Welcome to Bar Calm | ナノ
立ち止まって、淡い光に照らされた"Bar Calm"のオレンジとブルーを眺めた。
嬉しいなって、見る度に思う。
こんな風に自分が造ったものが、誰かの役に立てる日が来るなんて思いもしなかったし、その誰かがバーマンさんだっていうのも、初めて此処に来た時の私は全く、想像もしてなかった。

「…よいしょ」

看板の下に畳んであるブラックボードを抱えてからCalmに繋がる扉を開ける。
バーマンさん以外誰も居ない事を確認してから
「こんばんは〜」
その後ろ姿が気付くように大きめの挨拶をした。
振り向いた紺碧の瞳は私を見るなり驚いた顔をしてる。
その左胸に光る名札にまた嬉しくなった。
「早いな。残業じゃなかったのか?」
「主任がキリの良い所までって言ってくれたんで思ったより早く上がれました」
ブラックボードを壁際へ置いてからその前へ屈むと、昨日描いた"今日のカクテル ジン・トニック"の文字とイラストを消していく。
「バーマンさん、今日のカクテルって?」
12色のパステルチョークを出してから視線を向ければ、カウンターの上を丁寧にクロスで拭いているのが見えた。
「モヒート」
「了解です」
即答したけど、名前だけでどんなカクテルかわかるほどまでの成長はしてないからスマホで検索を掛ける。
写真とレシピを見て、あ、まだライムが余ってるんだなって、すぐにそう思った。
というのも、昨日バーマンさんがジン・トニックを選んだ理由がそれだったから。
バーマンさんの師匠、鱗滝さんが安く仕入れたとか言ってた。
このブラックボードも余ってたらしくて、私が探してた事を思い出して貰ってきてくれたらしい。
遊びがてらチョークアートでカクテルを描いてみたら気に入ってくれたみたいで、此処に来れる日は必ず今日のカクテルを描くのが日課になりつつある。
だから今日は残業で行けないかも、というLINEをさっき送ったばかりなのに、すぐに姿を見せた私にバーマンさんも驚いたんだと思う。

イラストに起こしながら、今日はモヒートが呑めるのかぁなんてワクワクしていく気持ちを噛み締めた。
ボードを描くようになってから、そのカクテルを今日の1杯として呑ませて貰うようにもなった。
カクテル言葉を知ってからというもの、意味的に頼めなくなっちゃったカクテルも増えたから、こうしてオススメに任せられるのは、ちょっと助かってる。

「…よし、出来た!どうですか?こんな感じで」
バーマンさんへ見えるように角度を変えて、私もそちらを見た。
小さく頷くとすぐに手元へ視線を向けるから、何か作業してるんだろうな。
「置いてきますね」
断りを入れてから鐘を鳴らして外に出た。
もう一度外看板を見た瞬間に頬が弛んで、階段を上がった先、ボードを立ててからまたニヤける。
これとホームページを公開してから、ちらほらと新規のお客さんが来るようになったって、バーマンさんが言ってた。
まだまだ微々たる集客力だけど、効果が出ている事は凄く嬉しい。
何歩か後ろに下がって、全体的なバランスを確認してからスマホで何枚か撮影していく。
これもあとでホームページに追加しよう。
そう考えながら階段を降りた。


Welcome to Bar Calm


「…ん、おいしっ!凄い美味しいです!」
感動を伝えようと握りしめた手に、バーマンさんは
「そうか」
それだけ答えると洗い物を始める。
態度はいつもと全然変わらずクールなんだけど放ってる空気は優しい、と思う。

掌に収まるガラス皿に盛られているのは、バーマンさん特製フローズンヨーグルトアイス。
優しい甘さが口いっぱいに広がるんだけど、ライムの果汁が入ってるらしくて苦みが程よくアクセントになってる。
ヨーグルトの酸味とも上手く調和しているし、添えられたミントの爽やかな香りがまた堪らない。
暫く余韻を楽しんでから、タンブラーグラスに入ったモヒートを口に運んだ。
ライムとミントが炭酸と相まってさっぱりとした呑み口に仕上がっていて、これがまたアイスと最高にマッチしてる。

「…おいし」

この間までは、看板造らなきゃとか、ホームページにはこれ載せようとか、そんな事ばかり考えて此処に通ってたから、何も考えずに堪能出来るのは久々な気がする。

こうやってバーマンさんのカクテルとデザートを一番乗りで堪能出来るんだから、今の私はかなり贅沢で幸せ者だ。

ふと、バーマンさんが動いた気配がして顔を上げる。
その背中が裏に入っていくのを眺めてからアイスを掬った。
おいしい。
今度は心の中で呟いたけど、頬は弛んでくれなかった。

