、余計に気付いたのかも。 途端に眉を寄せてくバーマンさんに、あれ?これ言ったらダメだったのかなって焦った。 「美味しいですよ!?良いアクセントになってるしっ」 「アクセントにしたかった訳じゃない。理想は2色同臭味だった。やはりこの色に拘ると、どうしてもメロンシロップとリキュールが濃く作用する…」 両腕を組むと考え始めてしまうその紺碧色の瞳は、カクテルだけに向けられていて、やっぱりその変わらないひたむきさが好きだなって思う。 でもちょっと落ち込んでしまってるから、何か言えたら良いのにって考える。 上手くなくても、良いから。私が今、感じる気持ち。うーん、と…。 そう、そうだ。そうだよ。 混ざり合っていくオレンジとブルーに閃きに近いものを得た。 「補色ですよ!バーマンさん!」 グラスを置いてから、ぐっと両手を握り締める。 「補色は補う色だから!違くて良いんです!違うからこそ補えるんじゃないかなって!そっちの方が面白いと思います!私はこのカクテル好きです!だって私達みたいじゃないですか!?」 身を乗り出してじっと目を合わせた。 「正反対だから上手くいくって思いたいです!同じには、なれないけど、だから!補いたいです!バーマンさんの事!悲しい事とか苦しい事とか!楽しい事とか!一緒に…」 あ、キスされるって思った時にはもう口唇が重なってて、目を閉じる前に入ってくる舌に、何が起きてるのか把握出来ないまま、ただ頭がクラッとする。 「…んんっ」 この前より、凄い激しくて全然ついていけない。 「…はっ…」 服に触れる手で意味がわかった瞬間、その口唇から逃げていた。 「バーマンさん!待って!此処お店だし!」 「…悪い」 ふっと息を吐いてから、顔を逸らす仕草が色っぽいってドキドキもしてるけど、バーマンさんでも、こんなに感情が昂ったりするんだって思ったら、何か、安心した。 でもそのまま流れる沈黙は、ちょっと、じゃなくてだいぶ気まずい。流石に。 「い、ただきますっ」 空気に耐えられなくてグラスを手に取る。 とにかくこのうるさい心臓を鎮めないとって一口呑んで、小さく息を吐いた。 その間に、バーマンさんがさっき使ったミキシンググラスとかを片付け始めたのを音で判断する。 「…30分経っても味が衰えないハンター、覚えてるか?」 手元を見つめたままだけど、そう訊かれて大きく頷いた。 「覚えてます。あの、師匠さんが出した課題ですよね?」 「そうだ。その時もそれを応用して合格した」 「…へー」 って言ってみたけど全然わかんないから、想像してみる。 ハンターも確か2種類のお酒で作られるって言ってたから 「グラデーション…とか?」 「端的に言えばそうだ。その時は、色ではなく時間と温度による味の変化を起こした。最初はウィスキーの苦味を、30分後にはブランデーの甘みが強く出るように。それが成功した事で、カームを作る大きな足掛かりとなった」 「そうなんですね」 やっぱり凄いなぁ、バーマンさん。って思った瞬間 「全て名前が居たから、この世に生まれたものだ。既にお前は、俺を補って余りある」 止めようと思う前に、涙が出ていた。 こんな私でも、居ても良いんだよって、言って貰えたみたいで。 嬉しい所の話じゃない。 それでも、涙を拭って笑った。 嬉しいから、そう伝えたくて。 「私、いつの間にかCalmだけじゃなくて、バーマンさんの事もコンサルしてたんですね」 冗談混じりにそう言ったけど、それってほんとに凄い事だなって思うんだ。 ちょっとだけ自分に自信持っても良いかな、なんて。 バーマンさんに、好かれてる自信。 だって、こんなに言葉で伝えてくれるバーマンさん、今まで見た事なかったから。 それが嬉しくて、愛しい。 私の言葉に、穏やかに微笑ってくれるのも、嬉しい。 「…喉が渇いた。俺も1杯呑んで良いか?」 「あ、そうですよね!すいません!私ばっか呑んじゃって!どうぞどうぞ!」 バックバーに向かった事で見える背中も好きだなって思う。 