Welcome to Bar Calm | ナノ
カルーア・ミルクを呑んで、口にしそうになった"おいしい"は心の中だけで呟いた。
いつも私がそう言うと、少しだけ目を細めて温かい表情をしてくれる人は今、私に背を向けてるから、例え声にしても届かない。
「美味い?」
2杯目のビールを半分程呑むとカウンターに両肘を付ける右横を横目で見て、聞こえないふりをした。

「ソルティドッグ」
「じゃあ〜、俺レッドアイ。生レモン軽く絞ってくれる?」

その声に自然と顔をそちらへ向ける。
「承知した」
注文を受けたバーマンさんがカクテルの準備をしていくのを眺めながら、その先の私の定位置、というか特等席に座っている男性2人組を盗み見た。
スーツを着たその人達は、雰囲気的に仕事上がりらしい。
初めて足を運んだみたいで、おしぼりを差し出すバーマンさんに"いつ開店したのか"とか、そんな事を訊いていた。
このままバーマンさんが作るカクテルにハマって常連さんになってくれたら良いなぁと思いながら、また一口カルーア・ミルクを呑む。
いつもなら私がそこに座ってるんだけどなぁ、なんて事も同時に考えてしまった。
バーマンさんはカクテルを作る時、そのL字に曲がった左側の一角でしか作業をしないから、そこに座れば、当たり前にバーマンさんを常に目の前で見られる。
私にとって特等席以外の何物でもない。

「そういえば俺今月の営業成績トップなんだぜ?」
静かとか穏やかとかそういうのにそぐわない声量に、男の人達から視線を受けて恥ずかしくなってしまった。
「もうちょっと静かに話してくんない?」
「は?何で?」
「他のお客さんに迷惑だから」
「俺の何処が迷惑なんだよ?」
一気に声を低くして不機嫌さをアピールしてくる。
そういう所だよ、とは言えなくてグラスを運んで誤魔化す。
「今月めちゃくちゃラッキーだったんだよ俺。2件担当変わったんだけどその2件とも社長が俺の事気に入ってくれて新規の顧客紹介してくれてさ〜」
全然、全く抑えようとしない声に余計向けられる視線がジトッとしたものになった気がして、もう左側を向けなくなってしまった。

帰りたい、な。

此処に居て、初めてそんな事を思った。
主任達はもう終わったのかな。
あの時、気遣いを素直に受け取らないでそのまま私も残業すれば良かった。
そしたらこんな思いしなくて済んだのに。
カクテルを作り続けるバーマンさんは、あれから一切私と目を合わせてくれなくなって、今も平静な表情をしているけれど、心の中で何を考えてるかはわからない。
うるさいな、とか、何でこんな奴連れてきたんだとか、そう思われてても仕方ないよね。
少し期待をしてバーマンさんを見てもこちらを向く気配すらない。
バースプーンをクルクルと回すその動作が好きだなって思った瞬間、涙が溢れてきそうになった。


Welcome to Bar Calm


「…ちょっと、トイレ…」
急いでスマホを持つと立ち上がる。
そう言うのが精一杯で返事を聞く前にトイレへ向かった。
ひとまず個室の鍵を閉めたと同時に盛大な溜め息が出て、溢れた涙を拭った。
見られてない、大丈夫。気付かれてもない。多分、大丈夫。
今日はもうダメ。此処に居ても、正直辛い。
「…はぁ…」
また流れてきた涙を強引に手で擦った。
これ以上泣くのはやめよう。
私が悪いんだから。

心の何処かで少し、見せつけたい。そんな気持ちを持ってた。
研修で一緒になった時から、いっつも私の事を子供扱いで馬鹿にして見下して。
それが凄い嫌だった。今もずっと嫌。
でも同期だし同じ職場だし、波風立てちゃいけないって我慢して愛想笑いしてきたから、だから少し、反発したかった。
そして、自慢をしたかった。
私だってこんな素敵な場所に1人で通えるんだって。
いつまでも子供みたいじゃないんだって。

そう考えてる時点で、子供なんだけど。

結局強く言えないから、バーマンさんにも迷惑を掛けてる。
しかも、もしかしたら、変な勘違いされたかもって。
でも、バーマンさんは私の事なんて何とも思ってないんだろうなって。
そう考えたら無性に悲しくて仕方なくなった。
この間までは、見ていてカッコイイなぁとか、会えるだけで嬉しいなぁとか、本当に何となく思ってただけなのに。

今はこの状況が、とても辛い。

スマホのロックを解除して母親からのメッセージを確認する。
"帰りに牛乳買ってきて"
それだけなのに、いつもだったらちょっと苛立ってしまうのに、今は凄く安心した。

帰ろう。
親から電話が来たって嘘吐いて謝ってお金払って、帰ろう。
バーマンさんが作ってくれたカクテルを残したくないけど、呑み終えるまで頑張れる気がしない。
何を言われても今日は帰る。
そうやって強い気持ちを持とう。
今だけ頑張って、私。