「はぁ!?何?何それ苗字ちゃんそれでどうしたの!?」

珍しく主任の焦ってる声を思い出して、口唇を噛み締める。

バーマンさんに、嘘吐いちゃった。
本当は残業しなくて良いって、言われたからそれは嘘じゃないんだけど、原因が何ていうか、そんなに穏やかじゃない。

最近やけに私に割り振られる仕事が多いなっていうのは何処かで不思議には感じてたけど、この間のミスで自信喪失しちゃった新人さんから流れてきた仕事も何件かあったから、そんなに特別なものとは感じてなかった。

定時丁度に、主任に呼び出されるまでは。


そこに居たのは何にもなかったように歯を見せて笑う同期と、営業部の係長。
それだけで心がざわざわしたのに
「実は係長と営業成績上位の彼が直々に苗字ちゃんを営業部に迎えたいって言うのよ〜」
主任の嬉しそうな顔で、目の前が真っ暗になるってこういう事なんだって初めて知った。
係長がニコニコしながら何か言ってたのも、同期が私の肩を軽く叩いてきたのも、わかってたけど反応が出来なくて、主任が何となく助けてくれたのは覚えてる。
2人きりになった瞬間、営業部に行きたくない、アイツと一緒に仕事なんかしたくないって、多分そんな事を言ったと思う。
正直それも、あんまり覚えてない。

主任も全然意味がわからないって顔してたけど、余りにも私が必死だったからか
「何があったの?落ち着いて、ゆっくりで良いから話してみなさい」
そうやって優しく背中を摩ってくれて、言いようのない気持ち悪さを吐き出すみたいに、あの夜起きた事を全部話した。
バーマンさんが助けてくれた事も、錆兎さんが代わりに説明してくれた事も、それからその疑惑が出てから、同期と会うのは今日が初めてだって事も、全部。

主任も最初は驚いてたけど、私が話し終える頃には、いつもの余裕がある表情に戻っていて

「安心なさい。大事な部下とそのオアシスに指一本触れさせないから」

カッコイイ笑顔で不安を拭ってくれた。

こんな事話して良かったのかなって後悔してたから、その言葉に勇気を出して良かったって本気で思った。
もしこのまま何も言わないままだったら、もし主任が信じてくれなかったら、私の営業部への移動は今日にでも決定してたと思う。

でも主任には…、悪い事してしまった。
そうも感じてる。
うちで事務から営業へ異動なんてそうある話じゃないから、何も知らずに喜んでくれてた主任の気持ちを思うと心は痛くなるし、上司だからってそこまで甘えて良いのかって葛藤もある。

だけど主任が助けてくれなきゃ…

あー、ううん。もうこれは考えるのやめよう。
折角Calmに来てるんだから、幸せにだけ浸りたい。

溶けかけたアイスを食べるスピードを速めた所で、戻ってきたバーマンさんがまた驚いてる。
「まだ食べ終わってなかったのか」
「…あー、はい。美味しいからゆっくり戴いてました」
少しだけ眉を寄せたかと思えばタンブラーを回収していってしまう右手に今度はこっちが驚いた。
「…あの、まだ呑んでるんですけど…」
「体調が優れないのなら帰った方が良い」
「何でですか?全然元気ですよ?」
「半死半生な顔をしておいてどの口が言う」
バシャッと水音が聞こえた瞬間には身を乗り出してた。
「ああぁぁっ!!」
シンクに転がっていくライムとミント、そして空になったタンブラーに、今度は頭が真っ白になりそう。
「…なん、何で捨て…何て事!!バーマンさん折角作ってくれたのに!!」
「さっきから全く減っていない。いくらお前でもペースが遅過ぎる」
眉間に出来た険しい皺で言葉を返そうにも喉で詰まった。

バーマンさん、怒ってる。
…多分、本気で。

「だからって捨てる事ないじゃないですか!ちょっと考え事してただけで!具合が悪いとかじゃないです!折角…呑んでたのに…」

やだ、もう…。
ほんとにやだ。
幸せにだけ浸りたかったのに。
嫌な事全部忘れて、ただバーマンさんと一緒に居られる空間を楽しみたかっただけなのに。

張っていた気が抜けてしまって、腰を下ろすしかない。

全部、台無し。

全部全部、アイツのせい。

何で何食わぬ顔で私に笑い掛けられるの?
こっちはいつ顔を合わせるか毎日ビクビクして、此処に来てまでそれ引き摺って、でも一生懸命考えないようにして、頑張ってるのに。
何?営業部に推薦って。何処まで私を苦しめるの?

