Welcome to Bar Calm | ナノ
Bar Calmが、バーマンさんのバレンシアが、ブログで紹介された。

これが本当に凄い事なんだって、私が漸く実感したのは今。家へと向かう帰りの電車の中。
それまではひっきりなしに通知を鳴らすバーマンさんのスマホとか、師匠の鱗滝さんと電話してる背中とか、何だか忙しなさそうだなって感じるだけで、あんまり良くわかってなかったと思う。
電話を切った後の表情は、これまた珍しく罰が悪そうな顔をしてて、でもその意味は何となくその会話、というかバーマンさんの言葉で察する事は出来たから、私から言った。
「帰ります」って。
そしたら、ちょっと安心したような顔してた。自分の気持ちに嘘が吐けない人なんだろうなぁ。
駅まで送るって言ってくれたから断ろうとしたけど、Cascadeに向かうのもわかってたから、ついでって事で素直に送って貰った。
車を走らせる横顔にニヤけてしまいそうになるのを抑えながら、時折そっと眺めて今日はこれだけで良いって満足したのを思い出す。

今頃バーマンさん、大忙しなんだろうなぁ。
流れていく窓の景色から、もう一度スマホへ戻す。
あのおじいさんのブログの影響力。それはもう凄まじいもので、載ったばかりでその日の集客に繋がったのもそうだけど、今日になってもその余波は続いてる。
検索してみたら、SNSではこのおじいさんが何処のBarに訪れたか、特定しようとする人達が一定数居るらしくて、Bar Calmの名前は昨日の時点で既に有名になってたみたい。
だから主任もびっくりしたみたいで、私にLINEをしてきてくれたんだけど、此処まで大々的な騒ぎになると、困るのはバーマンさん。
徐々に周知されていけば良いってスタンスでやってたから、突然流れてきたお客さんは、それはもう予期していなかった異常事態で、足りない事とか物とか色々気が付いたって鱗滝さんに話してるのが聞こえた。
それでも一度独り歩きを始めた情報を止める事は出来ないから、今日の開店時間までに、その問題をどうにかひとつでも多く改善していくしかない。
暢気に椅子を見に行ってる場合ではなくなった、という訳だ。
バーマンさんの意識も、完全にそっちの方に向かってて、私の相手をしてるどころじゃないってもう雰囲気だけで伝わってきてたから、ちょっと理解のある、イイ女みたいなフリした。
Calmが人気になるのは、心から望んでた事だから良いんだ。
だけど、やっぱりもうちょっとだけ一緒に居たかったなぁって思うのも、好きだから仕方ない。
でも此処はぐっと我慢。バーマンさんを困らせて、嫌われたくないもん。

開いた画面の先、今もホームページのアクセス数が回り続けているのに、驚きと嬉しさを感じながら、心の中で"バーマンさん、頑張れ"ってエールを送った。

多分きっと、Bar Calmは此処が正念場。
このチャンスを上手く活かせたら、きっとバーマンさんの思い描く理想も実現出来る。だから、頑張って欲しい。
チャンスと言えば、今度セブンスヘブンを呑んでみたいなぁ。
どんなレシピなんだろう?とか、そんな事を思いながら、最寄り駅に着くまでカクテルについて調べ続けた。


Welcome to Bar Calm


「で?どうするの?」

家に帰るなり座らされて、凄みを利かせるのは勿論、過保護で厄介な母親。
これを口に出すと、また頬を抓られるから言わない。
「うーん、どうしようかなって…あはは」
意味のない笑いは余計にイラッとさせたみたいで、目が怖い。
でもそれしか言えないっていうか。うん、今はまだ、どうしようかなとしか言えない。
「アンタねぇ、真面目に考えてるの?部署が変わるなら当たり前に今までの生活だってガラッと変わるんだから今の内に考えておかないと困るのはアンタなんだよ?」
「うーん」
さっきも同じ事聞いたなぁって生返事で返す。
「営業なら付き合いで呑みに行かなきゃいけない事だって業務時間外に呼び出される事だってザラにあるんだから、此処から通うのは難しくなるんだよ?アンタその意味わかってる?」
「…うーん」
今のは真面目に悩んでる返事。
そう、そうなんだよなぁって。
何となく気が付いてたけど、それが私にとって凄く大きな問題。