何を作るんだろうって、チョイスしてるボトルから想像してみる。 シェリー酒だって事位しかわかんない。 戻ってきたかと思えば、新しいミキシンググラスを手に取るのしか見えなかった。 「営業部にはいくのか?」 突然の質問に、現実に戻る。 そうだ、それもバーマンさんに言ってなかったなって。言葉が足りないのは、私もそうだった。心配かけたくないとか、そういうので全然自分の事話さなかったから、きっとバーマンさんも感じてたのかな。 もっと、知りたいとか、思ってくれてたのかな? 「それなんですけど「俺は名前に向いていると思う」」 …びっくり、した。そんな事、言われるとは思わなかった。 「お前は話術に長けてる訳じゃないが、その分有無を言わさない勢いがある。俺もそれに屈した1人だ」 「…私そんな、凄い、ですか?」 「嘘がない人間の言葉はそれだけで強い」 水を止めたバーマンさんの瞳は、またちょっと悲しそうで、何を考えてるんだろうって気になってしまう。 「試してみたら良いんじゃないか?」 「…あー、でも…そしたらCalmに通えなくなっちゃうなっていう問題が…」 そうだ。それも話してなかった。 「残業も増えるし、そしたらもうちょっと会社の近くに住まなきゃいけないとか、そしたら金銭的に厳しいなってそういうのがあって…」 「だったら俺と一緒に住めば良い」 「は、ぇえ!?」 バーマンさんってほんと読めない。わかんない。急すぎる。 「Calmの、上にですか?」 「いや、違う。流石に商業用のビルに住み続けるのは無理があると、物件を探そうか悩んでいた所だった。お前がこちらに越してくるのであれば、本腰を入れよう」 「あー、そういう事なんですね…」 いや、でもそれでも急だけど。バーマンさんってやっぱりこう、変わってる。 「でも母親がどうかなっていう心配も…」 不思議そうにしてる表情に、これもちゃんと話してなかったなって苦笑いをするしかない。 「うちの母親、凄い過保護なんです」 あ、これは前に言ったかな?って口に出してから思い出した。 「昔から彼氏とか、そういうの結構厳しくて、あ、でもバーマンさんの事は主任が言ってくれたお陰で大丈夫なんですけど、一緒に住むってなるとちょっと…」 言いづらくて言葉を濁したけど 「反対されるか」 カクテルグラスを片手にはっきりと言うバーマンさんに小さく頷いた。 「多分…」 「それなら尚の事、早めに挨拶しておいた方が良いな」 「え?」 「お前の上司が何と言ったかは知らないが、心中では俺の事を良くは思っていないだろう。職業がバーマンというのは知ってるのか?」 「はい」 「知っているなら尚更、顔だけでも合わせておくべきだ」 透き通ってるけどちょっと黄色がかってる液体を口に運んでいくのが見えて、何のカクテルなんだろう?って、どうしてもそっちが気になってしまう。 「…でも、親に挨拶とか、面倒じゃないですか…?」 「いや?」 小さく首を傾げると何言ってんだ、みたいな顔してるけど、こういう所バーマンさんと感覚違うのかも。 でも、真剣に考えてくれてるってわかるから、凄い嬉しい。 「そっちに座って良いか?」 「へ?あ、どうぞ!」 そうだよね。今はお店営業してないんだし、ずっと立ってたら疲れちゃうかって納得したけど、実際に左隣へ腰を下ろすバーマンさんに心臓がまた煩くなってく。 初めて見た。バーマンさんがそうやってそこに座ってるの。 しかもそれが凄い、絵になっててカッコイイ。 あ、でも、そうだ。 「…今日もCalm、開けないんですか?」 「暫く休業しようと思ってる」 「え!?」 「もう二度と来ないと誓わせたが、混雑時の客を1人1人把握している余裕が俺にはない。村田に特徴を話しても、恐らくそれも完全な壁にはならないだろう。それならほとぼりが収まるまで待った方が良い」 あ、あの人の事か…。 「でも折角付きかけたお客さんも離れてい「お前が離れていく方が本末転倒だ」」 それだけ言うと、グラスを傾ける姿はカッコ良くて、カッコイイんだけど、でも。 「それこそ本末転倒じゃないですか!?」 