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Calmでバーマンさんと話せなくなってから、必然的に増えたのはLINEメッセージ。 でもそれも、何回もやりとりするって訳じゃない。 真逆と言って良い程に生活リズムが違うから、夜中に来てたLINEを私が朝起きた時に返して、バーマンさんが起きるお昼前とかお昼過ぎに返ってくる。 そこからまた私が終業するまで止まって、Calmの開店前に少し通話をする位。 運が良ければお昼休みにメッセージのやり取りが出来るかなっていう、完全にすれ違いというか、そんな感じの日々が3日続いてる。 盛況具合を目の当たりにしてから、あれからCalmには行ってないし、バーマンさんも来いとは言わない。 まだブログの余波が落ち着かないって言ってたから、私に気を遣わせないようにしてるんだなっていうのが、何となく声からでもわかって嬉しくなった。 多分、バーマンさんとの関係が店員とお客さんのままだったら、Calmに通い続けてたと思う。 他の綺麗なお客さんに埋もれてしまわないように。忙しさで忘れられてしまわないように。 きっと必死で、何とかバーマンさんの視界に、世界に居たいってしがみついてたんだろうな。 "少し寝る。仕事、がんばれ" タップした画面の先、バーマンさんの声で再生されてニヤけてしまう口元を俯いて隠す。 誰も見てないのはわかってるけど、一応。 通勤ラッシュを少し過ぎた時間でも混雑してる電車内、わざわざ誰かが何してるかなんて見る程、余裕がないって顔、皆してる。 私もちょっと前までは、こんな顔してたなって実感した。 もう一度画面を見て、口を結ぶ。 絵文字も何にもないけど、睡眠の邪魔したくないから返信もしないけど、これだけで今日も頑張れる。 頑張ろうって気力が無限に漲ってくる。 彼女になれたって思っても、良いんだよね? だから、会えなくて寂しいけど、仕方ない。そうやって自分に言い聞かせてる。 今この状況を嘆いたって、何かが変わる訳じゃないから。 私は私のやるべき事をやろう。 もう一度心の中で頷いて、ゆっくり開いた扉に気付いてスマホをしまった。 人の流れにうまく乗って、電車を降りると真っ直ぐ会社への道程を歩いていく。 営業部に異動するかしないかは、まだ保留にして貰ってる。 それは、私がどうこうというより、主任と人事の元カレさんが不正に関わってる人間を水面下で調べてるから、私は"親と相談してる"って返事を伸ばし続ける事にした。 でも母親と話し合ってるのは本当だから、嘘じゃない。 話し合ってるっていうか、一方的に色々言ってくるのを聞き流してるだけなんだけど。 私の事を本気で心配してるっていうのがわかるから、有難いとは思う。 でもその日によって提案してくる内容が違うのは、ちょっと勘弁して欲しい。 最初は営業部に行くのは栄転だから受けるべきって言ってたのに、次の日にはどうにか実家から通えないかとか言ってたり、今日の朝なんかは 「車の免許取るなら半分くらい出してあげるけど?」 とか言ってきて、それを聞いてた妹が 「どんだけお姉ちゃんの事家から出したくないの」 ってドン引きしてた。 でも、それはちょっとありかも、とは今思ってる。 そしたら終バスとか考えなくてもCalmに居られるかなとか。土日もバーマンさんに会いに行きやすくなるかなとか。お酒さえ呑まなければ良い訳だし。 でもそれやってたら、確実に雷が落ちるだろうなって。 異動の話が落ち着いたら、バーマンさんの事も言わなきゃとか。 考えなきゃいけない事は、たくさんある。 吐きそうになった溜め息は、バーマンさんの姿を思い浮かべて止めた。 とにかく今は、仕事がんばろ。 両手をグッと握り締めて、気合を入れ直した。 Welcome to Bar Calm "休憩時間、出てこられないか?" そうメッセージが入ってたのは、11時をちょっと過ぎた頃。 12時丁度に、母親から持たされたお弁当を広げる前に確認したLINEに驚きすぎて、声を上げそうになったのを何とか堪えた。 深呼吸をしてから画面をタップしていく。 "出られます!" それだけ送信してから、そういえばって疑問が湧いた。 "何処に行けばいいですか?" すぐにそう付け加えれば、既読の文字と一緒くらいに "Calm" その名前に勢い良く立ち上がる。 