営業にいったら、Calmには通えなくなるという可能性。

可能性っていうか多分、ほぼそう。通えなくなる。言い切れるのは間違いない。

コンサルという意味ではもう仕事は終わってるし、これから先バーマンさんも1人の常連客に構っていられる程の余裕もないと思う。
だからこれは仕方ないと言えば仕方ないんだけど、やっぱり今までの日課を自分から棄てる道を選ぶのは迷ってしまう。
私、そこまでして営業に行きたい訳じゃないし。
でも此処でやめて現状維持を選んで、もし上手くいかなくなった時、私はまた何かのせいにしたって思うのかなって。
あの時そっちを選べば良かったとか、そう思うのはやだなってなると全く気持ちが定まらない。
あ、でもこれだけは言える。
アイツが居るなら絶対営業には行かない。その一択。
あの嫌な顔を毎日見続ける羽目になるんだったら今のまま、Calmに通ってバーマンさんに癒される日々を続ける。絶対に。

「主任さんはアンタの気持ちを優先にって言ってたし私だってそうしたいけどアンタの場合ほんとに真剣に考えてんだか良くわかんないからこうやって」

またお説教始まったなぁって動き続ける口を眺め続ける。
お風呂入りたいなぁって思いながらそれは口に出さないまま、ただただ母親の気が済むまで続く小言を聞き流す。
口裏を合わすため主任に指示されたから。
私はあれから主任の家でお風呂を借りて、缶酎ハイを1本、帰り道で買ったピザをご馳走になって、就寝して帰った。
母親に電話した時、私は丁度お風呂を借りていたから電話に代われないって事にしたんだって。だからブログの件の後少しメッセージをやりとりした時、"コンビニで買った下着に着替えて帰りなさい"とも言われた。
呑んだ酎ハイの種類とか、ピザは何だったとか、そういうのも細かく書かれてて、主任凄いって思ったけど、そこまでしなきゃいけない母親の疑り深さも凄いなって思う。
もし主任と母親が本気で戦ったらどっちが勝つんだろうなぁ。

「聞いてんの!?」
「え!?何が!?うるさいなぁ!」

違う事を考えすぎてたせいで、つい、ほんとにもう自然と口に出してしまって、後悔したけどもう遅い。
「いででででっ!」
ごめんなさいを言う暇なく全力で抓られた頬っぺたに、お説教中に何かを考えるのはやめようと心に誓った。

* * *

結局何にも変わらないまま迎えた月曜日。
私の気持ちは定まらないし、バーマンさんからこれといった連絡もなくて、きっと私の事を思い出す暇もない程の忙しさなんだろうなって考えると、連絡するのも悪いかなってこちらから何か送ったりもしてない。
集中したい時ほど周りの声が雑音に聞こえたりするし、考えてる途中で急に引き戻される煩わしさとか、そういうの、あるんだろうなって。私の場合はそれが全部母親なんだけど。
それも半分本音で、あとの半分は、返信がなかったらどんな理由があっても寂しいって思っちゃう自分が居るってわかってるから、連絡はしないようにした。
おじいさんに気に入って貰えた"今日のカクテル"を描いた外看板は、お客さんが来る目印になるって暫くバレンシアのままにしようって話してたから、そこも問題はないし。
我慢したから今日、仕事帰りに寄れたら良いな、と思ってる。でもその前に主任とちゃんと話さなきゃいけないから、そういうの考えると憂鬱は憂鬱。
一応考えてみたけど、結局どれを選んでも、正解じゃない気がするから尚更なのかな。

どれかを選ぶなら、どれかは棄てなきゃいけない。

私は多分、その選ぶっていうのが凄く下手なんだと、最近になって漸く分析出来てきた気がする。

「失礼しまーす」

普段あんまり使わない会議室の戸を叩いてから恐る恐る開けて、ちょっとびっくりした。
そこに主任が居るのはわかってたから、そうじゃなくて隣に座ってる人事部の人に。
「苗字ちゃん、いらっしゃーい」
軽く手招きするネイルがまた変わってるなぁって思いながら会釈する。
「あ、怖がらなくて大丈夫よ。コレ元カレだから。一応アタシ達の味方」
それだけ言うと隣の給湯室へ消える主任。
「コレって言うな」
少し顔を顰めたその人は呆れてるけど、でも何かあったかい空気も感じられて、あ、ほんとに恋人同士だったんだなってちょっと思った。
人事の人って仕事柄、怖いイメージあったから出来る限り近付かないようにしてたけど、こうやって見ると、私と同じ人間なんだなぁって思う。当たり前なんだけど。
「…さ、座って座って」
戻ってきた主任の手には、3人分の使い捨てカップがあって、それを自然と配っていく動作がちょっとカッコイイなって考える。
「失礼します」
何を言われるんだろう。
緊張で速くなっていく心臓を感じながら、椅子に浅く腰掛けた。
「こうやって話してる所、敵に見付かったらめんどくさいから手短に話すわね」
ちょっと早口で言う主任に、瞬きで返事をするしかない。
敵って誰だろう?そう思った所で机に出された請求書にまた瞬きが多くなる。
「これ、覚えてるかしら?」
手に取らなくてもそれが何なのかはわかるけど、一応両手で受け取った。
「これ、この間金額が違うって…」
「そ。前に苗字ちゃんが指摘したやつ。これが始まりだったのよ」
そう言った主任は、いつになく真剣で、私は多分、良くわからないまま聞いてたと思う。

