Welcome to Bar Calm | ナノ
「…おいし」

シェリー酒を呑んで、自然と独り言を呟く。
静かにテーブルに置いてから、すぐ傍にある紙の束へ視線を向けた。
見た事ある筆跡で綴られてる文は、間違いなくバーマンさんのカクテルレシピ。
辺りを見回しながら、確かに倉庫だなぁって考えた。

所狭しと積まれた段ボールは、前に経営してた人がそのまま置いていったものだと教えてくれたのは勿論バーマンさん。
同じくBarだったそのお店は、業績悪化で閉める事になってしまったらしく、居抜きの状態で譲渡に出されていたのをバーマンさんの師匠、鱗滝さんが買い取った。っていうのがCalmの始まりだって言ってた。
設備も全部揃ってたから、1ヶ月も経たずにオープンは出来たけれど、その代わりこの裏側はまだ手が付けられてなくて、更にCalmの備品を重ねていってるからキリがないってちょっと困ってたなぁ、バーマンさん。

もし迷惑じゃなかったら今度此処の片付けも手伝おうかな、と思いながら、少し遠くでシェイクする音に耳を澄ます。

「お気に入り、だ」

思い出した囁きに、思わず変な声を上げそうになって顔を覆った。
耳に掛かる吐息まで凄く鮮明に蘇ってきて、それだけで心臓が止まりそう。

このままバーマンさんと居たら持たないんじゃないかって位。
どうしよう。ほんとに。
ずっとニヤけっぱなしだし事あるごとにドキドキしてる。

ふぅ、と息を吐いてから落ち着くためにグラスへ手を伸ばした時、着信を告げる画面とその名前に、嫌でも冷静さを取り戻した。


Welcome to Bar Calm


此処で電話しても良いものか迷ってから、ちょっとだけなら大丈夫かなって耳に当てる。

「…もしもし、お疲れ様です」

出来るだけ小声で応えてから、何となくだけどバーマンさんが居る店内へは背中を向けた。
『苗字ちゃん〜?お疲れ様!今電話大丈夫?もう家着いた?』
「…あー、えーと…」
『…あら?もしかしてその雰囲気は…わかったぁ、オアシスで羽根休めてるんでしょ〜?』
「え!?なんで!」
つい出てしまった驚きの声に慌てて口を押さえる。
『やっぱり〜?明日休みだしまだ居るんじゃないかと思ったのよ。ほんと苗字ちゃんってわかりやすんだから〜』
フフンと笑う向こう側に返す言葉が詰まってしまう。
またまんまと誘導尋問に引っかかっちゃった…。
「…どうしたんですか?主任!私に何か用があるんですよね?」
『ん〜?何かその慌て方は怪しいわね…。店内の割には声が反響してないし、外?にしても静かね。苗字ちゃん、今何処に居るの?』
電話越しなのに徐々に追い詰めてくる主任が怖い。
私の周りって何か、凄い人ばっかな気がする。
「…あ、えーと…倉庫みたいな所です」
『倉庫?』
「他のお客さんが来てるから邪魔しないようにしてて裏に…」
また電話の向こうで沈黙が起きたと思ったら
『…そういう事?ふーん。そう?へぇ。あらぁ、そうなの』
しきりに納得してて、それもそれで怖い。
「あのー、主任?用があったんじゃ…・」
『…あー、そうだわ!』
返事の後にまた続く沈黙には、何かあったのかなって不安が押し寄せる。
『…でも明日苗字ちゃんデートよね?やっぱ良いわ。今度の月曜にしましょ』
「え!?違います!何でそうなるんですか!?」
『だって今日そのまま彼のトコ泊まるんでしょ?』
…主任って、事務なんて地味な仕事より、探偵とかそういう方が向いてるんじゃないかってたまに思う。
何て返せば良いのかわからないまま固まった所で
『でも良く苗字ちゃんママがオーケーしたわね』
その言葉でとても重要な事を忘れていたのを思い出す。
「……っ!!」
声を上げるのは我慢したけど、その代わりにスマホの画面を見る。
ヤバイ。そろそろ何かしらLINEしないとヤバイ。
まだ残業って事にする?でも会社に電話掛けられたら終わる。
え?どうしよう…!
『苗字ちゃーん?』
「はい!すいません!」
慌てて耳に当て直して、また声が大きくなってしまったのに気付いて更に慌ててしまった。
『もしかして家に連絡してないの?』
「…えっと…、はい」
今からアリバイ作りなんて時間的に無理だし、素直に帰るか明日怒られるのを覚悟で強行するか。
考える必要もない位、"帰る"しか選択肢がない。
このまま強行したらCalmに通えなくなるから。
いくら何でも、それだけは避けたい。
「正直に話しても絶対ダメって言われるから友達の所に泊めて貰う事にしようと思ったんですけど…」
『断られちゃった?』
「…はい」
小さく答えて、バーマンさんが一生懸命書いたであろうレシピを見つめた。