すぐにスマホと社員証と、あとデスクに置いてあったお弁当を抱えた。 これだけはちゃんと食べないと、明日から作って貰えなくなるってわかってるから、とにかく持っていく。 1分1秒でも早くCalmに行きたい、バーマンさんに会いたいって気持ちを抑えながら、また警備員さんに怪しまれてしまわないように会社を出る。 一瞬走ろうかと思ったけど、お弁当抱えてるし500m走の後、息を切らした姿でバーマンさんと会うのは嫌だなって出来るだけ早足で向かった。 カラン、コロン その鐘の音が凄く嬉しく感じて、弛んでいく頬のまま 「こん、にちはー」 そう声を掛けてみる。 此処でその挨拶をしたのが初めてだから、ちょっと詰まってしまった。 カウンターの中、顔を上げたバーマンさんは制服じゃなくてスウェットで、あ、それこの間も見たやつかな、なんて考える。 さっきまで明るかったのに、Calmに入るとまるで一気に夜になったような、そんな気分になるのが、凄く不思議。 「鍵、閉めといてくれないか?」 「あ、了解ですっ」 一瞬何でだろって思ったけど、お昼とは言え、間違えてお客さんが入って来ちゃう可能性もあるもんね。 言われた通りにつまみを回して、鍵が掛かった事を確認した。 どうしたんですか?って口を開こうとした所で、特等席からプレートを回収する右手に、また嬉しくなる。 そこに座るのが照れくさいって感じながら、腰を下ろす間にシェイカーを振り出すから、驚きでちょっと止まってしまった。 何作ってるんだろう?スウェット姿でシェイクしてるの初めて見た。 カッコイイなぁって、バーマンさんを見ると、そればかり思ってしまう。 振り終えると多分グラスに注ぎ入れてる手元は見えないけど、そこに落とされてる瞳が好き。 たった3日会えなかっただけなのに、その間にバーマンさんの事、もっと好きになったみたい。 「昼食は?」 「持ってきましたっ」 じゃん、と効果音付きで出せば、上げられた視線がそれを見つめた。 「弁当…、作ってるのか?」 「あー、私じゃなくて母親です。毎日外食だとお金掛かるし栄養も偏るからって」 「そうか」 そっと出されたコースターとピルスナー・ゴブレット。 満たされているオレンジ色に、自然と一番最初を思い出すけど、このグラスにカットオレンジは真新しい感じがする。 「ノンアルコールカクテルだ。仕事中に呑んでも差し障りない」 それだけ言うと片付けに入る表情は何にも変わらないし、それ以上何か言葉が続く事もないけど、頬は弛んでいく一方。 これを私に呑ませたいって、思ってくれたって伝わってくるから。だからオレンジなんだろうな、とか、そういうのも。 「…いただきます」 だから、それだけを返した。 一口呑んだ瞬間に広がるフルーツの甘みと酸味に笑顔が零れた。 「おいしっ」 シンデレラに似てる、けどちょっと違う。このさっぱりした感じはグレープフルーツかな? 確かシンデレラはもうちょっとレモンの酸っぱさがアクセントになってた記憶がある。多分だけど。 一息吐いて、グラスを静かに置く。 意識していた訳ではなかったけど、抜けていく肩の力を感じて、あ、私ちょっと気を張ってたのかなって気が付いた。 たった一口で、こんなに心が安らぐなんて、バーマンさんの作るカクテルってほんとに凄い。 「その顔が見たかった」 おしぼりを置くと、穏やかに微笑むその表情の破壊力も凄いけど。 お陰で一気に心臓が煩くなっちゃったよ。バーマンさんって、ほんとに天然さんだと思う。 嬉しさで変な表情になっちゃいそうなのを口を結んだけどその間にも 「弁当、食べないのか?」 話が進んでいっちゃうから、表情が追い付かない。 「あ、食べます!」 そうだ、忘れてた。残したら頬を抓られる所じゃない。さっさと食べちゃおう。 そそくさと蓋を開けて、お箸を取り出す。 食べ慣れたおかずを一口食べるまでに、ずっと向けられる視線を感じて、顔を上げた。 「…美味そうだな」 ぽそりと零す言葉に感情が籠もってて、あ、バーマンさんお腹空いてるんだっていうのが伝わる。 「どうぞっ」 すぐにそのお弁当と箸を差し出せば、ちょっと驚きの色が見えた。 「俺は「カクテルのお礼です!」」 少しの沈黙の後、箸を受け取る右手がちょっと照れくさそうで、笑ってしまいそうになる。 絶対断ってくると思ったし、このカクテルも代金は要らないって言うと思ったからそう返したけど、正解だったみたい。 