コンサルの請求書は、営業部が作成して、事務が名称の間違い等を確認し保管、経理が金額の不備等を検閲する。
その流れは私が入社する前からずっと変わらなくて、その請求書もいつものように名前とか住所とか、主に文章に不備がないかだけ確認する筈だったんだけど、その時丁度Calmのコンサルを始めようとしてた時だったから、参考程度にプロジェクトの概要を照会して、請求書との差額の違いに気付いた。
その時は営業部の係長がうっかりしてた〜なんて笑ってて、請求書を相手に送る前だったから、何処かでデータが混ざっちゃったんじゃないか多く請求しなくて良かったね〜なんて皆で笑って終わった筈なんだけど。

「これ、ミスじゃなくて意図的に仕組まれてたってなったら話は別よね」

フフ、と軽く笑う主任に、人事の元カレさんはまた呆れた顔をして
「お前こういう話ほんと好きだよな。事務じゃなくて探偵の方が向いてるよ」
そう呟いてて、あ、私もこの間同じ事思ったって、こんな時なのにちょっと笑いそうになってしまった。
笑えなかったけど。

「だからあの日、同期くんは苗字ちゃんを狙ったのよ」

話の核心に触れる主任の笑顔が消えたから。


不正とか、水増し請求とか、そういう単語を聞いた事はあったけど、まさか自分の身に降り掛かるとは思ってもみなかった。
まだ何処までの人間が関わっているのか把握していないし、確たる証拠は掴めてないけどって前置きしてから、早口で話を続ける主任に私なりに意味を噛み砕いて、やっと理解が出来た気がする。
要は私が要らない事をしたせいで、経理部と一緒に不正を働いてる営業部から目を付けられた。
それに加えて、新人の子のミスで請求書をひっくり返している事務の慌ただしさに、多分同期達は疑われてると焦ったんじゃないかって、主任達は推測してた。
だから待ち伏せして、私を言い包めようとかそういう目的だったんだと思う。薬を入れたのは弱味を握るためか、手駒にしようかどっちかって聞いた時、俯いた私に、元カレさんは
「もう少し言葉を選べよ」
ってフォローしてくれたけど、勢いに負けてて、やっぱ主任には誰も敵わないんじゃないかなって改めて思った。

その仮説が正しければ、経理の子達も同じように利用されてるのではないかって主任は言ってて、この証拠を見付ける事が出来れば、営業部から同期を追い出す事も出来るって可能性を示した上で、最後に訊かれた。

「そしたら苗字ちゃんはどうする?」

すぐに一生懸命考えた。それでもやっぱりまだ答えは出ない。
同期が居なくなれば、全部が全部上手くいく訳じゃないっていうのはもうわかってたから、母親に言われた事とか、今の想いを正直に話した所で、主任は頷くだけで済ませてくれたけど、元カレさんに

「でもそれで苗字さんが諦めたって、バーテンダーの彼が知ったらどう思うんだろう」

ほんとに尤もな指摘をされてしまって俯くしか出来なくなった私を庇うように
「ちょっと。アタシの大事な部下に何言ってんの…?アンタ何様?」
これまでにない程の凄みを利かせてて、今度は怖くて顔を上げられなくなった。