グッと両手を握り締めるとトイレを後にした。

何食わぬ顔を作って戻った先、話を切り出す前に差し出された新しいおしぼりとその姿に、ついそれを受け取ってしまう。
手から伝わる温度で、心までじんわりと温かくなった。
「…ありがとう、ございます」
お礼を言った所で、バーマンさんの両手がゆっくりと離れた瞬間
ガチャンッ!
辺りに響いた鋭い音が何なのかを、すぐに把握出来なかった。
「やべっ零れた!」
その言葉で視線を落として、ロックグラスが倒れている事を漸く知る。
半分程残っていたカルーア・ミルクはカウンターへと広がって、ベージュの水溜まりを作っていった。
「悪い。手が当たった」
それでも全く慌てた様子もなくタオルを手に取ると拭いていく表情は、本当に平静そのもので、バーマンさんってどういう時に狼狽えたり慌てたりするんだろうって、ふと考えてしまった。
「すぐに作り直す」
そう言ってグラスを下げる動きで我に返ると両手を振る。
「大丈夫です!あの、親から電話来て帰って来いって言うんで今日は帰るから!大丈夫!」
「…そうか」
「そうなんです!あのお金此処に置いときますね!ごめんなさい全部呑めなくて!じゃあ!」
鞄を持つと隣とは目を合わせないように店を後にした。

* * *

雀の声が聞こえる。多分朝。
だから布団の中にくるまって、全ての世界を遮断する。
「アンタ何やってんの?また遅刻するわよ」
さっきからドアを開ける音と一緒にそんな言葉が聞こえるけど気のせい。空耳だし幻聴。
今の私は完全に布団の一部。
引き剥がせる者は誰も居ない。
「聞いてんの?さっきから何回も何回も起こしに来てるんだけど?面倒だからこれが最後の忠告ね。今すぐ起きないならその布団ごと外に放り出すから」
引き剥がすっていう選択肢じゃないんですね、お母さん。
「…今日休みたい」
「あ、そう。じゃあ自分で電話しなさいよ」
「会社が爆発したとかニュースでやってない?」
「やってる訳ないでしょ。行きたくないからって他人様まで巻き込もうとすんじゃないよ」
「奇跡的に負傷者0みたいなやつなら良いじゃん。皆休めてハッピーだよ」
「その損害、誰が被ると思ってんの?馬鹿な事考えてないで早く準備しなさい」
「病院行ったら胃に穴開いてますとか言われないかな」
「開いてたらそんな悠長にしてらんないから。アンタの場合、脳に開いてるっていう方がしっくり来るんじゃない?どっちかって言うと」
何か凄い、めちゃくちゃ大きな溜め息を吐かれた。
「そこでうじうじしてたって選択肢は2つに1つなんだから早く覚悟決めてどっちか選びなさい」
「2つって何?」
「大人しく会社に行くか、簀巻きで外に出されるか」
「1日休んでリフレッシュとかいうのないの?」
「ある訳ないでしょそんなもの。大体今日休んだらアンタ絶対明日も休むよ。あ〜、昨日休んじゃったから〜行くの怖〜い、人の目が気になる〜とか言って」
「そんな馬鹿みたいな喋り方じゃないし…」
せめてもの反抗でそう言ったけど、内容は間違えてないから反論が出来ない。
「簀巻きが良いなら今紐持って来てあげるけど?」
「…起きます」
強固にしていた筈の意思も、母の前では何の役にも立たない。
気持ちは全く晴れないけど、仕方なくもぞもぞと抜け出した。

* * *

何かの奇跡が起きて休みにならないかな、とか何かの手違いで、今日出勤じゃなかったとか電話来ないかな、とかそんな事を思いながら、気が付いた時には始業していた。
昨日問題になった請求番号のミスは、私が退社してすぐ位に見つかったらしい。
主任に改めて謝罪とお礼を言った所
「今度また呑みに付き合ってよね」
ウインクをされて、主任ってやっぱカッコイイなぁって思った。
私は自分の事で精一杯だから、いつまで経っても子供なんだって思い知らされたような気がする。
だから、同期の事もいちいち目についてしまうし、周りの目も気になって仕方なくなってしまう。
バーマンさんは昨日の私を見て、どう思ったのかな…。
何とも、思われてないんだろうなぁ。
仕事を終えるまで、そんな事をずっと考えていた。
取り立てて良かった事と言えば、同期と顔を合わせなかった位。
というか最近ずっと会わなくて済んでたのに、どうして昨日はあのタイミングで鉢合わせちゃったんだろう。
運が悪かったとしか思えない。