何処か遠くを見ているような紺碧色に私が映るように顔を突き出してみる。 「私のせいでCalmが休業するのは嫌です!」 「お前のせいとは一言も言っていない。今のCalmは俺の理想とするCalmじゃない。それだけだ」 話を終わらせるように目を逸らす仕草に、言葉に詰まった。 そうだ。バーマンさんってこういう所、頭固いんだった。 どうにかこうにか食い付いていかないと、ほんとにずっとCalmが動かなくなっちゃう。 「でもそしたら、あのおじいさんからの前払い分どうするんですか!?」 ちょっと眉を寄せたから、これはイケるって続けた。 「次いつ来るかわかんないんですよね?毎日来てくれるかも知れないんですよ?バーマンさんのカクテル呑みたいなって。でもずっと閉まってたら、絶対悲しくなると思うんです!」 黙ったままだけど、多分心に響いてはいるんじゃないかな。 だってきっと、バーマンさん、ブログに載ったって知った時、隠せない程嬉しそうな顔してた。 「理想を貫きたいなら、絶対立ち止まっちゃダメなんです!いったんやめようとか、そんな事考えてると、それに慣れちゃうから!私みたいに…だからっ」 見つめてくる紺碧色の瞳に言葉を止めたのは、それがあったかいものだったから。 下手だけど、届いたのかなって。 「それなら名前も営業に行くべきじゃないのか?」 「うっ…」 そうやってまた高波を被せてくるバーマンさん、容赦がない。 誤魔化すようにグラスに口を付けて、誰も居ないカウンターの中を眺める。 「お前が営業に行くと言うなら、俺もCalmを開けよう」 「…その交換条件はすっごいズルくないですか…?」 そんなのイエスと言うしかない。 「あ、じゃあ私も交換条件出しますっ」 「何だ?」 「これ!このカーム、お店の看板メニューにしましょうよ!」 途端に目を窄めるバーマンさんに、納得してないんだろうなっていうのが伝わってくる。 「ダメですか…?」 「お前のためだけに作ったものだと言った」 「だからですよ!だから、作る度に私の事思い出して貰えるじゃないですか!そしたら残業とかでバーマンさんに会えない時でも、嬉しいし仕事頑張れるなって!思うんですけど…」 顔色を窺ってみるけどその瞳がちょっと揺れてて、ドキッとした。 暫く流れた沈黙に、続けようかどうか迷っていた所で 「カクテル言葉はどうする?」 その問いに、瞬きが多くなる。 「え?」 「正式にメニューとするなら、カクテル言葉は存在していた方が良いだろう」 「あー、そっか。"凪"とか…?」 「それだと他人にいちいち説明をするのが面倒だ」 カクテルを一口呑むと、空っぽのカウンターを見つめるバーマンさんは、考えているっていうより、完全に私の答えを待っているような雰囲気で、必死に言葉を探してみた。 カクテル言葉…。どうしよう。こういうの考えるの苦手だし…。うーん。 "補色"とか?でもそれだとまた説明がどうこうって言われるか。 "補う色"…"あなたを補いたい"とか?ちょっとクサイ? あんまり意味深な言葉にしても、また… 「あ、そうだ!」 両手を合わせた事でパチン、と音がしたけど、気にしていられない。 「バーマンさんっ」 そのまま鞄を漁ると電子ノートを取り出した。 何となく口頭で伝えるのは照れくさいから、画面へペンを走らせる。 「どうですか!?これ!」 そう言って向けた先、凄く柔らかい表情をしてて、あ、やっぱり好きだなって、気持ちが溢れた。 「単純だが、名前らしい」 残っていたカクテルを一気に呑み干すと 「開店準備をする。手伝ってくれ」 早口でそれだけ言うと、すぐに立ち上がるバーマンさん。 「あ、はいっ」 つられて立ち上がってから、何をすれば良いのかわからない事に気付く。 「えっと、何すれば良いですか?」 「クラッシュドアイス作り」 即返ってきた言葉にあの腕の辛さが蘇ってきて絶句したけど 「冗談だ」 穏やかに微笑む表情につられて、私も自然と溢れる笑顔を返した。 Calm あったかい止まり木 ← |