* * *

バーマンさんが知ったら、どう思うのかな。

開けようとした扉を一度止めてから、意を決して開いた。
こんにちは、と言う前に言葉を止めたのは、
「いらっしゃいませ〜」
全然、全く知らない男の人の声がしたから。
扉を開けたまま固まった私に、その人はサラサラで綺麗な黒髪を靡かせて
「こちらへどうぞ〜」
笑顔で席を案内してくれた。
バーマンさんと同じ制服を着てるのに気が付いてから、あ、そっか。従業員の方、雇ったんだって納得する。
気付いてから見回した店内には既にカウンターに1人の男性が居て、嬉しさで顔が綻んだ。
だってまだ開店から10分を過ぎた位だし、私より早くお客さんが来てるなんて、今までなかったから。
初めてのお客さんかなぁ?それともリピーターさんかなぁ?何呑んでるんだろう?見た事ないカクテルだ。
ワクワクしていた心は、いつもの定位置、左から二番目の席に置かれた"RESERVED"のプレートで鎮まる。
「こちらのお席にお願いします」
にっこりと微笑まれて指し示されたのは私にとって特等席の右隣。
「…あ、はい」
何か、ちょっと悲しいなって思った。けど予約じゃ仕方ないかって指示された場所に座ろうとした所で、裏から姿を現したバーマンさんの紺碧色と目が合う。
驚いた表情してるのが不思議で首を傾げそうになった瞬間
「村田、そこじゃない」
それだけ言うとさっきのプレートを持ち上げた。
「あ!…この子か!」
むらた、さんって人も驚いた顔をしてて頬が弛んでいく所の話じゃない。
もしかしなくても、その席、私のために取っておいてくれたのかな?バーマンさん、待っててくれたのかな?そんな都合の良いように考えてしまう。
「すいません。気が付かなくて!」
「いえ!大丈夫ですっ」
自己紹介した方が良いかなって思って名前を言い掛けたけど、他のお客さんも居るし、こっち見てるし、ひとまず大人しく座る事にした。内輪の雰囲気を嫌がる人って凄く嫌がるから。私も1人客だったら絶対気まずいって思うし。
そっとおしぼりを差し出されて、ベルガモットの香りを肺いっぱいに吸い込む。
たった2日振りなのに、何だか懐かしい感じがして凄く嬉しい。

「何故昨日は来なかった?」

顔を上げた先、バーマンさんの顔が怖くて止まってしまった。
え?怒って、る?

「あ、ごめん、なさい。会社も休みだし、多分バーマンさん、忙しいだろうなって思って…」
「連絡も来なかった」
「…忙しいかなって「返信する時間も取れない程じゃない」」
怒って、る。確実に。
連絡して良かったのかな?
この間まで、ちょっと掴めた気でいたけど何かやっぱりまだ良くわかんない。
「ごめんなさい。邪魔したくなかったから」
「それが本末転倒だと言っている」
あ、そっか。そうだ。怒ってる訳じゃなくて、気にしてくれてたんだ。
私を帰らせた事とか、その後に連絡がない事とか。
「ごめんなさい」
もう1回謝ったけど、弛んだ頬に力を入れても全然治まってくれなくて、おしぼりで口元を隠す。
「言葉と顔が対極だ」
「だって…」
嬉しいんだもん。もしかしたらだけど、バーマンさんも連絡来てるか期待してスマホ見てたりしててくれたのかな。そういうの考えると、ほんとに
「……」
視線を感じて我に返った。お客さんにもむらたさんにもめちゃくちゃ見られてる。
いつもの癖でバーマンさんと2人きりみたいな感覚で居たけど違うんだった。
バーマンさんもそれを感じたみたい。

「何を呑む?」

短く訊ねられて、そういえば外看板、今日もバレンシアのままだったけど良いのかなって思い出した。
でも今それを訊ね返したらまた変に思われちゃうから後でこっそり訊こう。
「あ、えっとどうしよう、かな」
何呑もうか、何にも考えてなかったな。
電子ノートを出す前に開かれた扉の音とむらたさんが迎える声で、ちょっと焦った。
私が此処で注文に時間掛けちゃったら、それこそバーマンさんに迷惑掛けちゃう。
何かないかな。すぐに思い出せて呑みたかったカクテル。
…あ、そうだ。

「スクリュー・ドライバー」

口を突いて出た名前に、バーマンさんは
「わかった」
一言で返事するとバックバーからウォッカの瓶を手に取ってから作業を始める伏し目がちな顔をチラリと眺めた。
カッコイイなぁって。
さっき入ってきたテーブル席に通された女性2人組もちょっと色めき立ってるのが伝わってきて、やっぱりカッコイイよねって複雑だけどそう思いながら、ちょっとだけそっちに視線を向けてみる。
それで気付いた。まだ椅子が設置されてない事に。
買いに行く暇なかったのかな?
訊ねようと動かした顔と口は、声を出す前に止まって良かった。
いつも通りって勘違いしちゃいそうになるけど、もうそうじゃないから、ちゃんと、しっかりしないと。
Bar Calmはもう閑古鳥が鳴くような所じゃない。バーマンさんは此処のマスターで、私はあくまでお客さん。
寂しいけど、やっぱり線引きはちゃんとしなきゃいけない。
だから話し掛ける代わりにその仕草とかをちょっとだけ眺める。
コースターを滑らせる手に、好きだなって咄嗟に出るのが、ちょっと自分でもどうかと思うけど。