こういう時、周りが羨ましいなって思う。
早い子は高校卒業と同時にひとり暮らしとか同棲とか、実家暮らしでも外泊なんて当たり前で、彼氏と旅行だってしてる。
何で私だけって考えちゃいけないのはわかってるけど、こういう時は無理。考えちゃう。

スマホ越しに主任の溜め息が聞こえて
『仕方ないわねぇ…』
すぐに呆れられてるのがわかって口唇を結んだ。
『アタシん家泊めるって電話してあげるから、その前に苗字ちゃんから連絡しなさい』
「…え…?でも…うちの母親結構…人の嘘とかすぐ気付くから…」
『手厳しいのは経験済みよ〜?大丈夫。営業部に推薦されてる、その話し合いで遅くなったって言ったら流石の苗字ちゃんママも驚くでしょ?』

…営業部──…。
やだな。思い出しちゃった…。

「それ!言わないで貰えませんか!?言ったら絶対喜ぶから!そしたら私…っ」
『営業部に行かなきゃいけなくなる?』
冷静な主任の言葉にスマホを握り締める。
絶対嫌だ。アイツと一緒の部署なんて絶対やだ。
「行きたくないです…。絶対…」
『ねぇ、苗字ちゃん?冷静に聞いて答えてくれる?』
「…はい…」
『営業部に行きたくないのは、あの例の同期くんが居るからっていう理由だけ?』
すぐに答えそうになったのを何とか堪えて、主任の言う通り、冷静になって考える。
それも、あるけど…
「私に営業は無理です。上手く喋れないし…」
『そう?でも最初に提出されたエントリーシートには希望部署、営業って書いてあるのよ』
「…え?そんなの書いた覚えないです。私主任にシート渡しましたっけ?」
『2年前だから覚えてないわよね〜。貰ったわよ〜?正確には私の元カレの人事担当が』
主任、人事にも元カレ居たんだ。
この間どこかの部署にも元カレが居るって言ってたけど…どこだったかな?
『それでね、同期くんの事も調べて貰ったのよ。あの子、仕事は出来るけど他の部署では余り良い噂は聞かないわね。経理部の女の子達には人気あるみたいだけど』
そうだ、経理部だ。
あれ…?総務部にも元カレ居るって言ってなかったっけ?
『何か裏があると思わない?』
「…えーと、裏って、何ですか?」
『それを今から更に調べるのよ〜!大丈夫。営業の係長には上手い事言ってあるから、暫くは同期くんも近付いてこないわ』
「…ありがとう、ございます」
『だから確かめておいてね?』
「…えーと…?」
『苗字ちゃんの本心よ。本当に営業部そのものに行きたくないのか』

私の、本心──…
本心って、それはだって…

『あと苗字ちゃんママにも連絡入れといてね。ん〜、そうね。10分経ったら電話するから』

その言葉にハッと我に返った。
そうだ、今の問題はそれだ。

『じゃあ、また月曜日ね』
「あ、はい!あ、あの主任!」
『んー?なぁに?』
「…本当に、ありがとうございます」
何から何まで助けて貰ってる。
見えないのはわかってるけど、深く頭を下げた。
『素直に甘えた方が可愛いって、わかってきたじゃない。バーマンくんにもそうやって甘えるのよ〜?』
語尾にハートマークを付けた口調の後、失礼しますという前に聞こえる電子音にスマホを下ろす。

主任って、ほんと優しいし頼りになる。
素直に、甘えさせて貰おう。
母親へ用件だけを送ってから、ちょっと緊張で渇いた喉へシェリーを流し込む。
空になったグラスを置いてから、既読にはなったけど返ってはこない画面を眺め続けた。
これで主任が説得してくれても、帰ってきなさいって言われたら言う通りにしなきゃいけなくなる。
バーマンさんが振るシェイカーの音がして口唇に力が入った。

