Welcome to Bar Calm | ナノ
「待ってる」

そう言われただけで、こんなに心が弾むのは他の誰でもなくバーマンさんだからで、こんなに仕事を頑張れちゃうのも、バーマンさんだからで、早く18時にならないかなってこんなに楽しみになるのもバーマンさんだから。

今頃寝てるのかなとか、そろそろ起きたのかなとか、ご飯食べたのかなとか、開店準備してるのかなとか、そんな事ばかり考えて1日を過ごした気がする。
気が付けば定時を迎えていて、あと30分残業していくかどうかを迷っていた所で

「苗字さん、ちょっと良い?」

後ろから掛けられた声に嫌な予感がして振り向きたくないけど振り向いた。
「コンサルタントの請求書なんだけど、今月新人の子に任せてみたら何処かで請求番号保存し忘れちゃったみたいで、プロジェクト概要と合わなくなっちゃったの。今皆で手分けして探してるんだけど苗字さんも手伝ってくれない?」
それって30分で終わるのかなっていうのは聞くだけ無駄だというのを、両手に抱えられた書類の束で嫌でも悟ったし、この状況じゃ頷くしか出来ない。
「…わかりました」
「これ、印刷してある方は正確なものだから、USBに入ってるExcelファイルの中から相違する番号があったらすぐに教えて?」
「はーい」
とにかく手を動かさなきゃ減らないし終わらない。
受け取ったUSBをパソコンに挿すとファイルを開いた。

番号を確認するだけなのに30分なんて優に超えて、あと15分ならギリギリ大丈夫かなと思いながら請求書の会社控えを1枚1枚確認していく。
こういう時、バーマンさんの連絡先を知ってれば、残業で遅くなります、とか言えるのにな。
そしたらこんなに焦らなくて済むのに。

「あらぁ、どうしたの?皆。怖い顔して」

扉を開けるなり目を見開く主任に、私を含めた数人の視線が注がれる。
「お疲れ様です主任、今日は直帰だった筈では?」
隣のデスクから飛んだ声を聞きながらまたパソコンと書類に顔を戻した。
「そうなんだけどねぇ、彼にドタキャンされちゃったのよ〜。そのまま帰っても仕方ないかなって戻ってきちゃったわ。で、どーしたの?」
主任、ついに新しい彼氏出来たんだ。どんな人なんだろ?ちょっと気になる。
「それが…ちょっと請求番号のミスがありまして…」
「あぁ、もしかして照合出来なくなっちゃった?」
「はい」
「そういうコトね。了解〜」
主任はそれだけ言うと自分の右手首を確認してから、私のデスクに積まれている書類の束を持ち上げる。
「…はぇ!?」
完全に油断してたせいで変な声が出てしまった。
「苗字ちゃんは此処までよ〜。お疲れ様」
「…え!?でもあのー…」
皆が残業してるこの状況で1人だけ帰るって結構、何ていうか、目立つし気も引ける…。
「大事な取引先との打ち合わせがあるんでしょ?」
ウインクする主任を前にしても言葉に詰まってしまったと同時、耳元に近付いてくる口唇が
「あのBarに行くんでしょ?此処は大丈夫だから早く行きなさい」
そう優しく告げてくれて、勢いに任せて何度も頷いていた。


