「…名前、好きだ」 いつもと違い、熱を帯びた声と見下ろされる瞳に視線を逸らすも、また落ちてくる濃厚なキスに目を閉じる。 「…ッ…ん…」 這う右手に反応をしないようにと思っても身体は勝手に震えるもので、離れた口唇と共に顔を上げた冨岡先生が動かした膝で、ベッドのスプリングが僅かに軋んだ。 首筋に触れる舌の感触に気付いて息を止める。 霧がかかったように働かない頭は、アルコールを摂取したからだけではなくて、多分… 「やはりお前はこの匂いでなければ駄目だ」 そう言いながら徐々に下がっていく顔に勝手に震える身体を誤魔化すようにその肩を掴む。 「…可愛い」 ジャージのチャックを外すとTシャツの中に忍び寄る右手に、あぁ、もう逃れられないのだと目を硬く瞑った。 思えば、どうして今も私が冨岡先生から全力で逃げようとしているのか、深く考えてこなかった気がする。 とにかく拒否しなくては。 とりあえず抗わなくては。 そんなその場限りの感情だった。 「何の問題がある?」 そう、聞かれた事で気付いてしまった。 問題なんてなくなっていた事に。 私の心に戒めのように絡みついていた全ては綺麗さっぱり消えて、冨岡先生から逃げる意味などないと気付いたのは、重なる口唇から嫌でも伝わってくる愛情を否定出来なくなっている、その心の内を見抜かれたからかも知れない。 good boy どうしてこうなったのか。 最初は本当に、今まで通りだった。 冨岡先生もそれはそれは大人しいもので、単純に楽しいのか、ふざけた言動もなく、ああでもないこうでもないと言いながら歪な手巻きを作って、茶碗蒸しと煮物を残す事なくたいらげ、その間には呑みたいと言ったレモンサワーも傍らにあった。 終始穏やかな雰囲気だったように思う。 それなのにどうして突然こんな事態になっているかと記憶を遡れば、片付けを始めた私が不注意から包丁で切った左人差し指からだったかも知れない。 昨日研いだばかりのお陰でいつもより切れ味が良かったそれは、思ったよりも深く傷を創ったらしく、ボタッと音を立てて落ちた血液にこれは不味いとひとまずキッチンペーパーで強く押さえて止血を試みながら、食器棚の引き出しを開けようとした。 当たり前に私の異変に気付いた群青の瞳が険しいものへと変わって 「切ったのか!?」 焦ったように立ち上がると左手に触れる指は表情とは違い優しいものだった。 「完全にしくじりました」 極めて平然と言ったのにも関わらず浚っていこうと力を込めた手に言葉を続ける。 「舐めようとかしないでくださいね」 「何故わかった」 「冨岡先生のこれまでの言動を考えれば嫌でもわかります。舐めれば治るなんて昔の「わかった。早く手当てしよう。お前は座ってろ」」 聞き分け良く離した手が引き出しの中から箱を取り出して、こちらも大人しく椅子に座るしかなくなってしまった。 「良くわかりましたね」 「風邪薬を取った時に中身を見た」 「…あぁ、そんな事もありましたね」 「見せてみろ」 床に片膝をつく冨岡先生に眉を寄せるしかない。 「寒くないですか?別に床に「早く」」 これ程にない圧に左手を差し出せばキッチンペーパーをゆっくり剥ぎ取っていく指先が若干震えているのに気付いた。 …もしかして、この人… 「傷が深い。もう少し止血する」 「意外にサクッといきましたね」 「笑い事じゃない」 傷口をガーゼで包むと圧迫する痛みで顔が歪みそうになるのを耐える。 「少し痛い、が止まるまで辛抱だ」 「…冨岡先生、ちゃんと手当て出来るじゃないですか」 つい思い出すのは嘴平くんの叫び声。 黙ったまま何も返してこない真剣な瞳から必死さが伝わって大袈裟だなと考えるけれど、これを口にするとまた否定されるのがわかっているので、閉ざすしかない。 しかし包帯を用意する右手につい苦笑いが零れた。 「絆創膏で事足りると思いますよ」 「駄目だ。化膿したらどうする」 巻き出すものの、それはもう不器用な動きで、出来上がった時にはまるで重傷を負った指のようにグルグル巻きにされている。 「…ありがとうございます」 思わず小さく笑ったのは不出来さからではなく、その懸命さが伝わってきたからなんだけども、不満げに眉を下げるものだからその頭を軽く撫でた。 「…偉いですね」 途端に輝かせる群青色は何と言うか、本当にこの人は常にブレないんだと、今更ながら再確認している。 「痛くないか?」 「痛くないです。冨岡先生、心配し過ぎですよ。包丁で切った位でそんなに狼狽えなくても…」 続く言葉を止めたのは、重なろうとしている口唇に気が付いたため。 思わず目を瞑ったのは反射的なものなのに、何度も啄んでくる動きに気恥ずかしさで開けられなくなってしまった。 隙をついて絡みついてくる舌で逃げ腰になるも頭を支えるように押さえる掌に捕まって身動きが取れなくなる。 