タンブラーグラスには並々と注がれた黄橙色。
縁にはネジみたいにクルクルと巻かれたオレンジの皮が飾られてる。
声を出しそうになるのを何とか堪えて、嬉しさとか驚きとかそういうのを表情だけで伝えた。
バーマンさんも無言のままで、すぐに視線を逸らされたけど、その表情が柔らかくて嬉しくなる。
一口呑んでから
「おいしっ」
小さく呟いた。
一言の感想くらいなら良いかなって思って。
そしたらバーマンさんの表情がはっきりとわかるくらい微笑んでて、あ、その伏し目がちの笑顔も新鮮で好きかもって、ドキッとした。
でも、カクテルに関してはちょっと違和感がある。
多分バーマンさん、今日、オレンジ絞ってない。手元を見てないから確信ではないけど、これパックのオレンジジュースだと思う。味も舌触りも色も全然違うから。
もしかして、それも忙しいからなのかな?
フルーツ全部絞ってたらそれだけで時間も掛かっちゃうし、そこを妥協したのかも知れない。
色んな事訊いて、色んな事話したいけど、それが出来ないって、こうやって傍に居ても少しだけ寂しいんだなって思いながら、それが言葉になってしまわないように、グラスを口に運んだ。

ベースはウォッカだけど、全然お酒って感覚がしないのは、私が酔い潰れてしまわないように調節してくれてるんだろうなっていうのがわかるから、絶対に無理をしないようにちょっとずつ呑んでいく。
いつもなら話しながら呑むカクテルも、今日はバーマンさんが次々とカクテルを作っていくのを眺めながらだから、凄く新鮮。
私が3分の1も呑まない内にカウンターの6席が埋まって、テーブルの方も、むらたさんがお客さんに相席を頼む場面もあるくらいの満席状態になってる。
これは私が長居するべきじゃないなって思って、少し呑むペースを上げた。
大丈夫かなって心配にもなったけど、お客さんを捌くむらたさんの動きは凄く手慣れてるし、バーマンさんも信頼してるみたいで、接客を全部任せてカクテル作りに専念してるのが雰囲気で伝わってくる。
"むらた"って呼び捨てで呼んでたから、仲良いのかな?
ってそんな観察してる場合じゃない。スクリュー・ドライバーを飲み干してから、ご馳走様でしたの意味で頭を下げて、グラスをカウンターの回収しやすい位置に置いた。
丁度シェイカーを振り終えてからカクテルをグラスへ注いでる手元がチラッと見えたと同時、バーマンさんの視線がこちらへ向く。
「帰るのか?」
「はい」
「少し待ってろ」
そう言ってガーニッシュを添える手を速めるから小さく両手を振った。
「あ、大丈夫。バーマンさんはそのままで!」
むらたさんの方へ軽く手を上げれば、すぐに気が付いてこちらへ向かってきてくれる。
「碌に会話も出来なかった」
「仕方ないですよ」
手を止めないままだけど、私の事を気にしてくれてるのがわかるから、笑顔を向けた。
「凄い嬉しいです。皆がバーマンさんの作ったカクテル、美味しそうに呑んでるから」
安心して欲しくて、思ったままを伝えてみる。
それはね、少しは寂しいけど、でも素直にそう言えた。
これが私の見たかったCalmだったんだと改めて思い知る。

「頑張ってくださいバーマンさんっ」

小さく両手を握り締める私に、返ってきたのは穏やかな表情。
それだけで嬉しいなって、金額が書かれた紙を差し出すむらたさんへ視線を向けた。

お会計を済ませた後、むらたさんはまた忙しなくバーマンさんの作った茶褐色のショートカクテルをテーブル席に運んでいって、財布をしまいながらその姿を眺める。

「ブラックソーンです」

そう言って、コースターと一緒に置いたのは女の人の前。
お礼を言うその笑顔が凄く綺麗でドキッとした。むらたさんもちょっと顔赤くしてて、その気持ちわかるって思いながら鞄を抱える。
「ご馳走様でした」
バックバーからボトルをチョイスしてる背中に、聞こえてないけど小さくそう言って、地上に続く扉を開けながら、そういえば今のカクテル、カッコ良かったなぁ。なんて名前だっけ?なんて考えた。


Blackthorn
兆候