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わざわざ人生を振り返る事は滅多にしないけど、今、少し思う。 私は本当に、一般的でごく普通な道を歩いている、と。 ごく普通の両親の元に産まれ、三姉妹の真ん中として育ち、特に何かある訳でもなく小中高、そして短大を経て、新卒で中小企業の事務員として就職し更に2年。 本当に、何も書く事がないくらい、普通。 そんな事を考えるのは、今テーブルの上にある履歴書を眺めているから。 名前や経歴はスラスラ書けても、あとの半分はそうもいかない。 大体、趣味とか特技とかそんな他人様に自慢出来るようなものなんて持ち合わせてもないってば。 本当に可もなく不可もない成績だったし、ずば抜けた才能なんてある筈もなかった。 好きなのは図工とか美術くらいだったなぁ。それも人並みだけど。 特技寝る事、趣味寝る事とか書いたら面接どころかその時点で一発アウトなのはわかってるけど、そんな事しか思いつかない。 無難に音楽鑑賞(聴くのはもっぱら流行りのやつ)とか読書(漫画しか読まない)とか書いたってそこから話が膨らむ訳でもないし、多分面接をするお偉いさんも、あぁコイツつまんない人間だなって心の中では思ってるんだろうなっていうのがわかるから、こんな記入欄要らないと思う。 散々っぱら履歴書に対して不満をぶつけた所で書き損じた文字に溜め息をひとつ。 グシャグシャに丸めてゴミ箱にインしてやった。 そのままテーブルへ突っ伏して呟く。 「……転職、かぁ」 Welcome to Bar Calm 「苗字さん、これ明後日までに表にして纏めといて。あとこの間の見積もり出来てる?」 「はーい。今やってます」 小さい部屋の中、与えられた事務仕事をただ目の前の箱に叩き込んでいく。 あぁ、お腹空いたな、夕飯何かなぁとか思いながらこなせるようにはなったけど、それは別に楽しいものじゃないし、仕事のペースだって人並みでしかない。 転職を考え始めたのだって、ただ単にこの仕事に飽きたっていう漠然なもので、しかも今より少し家から近くて給料が良い求人をたまたま見つけたから。 本気で転職したい訳でもない。 私のやりたい事って何なんだろうな。 別に不満はないのに最近、意味もなくそんな事を考えてしまう。 定時を迎えて「お先に失礼しまーす」と挨拶をした所で、 「苗字ちゃーん」 後ろから飛んできた声に振り返る。 また残業かなぁと考えたのも束の間、呼び止めた人物が主任であるのに気付いた。 「お疲れ様です」 「お疲れ様、今日暇?この辺に素敵なBarを見付けたのよ〜」 「…はぁ」 暇は暇だけど…。 「一緒に行きましょ?」 「…私Barなんて行った事ないですよ?大丈夫ですか?何か失礼な事とかしちゃったら…」 「大丈夫!アタシがついてるから!ほんっと苗字ちゃんは心配性ねぇ!」 両肩をポンポンと叩かれ、断る選択肢が完全になくなってしまったのを悟った。 「此処此処っ」 それは会社から500mも離れていないビル群の一角。 地下の階段を下りた所に掲げられた小さな黒い看板には確かに"Bar"という金色の三文字が刻まれてる。 それに続く"Calm"の綴りは、多分店名なのだろう。 「こんな所良く見つけましたね…」 普通に歩いてるだけじゃ絶対に気付かない佇まいだ。 「ふふん、ピンときたのよ。アタシのオシャレセンサーが」 得意げに笑う主任につられて小さく笑う。 この人のこういう所、単純にすごいし面白いと思う。 いっつも自信満々だし、アグレッシブでほんとザ・デキる女って感じ。 「…さ、入るわよ」 高めのヒールをコツッと鳴らして引いた扉で揺れた鐘がカランコロンと小さく音を立てた。 