「…悪、かった」

上げた視線の先で紺碧色が揺れていて、何でそんなに動揺してるんだろうという疑問と一緒にポタッと手の甲に落ちた水滴。

やだ、私いつの間に泣いてた…

「捨てるのは‥流石にやり過ぎた。…悪い」

バーマンさん、自分が泣かせたって完全に勘違いしちゃってる。

「違うんです!あ、違わないけど!捨てるのはやり過ぎだって思います!凄いショックだし‥でもそうじゃなくて‥!ちょっと会社で色々あって…何か…もう何にも…」

何にも上手くいかない。
ほんとに、何にも。

全部台無し。

全部、全部…私のせい。
自分で何にも出来ない、私のせい。

波風立てるのが怖いから、今度は主任に助けて貰って、気持ちの切り替えも出来ないままバーマンさんに良くわかんない事喚き散らしてる。

どうしてキスしたの?なんて、気持ちを確かめる一言も口に出来ない意気地なしのくせに。

勝手に出そうになる嗚咽をどうにか抑えて涙を拭った。
もう帰ろう。こんな醜態見せ続けてられない。

「…ごめんなさい…やっぱり具合悪いのかな…おか「酒場の優しい相談者」」

コトッと、タンブラーを置いた音がして恐る恐る顔を上げた。

「それがバーマンだと、鱗滝さんに教えられた」

涙で歪んで見えるけど、真っ直ぐ見つめる瞳はとても綺麗だって、そう思う。

「バーマンとして壁にぶつかった時、もうひとつの言葉を享受した。バーテンダーは"優しい止まり木"でもあると」

だって、一生懸命話してくれてるんだもん。
自分の事、私に伝わるようにって。
だからその瞳が、凄く綺麗。

「止まり木くらいなら、俺にもなれるんじゃないかと、此処でカクテルを作り続ける事を決めた。少しはバーマンらしくなれた気がしていたが、そうでもなかったらしい」

綺麗なのに、伏せてしまった瞳が哀しそうで何でだろうって思った瞬間

「今日のお前は、無理に明るく振る舞い、おかしくもないのに笑っている。カクテルが進まないのも、俺の力量が足りないからだ」

その言葉にズキッと胸が痛んだ。
…私のせい。
笑顔でいようって思った結果が、バーマンさんを傷付けてしまった。
そんな事、望んだんじゃないのに。

「俺は、話を聴くだけで気の利いた言葉は返せない。バーマンとして致命的な欠点だ。こればかりはどれだけ技術を磨いても補う事が出来ない」

俯いてしまいそうになったけど、グッと顎に力を入れる。

気の利いた事なんて私にだって言えないけど

でも

「これ私の持論なんですけど!ほんとに気の利いた言葉言える人って実はそんなに居ないと思うんです!」

…ヤバイ。バーマンさん、また驚いた顔してるしちょっと引いてる。
流石に力み過ぎたかも知れない。

「口では何か凄い事言ってても、心でどう思ってるかなんて誰にもわからないじゃないですか!逆にこう、口に出さなくても本気で心配してくれる人も居て…あ、でもそれは口に出さなきゃわかんないよって毎回思うは思うんですけど、うちの母親とか特に!」
って違う。今はそうじゃなくて
「バーマンさんが優しい止まり木!凄い、私そうだなって思います!だから此処に来たくなるんだって、思いました!」

その優しさに鳥のように羽根を休めたくなる。
ずっと此処に居たくなる。
出来るなら、傍に居たいって。
此処に来た時から、ずっと思ってる。
だから、そんな自分が駄目みたいな言い方しないで。

「バーマンさんはバーマンさんで良いんですよ!人当たりが良いバーマンさんなんてバーマンさんじゃないし!」

しん、とした空気と目を細めた表情に、これはやってしまったと気付いた。
それでも

「…今日は、名前が呑みたいものを作ろう。何が良い?」

そう言って逸らした表情に、考えるより先に言葉にしていた。

「シェリー」

予想していたより遥かに驚いてるバーマンさんが、すぐに冷静さを取り戻したように訝しんでる。
「強い酒が呑みたいなら他にも「バーマンさんが選んだシェリー酒が良いです」」

男性の前でシェリー酒を呑む女性は、今夜はOKという合図だって言われてる。
だからカクテル言葉は"今宵はあなたに全てを捧げます"
バーマンさんが知らない筈ない。

「何があったかは知らないが一度冷静になれ」
「冷静に言ってますってば!何であしらおうとするんですか!」
「ノンアルコールカクテルを作ろう。今日はもうそれで帰れ。今のは聞かなかった事にする」

ダメだ。相手にされる所か機嫌を悪くさせてしまった。
でも、今その通りにしたら二度と此処には来られない。

「帰りたくない」

自分でも、どうかしてるって思う。

だけど、さっきみたいな穏やかな笑顔を、逸らさないで私に向けて欲しい。
私だけに向けて欲しい。
もう、会えるだけで良いとか、見てるだけで幸せなんて思えない。


「私、バーマンさんが好きです」



Mojito
心の渇きを癒して