帰りたくないよ。お願い。
今日だけで良いから。
明日からちゃんと無理も無茶もしないで、嘘も吐かないから。
今日だけ、今だけはバーマンさんの傍に居たい。

祈り続ける時間が、凄く長く感じた。
でも多分、そんなには時間は経ってないと思う。主任が言ってたのが10分だから、多分、その位。
通知で動いた画面に心臓が脈打った。早く見たいような、見たくないような、ぎゅっと閉じてから目を開けた。

"わかった。迷惑かけないようにね"

「……はっ…」
勢い良く息を吐いてから、いつの間にか息を止めてたのに気付く。
凄い、あっさり承諾してくれた…、とか思ったけど絶対これ主任じゃなかったら無理だったと思う。
「…ありがとうございます…」
目の前に主任が居ないってわかってるのに、感謝が口を突いて出た。

やった、これでバーマンさんと一緒に居られる…!
勝手に弛まっていく口元を両手で覆った。
嬉しい嬉しいって何度も心の中で繰り返してから、ワイングラスに目を止める。
一瞬、片付けに行こうかなんて思ったけど、それで仕事の邪魔になったら嫌だから、このまま大人しくしておく事にした。
代わりにカクテルレシピを眺めてみる。バーマンさんってほんとにこの仕事が好きなんだろうなって、その束から伝わってきて、またニヤけてしまった。
さっきまでは時間が経ってしまうのが怖かったのに、今は早く0時にならないかなって思ってる自分が居る。
カクテル話とか聞きたいな。バーマンさんってカクテルなら何が好きなんだろう?呑めないカクテルとかあるのかな?そうだ、普段何してるのかとも知りたい。全然、何にも知らないから。
それで好きとかどうなのって思うけど、好きなのは好きだから仕方ない。この気持ちは自分でも抑えられないもん。
バーマンさんも、同じ気持ちなのかな?だから突然キスしてくれたのかな?
今日はそれ以上の事とか、あったりして…。
そう考えると更にニヤけてしまう。何考えてんだろ私。でもだって夜だし、バーマンさんの部屋にお邪魔する訳だし、それはもう何ていうか…。
あ、ちょっと待った…。今日何にも考えてなかったから上と下バラバラだ。しかも全然色っぽくないやつ。
…これを、バーマンさんに見せるの…?
どうしよう、急に帰りたくなってきた。
いやでもまだそうなるって決まった訳じゃないし、もし万が一そうなったら電気消して貰うとかそういうので何とか…

光った画面の文字に、また現実に戻される。
そうだ私、主任にお礼送ってなかった!
慌てて手にした先に表示されるのは
"お礼はいいわよ〜バーマンくんと熱い夜をね"
ハートの絵文字にドキッとした。
どう返して良いか暫く考えてから
"本当にありがとうございます。今度カクテルご馳走させてください!"
そう返信をすれば返ってきたのは
"じゃあセブンスヘブンとラムコークが良いわね。んじゃ、月曜に"
またハートの絵文字で終わらせられたメッセージに、主任、気を遣ってくれたんだろうなって思いながら画面を消そうとして手を止める。
何でこのカクテルを選んだんだろう?しかもどうして2種類?
絶対何かしらあると気が付いて、すぐに検索を掛ける。
多分これ、主任から私へのメッセージなんじゃないのかな。
タップして見たのはセブンスヘブンのカクテル言葉"チャンス"。
うん。確かにそうかも。主任がくれた凄く貴重な泊まりというチャンスだ。
納得しながら、今度はラムコークを調べる。
目に入った一行に
「…あ」
無意識に声を出していた。
違う。主任が言ったのは、そのチャンスじゃない。

「何か呑むか?」

耳に入るのは静かで穏やかな声なのに、突然だったから心臓が凄い跳ねてしまった。
顔を上げてから、いつの間にかバーマンさんが居る事に気付く。
しかもその右手にはさっき片付けようと思ってたワイングラスがあって、ほんとにいつの間に?って二度びっくりした。
「あ、大丈夫ですか?お店」
見えないのはわかっていても、店内の様子を窺うと視線を向ける。
Barだから賑わうって言い方は違うかも知れないけれど、聞こえてくるシェイカーと、扉の音でお客さんが途切れていないのはこっちにも伝わってきてる。
「だいぶ落ち着いた」
ふっと短く息を吐くバーマンさんから少し疲れが見えて、すぐさま座っていた椅子を差し出した。
「今の内に休んでください!」
「いや良い。まだ客が居る。それより何を呑む?作ってくる」
「え?良いです良いです!それこそだいじょ」
言葉を詰まらせたのは、主任を思い出したから、だと思う。多分。
素直に甘えるっていうのと、カクテル言葉と、あと何か、色々。