Welcome to Bar Calm


時間を確認しながら正面玄関へと早歩きで向かう。
本当は走りたいけど、前に急いで全力疾走してたら完璧な不審者に見えたらしく、たまたま居た警備さんに止められた挙句に社員証まで確認された事があったから、そこからは走らないようにしている。
この時間じゃ軽い夕食も買っていく暇もないなぁと思いながらビルの外に出ようとした時だった。
「お、苗字じゃん!今帰りか〜?」
後ろから聞こえた呼び声に渋々振り返る。
「お疲れ…」
あー、会いたくない奴と会っちゃった…。
勿論それを口には出せないけど。
「最近、仕事頑張ってるらしいじゃん?お前ん所の上司が営業部来た時めっちゃ褒めてたぞー?やるなぁ!」
同時に肩を組んでくるその馴れ馴れしさに苦い顔をしてるのに全然離れてくれない。
「同期として嬉しいぜー!」
「…あー、うん、そう…」
「よっし!じゃあ飯食いに行こうぜ久しぶりに!」
「は?何でそんな話になんの?私帰るんだけど」
「どうせ暇だろ?俺に付き合えよ〜!」
…そう。こいつのこういう人の気持ちや都合なんてお構いなしの所が研修で一緒になってしまった時から凄く嫌い。
それでも当時は研修の時だけ、希望する部署も違うからこれが終われば滅多に会う事もないって自分に言い聞かせて何とかやり過ごした。
多分顔は思いっ切り引き攣ってたと思うけど。今みたいに。
「暇じゃないよ。寄るとこあるから。じゃあね」
「寄るとこって何処だよ〜?」
「…やめてよ!苦しいんだけど…っ!」
「吐けっ吐いちまえ〜!」
笑顔で絞めてくる腕に何とか抜け出そうとしても全然動けなくなった。
「…そこのっ!Bar!」
何とか声を振り絞って答えた後で漸くその手から解放されたけど、苦しさはすぐ治まってくれる訳じゃなくて、咳込んでいるのに全く悪びれた様子がない。
「お前、Bar行くの!?そのナリで?似合わね!」
…ほんっとに、こいつ嫌い。
元々嫌いだったけど今すっごい、本気で大嫌いになった。
目も合わせたくなくて、そのまま会社の外へ出る。
早くCalmに行ってバーマンさんに癒されよう。
そう思ったのも束の間、
「何だよ怒ってんの?冗談だっつの」
ついてこようとする姿に足を止めるしかない。
「怒ってないし。ついてこないで」
「あ〜、その顔怒ってる〜!悪かったって!お前からかうと面白いからついさ〜」
…何その言い方。凄いムカつく。
絶対悪いなんて思ってないじゃん。
って言ったら、こいつは逆切れしてくるから研修の時から何も言えないまま。
「よぉし!じゃあ俺も行こ!」
「は?何で!?やめてよ!」
「Barなんて苗字にはまだ早いって!保護者代わりに俺がついてってやっから!」
「頼んでないし!ホントにやめ「さぁ行くぞ〜!方角はどっちだ〜!?」」
左手首を引っ張られて大きな溜め息を吐くしか出来なくなってしまった。


Calmの扉を開ける直前、何とか掴まれていた手を振り解くのは成功したけど、ヅカヅカと入っていく背中に何度目かの溜め息が出る。
遠慮のえの字もない足音に気が付いたみたいで、カウンターの奥から出てくるバーマンさんの気配がした。
「……」
目が合って開きかけた口は、同期へと向いた瞬間に閉じられる。
「どうも〜こんばんは。最近苗字が世話になってるみたいで!」
私の定位置じゃない反対側のカウンターへ座るなり、そう言うから余計に慌ててしまった。
「やめてよ…!」
「保護者代わりなんだから挨拶するのは当然だろ?」
「そんなの頼んでないし!」
「良いからお前も座れって」
隣の椅子に触る左手に、ひとまずそれに倣う。
「…知り合いか?」
腰を下ろしたタイミングで差し出されるおしぼりを受け取って、そのベルガモットの香りに少し頬が弛んだ。
「同期です。どうしても来たいって…」
うるさいししつこくてっていうのは呑み込んだけど、溜め息は隠せない。
「何だよお前〜そんな満更でもないくせに〜。あ、どーもどーも」
あっけらかんとした顔でおしぼりを受け取ると手を拭いて畳みもせずそのまま雑に置く動作に顔が引き攣ってしまった。
Barが似合わないのはどっちだって言ってやりたいけど言えない。
バーマンさんは眉ひとつ動かさないまま
「注文は?」
そう落ち着いた声で問い掛けた。
今夜此処に来たら頼もうと決めていたスクリュー・ドライバー。
でも今この状況じゃ頼めないな。違うカクテルを選ぼう。
メモを見るために電子ノートを取り出そうとした時
「俺生で、こいつにはカルアミルクお願いします!」
言いのけた隣の人物に目を見開く事しか出来なかった。
何で?Barでビール?ううん、それはまぁ良いや。何を呑むのかは人それぞれで自由だけど、言い方もそうだし、そもそも何で私のカクテルまで勝手に頼むの?
え…?何こいつ。どこまで自分勝手なの?
しかもカルアじゃなくてカルーアだし。
次々に沸いてくる怒りやら悲しみやら、とりあえず湧き続ける黒い感情に、癒しを求めたのかも知れない。
いつの間にかバーマンさんへ視線を向けてしまっていて、私の意思を確認するように紺碧の瞳が細くなった。
でも此処で嫌だって言うのもまた面倒くさい事になるだけだし、それを断ってまで呑みたいカクテルをすぐに答えられる訳じゃない。
バーマンさんが作るカルーア・ミルクはいつか呑んでみたいとも思ってたから、良いには良いんだけど…。
黙ったまま小さく頷いた私に、納得したみたいで
「承知した」
それだけ言うとバックバーからオレンジに近い色味をしたラベルのボトルを手に取っていく。