ふと、我に返って足を止める。
「……あれ」
真っ直ぐ帰ろうと思っていた筈なのに、気が付けば地下へと続く階段の前に立っている自分が居た。
無意識で此処まで来るとか、私どんだけCalm大好きなの、と考えてから、違うかって思い直す。
Calmそのものも好きだけど、やっぱり私、そこに居るバーマンさんの事が、何よりも好きなんだ。
最初は、うん。
顔がカッコイイなとか綺麗とか、スタイル良いなとか手なんか私の好みそのものだし、そんな外見ばかり見てたけど、今は違う。
ぱっと見では冷たそうな表情をしてるのに、ふとした時に見せる柔らかくて温かい雰囲気とか、何があっても冷静沈着なのに、段ボール入り口で詰まらせちゃうようなお茶目さとか
「入らないのか?」
その落ち着いたその声も
「…すごく好き」
口にしてしまった照れくささからついニヤケてしまう。
両手で口元を覆った所で違和感に気付いて振り返った。
「…ほわぁあ!おおっ!?」
バーマンさんが後ろに立っていると理解したのは、自分でも良くわかんない叫び声を出した後。
「ど、どどうしたんですか!」
「どうしたもこうしたも、開店準備をしようとしているんだが」
「…え?あれ?もう18時じゃなかったでしたっけ!?」
「この時計が正しければ17時12分になる所だ」
ベストのポケットから出した懐中時計に視線を落とすその仕草も好きだな、って…もう、そうじゃなくて。
「あー…そっか私定時前に出て来たから…。すいません」
こんな所で立ち尽くして、何やってんだって感じだよね…。
進路を譲るために横に逸れた事でバーマンさんが階段を下りていく。
それに続ける程図々しくもなれなくて、でも18時まで待つのも今日は気持ち的に出来そうもない。
「…じゃあ私」
帰りますと言う前に振り返るバーマンさんと目が合って言葉を止めてしまった。
「入らないのか?」
不思議そうな顔も好きだなってまた思う。
「……えーっとでも、まだ開店前じゃ?」
呆れた顔で見つめられて、瞬きを異様に速くしてしまう。
これは多分、今更何言ってんだみたいな、そういう顔?
その瞳に耐え切れず
「お邪魔します…」
小さく呟けば、その表情がいつものものへと戻ったと思う
すぐに背中を向けられたからわかんないけど、とにかく温かい空気を感じて、その後を追い掛けた。


「…あのー、昨日はごめんなさい」
「何がだ?」
ガリガリと氷を砕く音がBar中に響く。
いつもの特等席に座ったから、その手元は見えないけどクラッシュドアイスを作ってるっていうのは確実にわかる。
「色々、です」
本当はほんとに色々あるのに、何を何処から言えば良いのかわからなくなってしまった。
「バーマナーの件に関してなら気にしていない。知識を持たない者に強要する事は出来ないし、するつもりもない」
クラッシュドアイスを袋に移していく音が聞こえる。
それだけで何も喋らなくなってしまったバーマンさんに、これ以上昨日の話をしても仕方ないし、したくないと私も口を噤んだ。
手持無沙汰にタブレットを出すと、少し進んだホームページのデザインを見せようかと画面をタップする。
あぁ、そうだ。写真も撮らなくちゃ。
丁度開店前だし、今から頼んだら承諾してくれるかな?
声を掛けようとしたと同じタイミングでバックバーへボトルを取りに行く背中が戻ってきた所で、何か作業をし始めた手元を覗き込む。
ミキシンググラスに入れてるのはウィスキー、かな?
「あ、バーマンさん!それ写真撮って良いですか!?」
「……」
うぅ、また訝しげな目で見られた…。
「ホームページに載せる写真!手だけで良いって言ってたやつ!」
「…あぁ」
それが返事なのかどうかわかんなかったけど、カウンターの上に道具を移動させてくれた事でイエスだと知る。
勝手に撮れ、という意思表示なのか作業を再開させる両手に急いでスマホを取り出すと、連写機能を使って角度を変えつつ撮影した。
昨夜と同じようにバー・スプーンを回す動きについついスマホを向ける熱も高くなっていく。
ロックグラスに注がれていく綺麗なブラウン色に連写する手は止めないで、気になった事を口にした。
「これは何てカクテルですか?」
「ハンター」
「…へー、聞いた事ない」
凄く、シンプルなカクテルな気がする。
ただウィスキーともう1つもお酒のボトルかな?それを冷やして混ぜただけ。
その"だけ"っていうのが難しいのもわかるんだけど…。
「バーマンさん…」
顔を上げた先、思ったよりその顔が近くて言葉が詰まった。
いつの間にか身を乗り出していたらしい。
完全に私のせいなんだけど、この近さは不意打ち過ぎる。
「………」
ゆっくりと近付いてくる紺碧の瞳に耐え切れず身を引こうとした寸前で口に触れる柔らかい感触。
それがバーマンさんの口唇だと気付いた瞬間、何度か瞬きをしてしまったけれど、すぐに目を閉じた。

Hunter
予期せぬ出来事