「ラムコークが、呑みたいです」

私がそう言うのは意外だったみたいで、その紺碧の瞳がちょっと見開いてる。
「もしかして凄い強いお酒ですか?」
全くわからないまま頼んじゃったから、今更ちょっと心配になった。
「度数で言えばそこまで強くない。寧ろシェリー酒の口直しという点において適している方だ」
あ、だからびっくりしてたのかな。私がそこまで考えてるんじゃないかって思って。でも全然違うから、素直に理由を言わなきゃ。
「仕事の事で主任が今、私にカクテルでアドバイスくれたんです。それがラムコークで、呑んでみたいなって」
「…そういう事か」
それだけなのにすぐに意味を察してくれたのは、何ていうかバーマンさんの凄さだと、好きだからっていう気持ち抜きにして、ほんとにそう思うんだ。
「わかった。作ってこよう」
そうして今この場では訊かないでくれるのも、きっとバーマンさんの優しさ。
「お願いします」
カウンターへと戻っていく背中を見つめて、やっぱり好きだなって思い返した。

また視線をレシピの束に向けて、今度はニヤけないで真剣に考える。

"私"は、どうしたいんだろうって。

これはチャンスなんだ。言うなれば。
主任はそれを気付かせるために、セブンスヘブンというカクテル名を出した。
そしてそのチャンスに、多分だけど私の心の中を理解して、ラムコークを示してくれた。

だから考えよう。ちゃんと。

営業部に行きたかった筈の"私"はどうしてそれを諦めたんだろう。
そう考えると、すぐに答えは出てくる。

自信がなかったんだ。

大学で創作をやめたのは、皆が上手いから。
会社で営業を諦めたのは、同期が居るから。

結局そうやって、何かのせいにしてしか、生きてない。

「ラムコークだ」

そう言って静かに差し出されるタンブラーグラスには濃い茶褐色で満たされていて、縁には薄くスライスされたレモンが飾られてる。
「ありがとうございます」
笑顔でお礼を言ってから両手でそれを持つと口に近付けた。
あれ?これって…。
一瞬止まり掛けたけれど、グラスを傾けて確信する。間違いない、これ
「…コーラだ」
つい呟いた私に、バーマンさんが少し目を細めた。
笑ってる。そう気付いた瞬間、胸が熱くなった。
「"コーク"だからな」
「あー、そっか!そうですね!」
コーラってコークとも言うんだっけ。
でも普通のコーラじゃなくて、ラムっていう通り、モヒートを呑んだ時に知ったラム酒の風味がほんのりしてくる。
シェリー酒より甘くなくてさっぱりしてるから、バーマンさんは口直しに適してるって言ってたのかな?
もう一度、今度はもっとゆっくり味わってから喉を動かす。
私を見つめるバーマンさんから温かさが伝わってきて、それだけでも自然と顔が綻んだ。
「…おいしっ」
また音もなくテーブルに置かれたのは、おしぼり。
何でだろうって思った所で、すぐに背を向けると店内に戻っていく姿を引き留める言葉が見当たらなくて、ただ視線だけで見送ってから、グラスをテーブルへ置く。
コーラにラム酒を入れるだけでも、こんなに変わるものなんだ。ほんとカクテルって面白い。
きっとこのグラスの中には、私が予想も出来ないようなバーマンさんの拘りとか気遣いとか、そういうのが溢れる位に詰まってるんだろうなぁ。
カラン、と音を立てた氷にも笑顔が零れた。

なんだかこれを呑んだら、覚悟決まったかも。
そうだよ。ウジウジなんてしてらんない。バーマンさんに想いが届いたのだって、私が思い切って行動したからだ。

「よしっ」

今気合いを入れても何がどうなる訳じゃないけど、気持ちは大事。
スッキリした頭を更にスッキリさせようとレモンを半分にして齧ってみる。
酸っぱい。当たり前なんだけど酸っぱい。でも美味しい。
うん、何かちょっと、ううん、だいぶ前向きになれそう。
自然とおしぼりを掴んだ両手で、またバーマンさんの優しさに気が付いた。
私がこうするって、わかってたから持って来てくれたんだ。

頑張ってみよう。私なりに。
失敗しても良いよ。大丈夫。

胸を張ってバーマンさんの傍に居たいから、もう何かのせいにして、諦めるのはやめる。

もう一度グラスを傾けて、大きく頷いた。


Rum and Coke
もっと貪欲にいこう