黙ったまま口に運んでいく姿に、そういえばバーマンさんがちゃんとご飯食べてる所初めて見たかもっていうのに気が付いた。 「…美味い」 また小さく零した一言に、私が作ったんじゃないけど凄く嬉しくなる。 お母さん!バーマンさんが美味しいって言ってる!ってつい心の中で報告してから、その表情が少し寂しそうな気がして湧いた疑問は 「誰かの作ったものを食べるのは、久しぶりな気がする」 その言葉で、自然と錆兎さんを思い出した。 「施設に居た時からだからな」 このタイミングで訊いても、良いのかな。 訊いたら多分、答えてはくれるとは思うけど、でもそれで、何か嫌な記憶とかがあって、それを思い出させちゃったらどうしようっていうのも同時に考える。 しかも時間が限られてる中で、今その話振る?っていう。 今じゃなくても良いんじゃないかなって、迷ってる内にバーマンさんの表情はいつも通りに戻ってて、尚更訊くタイミングじゃないなって考える事自体をやめた。 グラスを傾けて、またトロピカルな味に癒される。 「…そういえばこれ、なんて言うカクテルなんですか?」 「……っ。プッシー、キャット」 今バーマンさん、ちょっと喉に詰まりそうになってたのは気のせい、かな? 食べてる時に話し掛けるタイミングって意外と難しいかも知れない。 「プッシーキャット…」 それでも今聞いたばかりの名前を口に出したのは、何ていうか音として耳に入れてみたいなって思ったから。 「可愛い名前ですねっ」 でも何で猫なんだろう?プッシーってどういう意味? 後で調べたい事を書こうといつもの癖で電子ノートを探そうとしてから、スマホしか持ってきてない事に気付く。 画面を開いて"プッシー"まで打った所で 「何をしてる」 いつもよりちょっと低めの声に視線を上げた。 「えっと、プッシーキャットってどういう意味なのかなって思って」 「"可愛い仔猫"。ノンアルコールカクテルの由来に余り深い意味はない。シンデレラと類似したものだ」 「へー。そうなんですね」 確かシンデレラって、お酒が呑めなくてもその世界に入っていけるようにって付けられたんだっけ? 子猫がBarに迷い込んじゃったとかそういう意味だったりするのかな?それ考えると、尚更可愛いかも。 想像した事で、弛んでいく口元を誤魔化すようにグラスを傾けた。 「美味かった」 差し出されるお弁当箱は、半分も減ってなくて思わず喉が大きく動く。 「もっと食べて良いですよ!」 「いや、十分だ」 それだけ言うとカウンターの下へ姿が消えてしまって、何だろうって思った時にはペットボトルを手に立ち上がってた。 タンブラーグラスに注がれていく無色透明な液体に、この間飲んでた白湯を思い出す。 …土日、どっちか会いたいって言ったらバーマンさん、迷惑かな。 箸を口に運びながら考えようとして、間接キスだって思ったら全部忘れてしまいそうになった。 いや、間接キスはこの間もしたし、それ以上の事もしたから、今更は今更なんだけど急に気付くと、心臓がびっくりする。 バーマンさんはドキドキしたりしないのかな?何か、いつも凄い余裕そうな表情が変わらないし声も変わんないからわかんない。 チラッと見てみた瞬間に動く喉仏にまたドキッとした。 バーマンさんって、何着てても色気が凄い。そう思う。あ、でもスウェット姿だとちょっと可愛さは増してるかも。 紺碧色の瞳がこちらを向いて、ずっと見てしまっていたのに気付いた。 「…箸が止まってる」 「…へ?あ、ほんとだ!」 しかも固まってたらしい。 視線を剥がして手元だけに集中しようとしたのに 「今日は来られるか?」 またすぐにそちらに向けてしまう。 どういう意味なのかは、その瞳と見つめ合いながら考えた。 「でも、バーマンさんまだ忙しいんじゃ…」 「開店前なら誰も居ない」 「…あ」 そっか。そうだ。準備中なら確かに、そうかも。 どうして今まで思い付かなかったんだろう。 もう店員とお客さんだけって訳じゃないんだから、律儀に18時に合わせなくたって良かった筈なのに。 あ、でも思い付いても私からは言えないかも。図々しすぎる。 「10分でも5分でも良い。こうして2人で顔を合わせる時間を作りたい」 見つめ合ったまま、そう言われたから不意打ち過ぎて、また心臓が止まった。 頭の中で勝手に反復していく台詞を止めて、口を開く。 「…ていっ」 何て言おうとしたかをそこで忘れてしまって、バーマンさんの表情がちょっと訝しんだものになった。 