一度それを置いてから屈んだ先、銀色の扉を開けると私に初めて作ってくれたテキーラ・サンライズと同じ型のグラス、ピルスナー・ゴブレットを取り出しているのが立ち上がらなくても見えた。
そういえば、その時もこっち側に座ったんだっけ。
此処からだと、いつも私が座っている所よりもバーマンさんとの距離は遠い分、何をしているかがわかって、それは何か新鮮かも。
カウンターから伸びている蛇口みたいな先端に付いているレバーを手前に倒したと同時に琥珀色の液体が注がれていく。
あれってビールサーバーだったんだ。初めて知った。
此処でビールを頼んだ事ないから初めて見るのも当たり前かぁ、と考えている内にコースターと一緒に出された並々と注がれたグラス。
「どーもー」
一息吐く暇もなくロックグラスに氷を入れていく手捌きに見惚れてしまう。
メジャーカップを人差し指と中指で挟むそのしなやかな所作も綺麗。
さっき手に取ったボトルをそこへ流し込んでからグラスへ移すのを瞬きも忘れて見入っていた。
ずっと見入っていたかったのに
「カルアミルクなら苗字も呑めるべ?」
ガサツな声が聞こえてそちらを向くしかなくなってしまう。
「お前酒弱いもんなぁ!ははっ!」
肩をバンバン叩いてくる手に思いっ切り嫌な顔をして反対側へ身体を傾けて逃げた。
凄い馴れ馴れしいけど、私がこいつと呑みに行ったのなんて同期の集まり数回と研修期間を終えた後の懇親会くらいでその時だって特別仲良く話した訳じゃない。
いつもなら諦めもあってそこまで目くじら立てないけど、今この時、バーマンさんの前でだけは余計な事言わないで欲しい。
一瞬でもそんな風に思われたくない。
「やめてよ痛いし。早く呑めば?」
「お前の来るまで待っててやってんだよ〜」
そういう言い方も凄い嫌い。
何でそんな押し付けがましいのかな。

「カルーア・ミルクだ」

静かにスッと出されたグラスの中を満たすベージュに近い色味に首を傾げそうになってしまう。
カルーア・ミルクってもうちょっと茶色っぽいイメージというか、色が濃かった気がする。
しかもその表面には数粒の黒い粒が浮かんでいて、これは何だろうと質問をするために顔を上げた。
その瞬間、紺碧の瞳と向き合ってドキッと心臓が音を立てる。
「…何かこれ、色薄くね?」
隣から飛んできた失礼すぎる声に、バーマンさんの前で思いっ切り強張った表情をしてしまった。
「既存のレシピよりアルコールの配分を低くしている。色が薄く見えるのはそのためだ」
「あ、俺がコイツ酒弱いって言ったから?凄いですねバーテンさん!」
違う、と言い掛ける前に
「じゃあこの黒いのなんですか?」
矢継ぎ早に質問を続ける隣の姿を見たくなくてただカルーア・ミルクを見つめる。

違うよ。あんたが言ったからアルコールを弱くしてくれたんじゃない。
バーマンさんは私がお酒弱いのずっと前から、出逢った時から知ってるもん。
ちゃんと周りの事見て把握して、冷静に判断してる、自分の意見押し付けたりしてこないし、優しさだって、それがそうなのかなって考えないとちょっとわかんない位だけど、本当に凄くさりげなく、与えてくれる。

「…あ〜コイツ苦いのも苦手だから無理そうですね〜!」

そうやって指なんか指して知ってるような風に言わないで。
ほんとに偉そうでやだ。嫌い。

「…どうした?」

バーマンさんの優しい声で顔を上げる。
その表情が少し、心配してくれてる気がした。
「…何でもないです!美味しそうだなって見てただけ!」
「もしかしてお前、今のバーテンさんの話聞いてなかったのかよ?」
「……。ごめんなさい」
「ま、良いけど」
何であんたが許すの?私が謝ってるのはバーマンさんなんだけど。
ついムッとしたのを思い切り正面で見られてしまって目を逸らした。
「コレ、コーヒー豆なんだってよ。苦いからお前は食わない方が良いぞ〜」
考え事をしてたせいでバーマンさんの言葉を聞き逃してしまったのを今凄く後悔してる。
こんな風にカルーア・ミルクの説明を聞きたくなかった。
「…いただきます」
ロックグラスを両手で持った途端
「よし、じゃあ乾杯な!」
止める間もなくグラスをぶつけてくる右手とカチャン、と高く響く音に思わず声を上げそうになってしまった。
どうしよう、割れてないよね…?
一気に呑み干していく隣と自分のグラスを確かめて顔を上げた先のバーマンさん。
ごめんなさい、と口に出さないまま小さく頭を下げた私に、何も反応を示さないまま目を伏せると片付けを始める横顔は、どうしてだろう。
とても遠くに感じた。

KahluaMilk
八方美人