こじんまり、と言ったら聞こえは悪いかもしれないけど、立ち飲み用の丸いテーブルが4つ、そしてL字型のカウンター席には6脚椅子が置かれていて、そこまで広くはない。 その内側、ズラリと並んだ色とりどりの瓶とピカピカと光るグラスの数々に圧倒されそうになりながら、誰の姿もないのに店の奥へつかつか進んでいく主任の背中をおっかなびっくりついていく。 スッとカウンターの裏側から出てきた人物と目が合って息を飲んだ。 真っ白いワイシャツに黒いネクタイとベストに身を包んでいる事から、このお店の人だというのはすぐにわかって、小さく会釈をする。 男の人、だけど後ろで束ねた髪のせいか中性的な雰囲気を感じるその紺碧色の目が僅かに動いた。 「まだ開店前だ」 酷く落ち着いた、それでいて冷たさを含んだ言い方に思わず身を引いてしまった。 「そうなの?ごめんなさ〜い。何時オープンですか?」 「18時」 短く答えながらワイシャツの裾を捲っていく指先を目で追う。 伏し目がちな横顔が、綺麗だと、ふと考えてしまった。 「あと軽く20分はあるね。どうしよっか〜?どっかで時間潰す?それとも今度にする?」 腕時計を確認する主任に視線を向けようとした所で 「開店前だと言っただけだ。注文を聞かないとは言っていない」 淡々とした口調に綺麗な人だけど随分愛想がないな、と感じる。 それでも主任自体は全く気にしていないようで「ありがとうございま〜す」と間延びした声で御礼を言うと早々にカウンターに座った。 「ささ、苗字ちゃんも座って座って」 「あ、はい」 慣れない高めの椅子に少し苦戦しながら腰を掛ける。 何だかムーディーな音楽が頭上で流れていて、完全に場違いだな、と目を泳がした。 「何を呑む?」 「…え?」 いきなりそう訊かれてもBarって居酒屋みたいにメニューないの? カクテルなんてそこらへんで売ってる缶でしか飲んだ事ないのに…。 主任に視線だけで助けを求めればそれを理解してくれたように得意げに微笑った。 「この子、今日がBarデビューなんですよ〜。初めてのカクテルなんで呑みやすいのお願いしま〜す。あ、アタシはマティーニ、"おまかせ"で」 「承知した」 棚に並んだ瓶から、迷う事なく何本か見繕う後ろ姿をぼーっと見つめる。 さっきは見えなかった下半分は黒のズボンにこれまた真っ黒なロングエプロンが巻かれていて、あ、ちょっとカッコイイなぁ、なんて思うのは慣れていない場所という気持ちの高鳴りもあるのかも知れない。 逆三角形のグラスの中一杯に氷を入れたと思えば、今度はビーカーみたいな入れ物にも氷を入れていて、何をしてるのか私にはさっぱりわからない。 ただすごく綺麗で滑らかな動きだ、という印象を抱いた。 「そういえば苗字ちゃん、最近元気なくない?」 突然の言葉に顔を主任に向ければ、その表情が心配そうにこちらを見ている。 「…そうですかね?」 「そうよ〜。何かあった?アタシで良ければ何でも聞くから話してみなさいっ」 「ありがとうございます…。あ、でも別に何にもないんです」 「そう?なら良いけど」 会話が途切れて、だから今日私を誘ってくれたのかなぁ、とぼんやり考えた所で主任の目の前に差し出された真四角の紙。 それがコースターであるのに気付いたのは逆三角形のカクテルグラスの底で隠れた後 「マティーニだ」 静かに発する声に、へーこれがマティーニって言うんだと心の中で頷く。 さっき氷で満たされていた筈のグラスはほぼ無色透明な液体に変わっていて、ピンに刺さったちょっと暗めの緑色をした実が入っている。 何だろう、あれ、と思いながらもすぐに次のカクテルを作りだそうとする手に視線を移した。 