何か掛け声みたいになっちゃったけど何で?何言おうとしたの?私。…ダメだ思い出せない。 「17時半っ!…仕事終わるの!そう!定っ!定時なんです!定時が17時半なんですって言おうと思って…!」 「出て来なかったのか?」 「…はい」 途端に顔を逸らすバーマンさんが静かに笑ってるのがわかって、恥ずかしさで顔が熱くなった。 「だ、だから急げば35分には来られます!」 誤魔化そうと話を続けた事でその肩の動きが止まって 「それまでに、今日のカクテルを決めておこう」 穏やかな微笑みをずっと見てたい。そう強く思う。 …でも、そうだ私 「サボっててすいませんっ!外看板の事すっかり…!」 それも今思い出した。 「ここ数日、訪れた客に言われた。看板が出ていないからわかりづらいと」 「あ、出してなかったんだ…」 「村田が自分が描くと言って消したせいで出せなくなった」 何だろう、少しバーマンさんからむらたさんに対する怒りというか、そういうものが沸々としてる、気がする。 「そしたらカクテルだけでも描きに来たのに。すぐそこなんだから呼んでくださいよー」 思わず笑ってしまったけどバーマンさんは不服そうで、首を傾けた。 「俺が呼ばないと来ないのか?」 「…それは…!」 ヤバイ。また怒らせちゃった、かも。 瞬時に言い訳を考えたけど、此処で何か上手い事言おうとするのも違うかなって、何となくそう思って、ちょっと皺が出来てる眉間から視線を落とす。 「ごめんなさい」 今、Calmは凄く大事な時期だからとか、バーマンさん疲れてるだろうなとか、何かそんな尤もらしい理由を付けてたけど結局、私、怖かったんだなって、こうやって会って、気が付いた。 「何か、バーマンさんとCalmが、急に遠くなっちゃった気がして…」 聴こえてくる溜め息に、顔を上げられなくなる。 きっと凄く呆れられてるだろうなってわかるから、その表情も見るのが怖い。 あれだけコンサルするとか、皆にバーマンさんのカクテルを呑んで貰いたいって言ってて、思ってた筈なのに、いざそうなったら、嬉しさよりも寂しいとか、置いてけぼりにされたみたいな、そういう感情がどんどんどんどん溢れてきてる。 最後に此処に訪れた時、そこはもう今みたいに静かで穏やかな、私の知ってるCalmじゃなくて、居心地の悪さを何処かで感じたんだと思う。 それで多分、 「だからそれが本末転倒だと言ってる」 掛けられた言葉にも動けないまま、ただお弁当を見つめ続ける。 それでも撫でられた頭に、視線だけは上へと向いた。 バーマンさんの手、あったかい。紺碧色の瞳もあったかい。 「…えへへ」 自然と口から出たのは笑い声なのに、瞬きをした瞬間に落ちた雫は、自分でも良くわかんない。 好きだから、かな。 そう心の中で認めた時には、その紺碧色が近付いてきてて、吸い寄せられるように身を乗り出す。 口唇が重なってすぐに瞳を閉じたから、伝った涙のせいで3回目のキスは、少ししょっぱい、なんて思った。 * * * 「遅くなりましたぁ!」 言葉の通り、ヒィヒィ言いながら戻った自分のデスク。 やっぱり500mの全力疾走はキツイって改めて思いながら、椅子に座る。 しかもその前に残ってたお弁当をかっこんだから、ちょっと気持ち悪い。 込み上げてきそうな何かを無理矢理抑えて、溜め息を吐いた瞬間に 「…Calm行ってきたのね」 すぐ耳元で聴こえた声で自分でも良くわかんない奇声を上げてた。 「しゅしゅ主任っ!」 「ベルガモットの匂いがするわ。それに生のオレンジの匂いも」 後ろで鼻を動かす主任の、的確すぎる推理に怖くなる。 「すすすいません!5分オーバーしちゃって…!」 「それは良いのよ。このまま反省してるフリして聞いて?」 突然真剣になった主任に、動かないまま耳だけを傾けた。 「どこまでが敵かわかったわ。証拠も掴んだ」 早口でそう言う主任は、何処となく何かを警戒してて、それも疑問に思う前に話が続いていく。 「仕掛けようと思ったんだけど、同期くん今日に限って外回りからの直帰なのよね」 残念そうにしているのに、申し訳ないけどちょっと安心した。 今日もしその話をするのなら、Calmには行けなくなっちゃう所だったから。 「…明日、ですか?」 抑え気味の声で訪ねてみる。 視線を動かした先、小さく横に振る動きが見えた。 「残念だけど明日は係長が出張なの。タイミング最悪よね。