右手に持ってるのは紛れもなく紙パックのオレンジジュースで、瞬きが多くなってしまう。 私がじっと見つめているのに気が付いても軽くこちらを一瞥しただけで、すぐに伏せるとシェイカーを振る姿に、心臓が高鳴ってしまった。 これ以上見ているのも気恥しくなって目を泳がしてから主任の目の前に置かれたままのグラスを見止める。 「呑まないんですか?」 「苗字ちゃんのカクテルが来るまで待ってるの。乾杯しましょ」 ニッコリ微笑むその表情は、まさしく大人の女性でBarの雰囲気に溶け込んでるなぁと考えた。 「…コレ、何が入ってるんですか?」 身を寄せてからつい小声で訊ねたのは、何となく気持ち的な問題。 「あぁ、これ?オリーブよ」 「オリーブ…」 通りで見た事あるような気がしていたのか。 「食べるんですか?」 「んーまぁ食べる人もいるし食べない人もいる、かなぁ。要は人それぞれ。アタシは呑み終わった最後に戴くけどね」 「…へー」 何だか全てが私の知らない事ばかりだ。 気後れはするけど少し楽しいかも。 音もなく差し出されたコースターの上、ワイングラスより容量が大きいグラスが置かれたのに気付いたと同時 「…わぁ、キレイ…」 自然とその台詞が出ていた。 「テキーラ・サンライズだ」 それがカクテル名というのを何となく理解する。 オレンジ色がグラスの底に進むにつれ、赤に近いグラデーションを描いているのがサンライズ…朝焼けにそっくりでとても美しい。 「ふーん、お兄さんなかなかセンス良いじゃない」 主任が言う意味は良くわからなくても、そのバーテンダーさんを褒めてるのだけは私でも理解出来る。 その言葉に眉ひとつ動かさず、片付けを始める姿はやっぱり不愛想だと感じた。 「さ、乾杯しましょ」 グラスを片手に持つ主任に倣って両手で持つとそれを合わせるのかと思いきや、ただ軽く上げるだけの動作につい動きが止まる。 そのまま口を付ける主任の代わりというように疑問に答えたのはバーテンダーさん。 「カクテルグラスは薄く割れやすい。乾杯する際はぶつけ合わないのがマナーだ」 「…へー、そうなんですか」 「そうそう〜。当たり前の事過ぎて説明するの忘れちゃってたわ。ごめんね」 小さく笑ってからまたグラスを傾ける主任を真似て一口呑んでみる。 「……おいしっ…お酒じゃないみたい!」 テキーラって言うからてっきりすごくキツイ味がするのかと思ったけど、ほとんどオレンジジュースみたい。 「テキーラサンライズはジュースみたいに呑みやすいのが特徴なの。初心者にはピッタリよね」 あ、だからセンスが良いって言ったんだ。 「だからってビールやサワーなんかより遥かに度数は高いから調子乗って呑み過ぎると一瞬で潰れるから気を付けるのよ」 「え…そうなんですね…」 そう言われると今両手にあるそれがちょっと怖くなってきたな。 「分を弁えていればカクテル自体は恐れるものじゃない」 「そうなんですけどね〜。それがなかなか出来ない人間が多いことっ。今日もねぇ、何で分を弁えないであれこれ…」 マティーニを呑み干すとオリーブが刺さったピンを持ち上げ愚痴を言い始めた主任に、あぁ、また始まった、と右から左へ受け流しつつ、一口カクテルを呑む。 口当たりの良さに自然と頬が弛んだ。 「…ん〜…」 これまた自然と出た感嘆に紺碧の瞳がじっと見つめてくるものだからつい縮こまってしまう。 「何ですか…?」 「いや、随分美味そうに呑むな、と思っただけだ」 一瞬だけ穏やかな表情をした後で視線を落とした姿にドキドキと高鳴っていく胸は、初めて呑んだカクテルのせいじゃないと、そう、自覚してしまった。 Tequila・sunrise 熱烈な恋 ← |