こんな時に限って」 舌打ちした主任に、隣のデスクの子がちょっとびっくりした顔で見てる。 多分私、本気で怒られてると思われてるんだろうな。 「じゃあ…」 「ちょっと間は空くけど、来週の月曜にって事になるわね」 大きくは頷けないから、主任にわかる位、頭を縦に動かす。 「決戦は月曜日よ。それまでに覚悟、決めておいてね?」 ポンポン、と肩に置かれた手は重く感じて、頷くのも出来ないまま、ただ一点を見つめた。 覚悟、そうだ。覚悟を決めなきゃ。 自分のしたい事、やっとちゃんと見付かった気がする。 確かに昔の私は、営業部に行きたかった。その気持ちも、最近漸く思い出した。 でもそれも、明確な理由がある訳じゃなかったんだ。 少しばかり給料が良い、とか、Calmをコンサルしたみたいに、お店のデザインとかそういうのに携えるんじゃないかとか、そういう漠然としたもの。 "今"の私が、営業に行きたい理由なんて、何処にもない。 大事なのは、栄転でもお金でもやりがいでもない。 私が、Calmに通える事。バーマンさんに会える事。 それ以外、私にとってはどうでも良い。 お昼にバーマンさんと会って、話して、強くそう思った。 ついでに言えば、私、同期が何してたって別にどうでも良い。 不正なんかしてたって私に関係なければそれで良い。 他人の目なんてのもどうでも良いよ。 綺麗な紺碧の中に居られるなら、何言われたって、どう思われたって平気。 だから決めた。 このままで居る選択を選ぶよ。 私にとって、Calmとバーマンさん以外に重要なものなんて何もない。 比べられるものもない。 そう決めた瞬間、心の中が凄くスッキリして、早くバーマンさんに会いたいなって、会社から出て、すぐに歩く足を速めた。 軽食を買っていく時間も惜しくて、逸る気持ちをどうにか抑えながら、地下への階段を下っていく。 こんなにワクワクしたのは、まだバーマンさんの事もカクテルの事も良く知らない時以来かも知れないって思う。 今も全部を知ってる訳じゃないけど、ちょっとは詳しくはなった。 そっと開けた扉に違和感を覚えたのは、嫌な予感がしたのは、どうしてだろう。 その予感のまま、開けなければ良かったかも知れない。 主任が言う決戦が、今日だったら良かったのに。そうも思った。 だって知らなければ、幸せでいられるから。 例え、今までの事が全部嘘でも、幸せだって、言えたから。 「義勇」 甘く可愛らしいその声が"名前"を呼んでて、バーマンさんは、その人と、抱き締め、合ってて 理解をした瞬間、此処に居ちゃダメだって思うのに、勝手に震えてく身体は動けなくて、その間に離れた身体が、今度は顔が近付いて、あ、キス、するんだって、思ったら動いた足が縺れた、のかな。 それもわかんない。とにかく音を立ててしまって、すぐに向けられた紺碧の瞳が凄く、本当にすごく驚いた顔してた。 「…名前」 でも、声はいつもと変わらず冷静で、その呼び掛けで金縛りが解けたみたいに動いた足で、全速力で階段を上っていく。 心臓が千切れそうな位に痛いのは、きっと急に動いたせい。 右も左も判断出来ないまま走って、走りながら勝手に出てくる涙は、こんなに思いっきり走ってる筈なのに真っ直ぐ顎へ伝っていく。 だから、"現実"なんだなって、思った。 追い掛けてこないバーマンさんも、私に目もくれない人達も、派手に転んでしまう前に限界を感じて立ち止まるこの身体も、全部紛れもない"現実"。 「…ハッ、…う゛ぇっ、はぁッ、はっ」 込み上げてくる吐き気をどうにか抑えながら、思い出したくないものを思い出してる。 カウンターに置かれた1杯のカクテル。 何も知らないままだったら、面白いなって、あんなカクテルあるんだって、わからないままで、きっとまだ、笑っていられた。 リキュールグラスに満たされていたのは琥珀色はブランデー。 それに蓋をするように置かれたレモンスライスの上には砂糖の塊が乗せられていて、まるで帽子みたいって思ったの。 見た目も呑み方も凄く印象的で、いつかお酒に強くなったら呑んでみたいなって思ったからとても良く覚えてる。 そのカクテルは、サイドカーのカクテル言葉"いつも2人で"に近いんだって。 シンデレラとプッシーキャットみたいなものなのかなって、思ってから、あぁ、あれにはそんな深い意味はないんだっけって、そんな事を考えた。 Nikolaschka 覚悟を決めて ← |