強引ではない、優しさに満ちたそのキスは、包み隠さずその心の内を伝えてきていて、抗おうとする気力すら奪われてしまった。 「……っ…」 漸く離れた口唇が動くのを鈍くなった思考で眺める。 「名前が欲しい」 今までにない程、心臓が跳ねたのはどうしてか、わからない。 けれど自分が冷静ではなくなっている、というのは自覚していた。 「誕生日、ですもんね…」 そう呟いた瞬間、宙に浮く感覚で冨岡先生に抱えられているのに気付く。 リビングを抜け寝室のベッドに降ろされ、そうして今に至っている。 まるでこの瞬間を待ちに待っていたかのように、何度も何度も繰り返されるキスに息が苦しくなって 「…ちょっと、待ってください…」 漸く出てきた言葉も 「ここまで来たらもう無理だ」 また啄む口に硬く目を瞑った。 無理、か。 確かにこの状況でやっぱりやめよう、なんて鬼畜過ぎるかも知れない。 巡らせる思考は背中に伸びてきた手で止まってしまう。 いとも簡単に外されたホックに、もうこれは覚悟を決めるしかないのではないかと、ぼんやりとジャージの上を脱ぎ捨てる姿を見つめた。 …いや、ちょっと待って。 何か、振動が… 「冨岡先生、電話鳴ってません?」 また口唇を塞がれる前に右手で制止する。 微かにだけどそのズボン、右ポケットから低い音と揺れが伝わってきていた。 「さっきからずっと鳴っている」 「出なくて良いんですか?」 「良い」 短く答えるとあっさりと制止を払い、キスを落としてくるものだから閉じかけた目は、聞き慣れた電子音で見開いてしまう。 今度は私のスマホがLINE通話を告げていた。 「…ちょっと1回…」 「待たない」 「いや、ほんとに…何かおかしいですよ。2人同時に電話が鳴るなんてもしかしたら何か非常事態が起きたのかも知れません」 「こちらは知れないではなく、紛れもない非常事態が起きている」 「確かにある意味非常ではありますけど、誰が上手い事言えと言いました?とりあえず退いてください」 大人しく引き下がる姿に、捲られたままだったTシャツを直すと未だ鳴り続ける通知を確かめにダイニングへ向かった。 鞄から取り出した画面には"ビデオ通話"の文字。 その人物が悲鳴嶼先生だと認識した事で、やっぱり何かあったのかと眉を寄せた。 だけど、どうしてビデオ通話なのか。 「…お疲れ様です。どうしました?」 念のため自分が映らないよう天井にカメラを向けながらそれに答えれば、ガヤガヤと騒がしい音が響く。 『おお!ホラ繋がったぜ!』 声の主が画面に映った事で思い切り眉を寄せてしまった。 「何ですか?宇髄先生…」 『お前、顔見えねェぞ?何だそれよォ』 「天井です。ちょっと待ってくださいね」 どうやってカメラをオフにするんだっけ、と考える。 普段ビデオ通話なんてしないため戸惑ったせいで後ろからぬっと出てきた姿に反応出来なかった。 気が付いた時には覗き込んでいる冨岡先生が画面に映っていて眉を顰める。 『やっぱ冨岡も居たのか!』 「名前に誕生日を祝って貰っていた」 浚っていかれたスマホに溜め息を吐きつつ、緊急事態があった訳ではないのだと安堵もしていた。 『だから言ったろ?絶対コイツら一緒に居るってよ』 確信的に掛けてきたのか、宇髄先生め、と思い掛けて、いや、このタイミングで掛けてきてくれたのは寧ろ良かったのかも知れないと、そうも思う。 もしあのままだったら…多分…。 冷静になると何とも羞恥に近い感情が沸き上がってきた。 そうして、ふと、誰に話し掛けてるのかと疑問が湧く。 悲鳴嶼先生と宇髄先生が一緒に居るのは確実で、喧騒から時折聞こえる言葉で恐らく何処かの飲食店であるのは推察出来る。 「それ、カメラオフになりませんか?」 小声で訊ねれば黙って機能を切る親指に胸を撫で下ろしたのも束の間 『あ!何だァ!?カメラ切りやがったな!?苗字が映らねェって事は絶対お前らヤッ「通話も切って良いですよ」』 「名前が良いなら構わないが、鎮まっていないこの状況下では切った瞬間お前を襲うが「やっぱ切らないで良いです。楽しく会話をしましょう会話を」」 未だ宇髄先生が何やら捲し立ててるのを半分流しながら、何の用なのか訊ねようとして 「…胡蝶が居る」 「え!?」 その名前に画面を見ようとしたつい寸での所で動きを止めた。 「…映りたくないのか?」 「苦手なんですよそういうの」 「それならこれで切り替えれば良い」 そう言って押した先、パッと冨岡先生の足元が映る。 『おぉ!また映った!!これは恐らく冨岡先生の足だろうか!?』 煉獄先生の声が大き過ぎて音割れを起こしてる。 「これならあちら側の画面も見える」 「意外と詳しいんですね」 「不死川とは良くビデオ通話をしている」 「仲良いとは思ってましたけど、そこまでだったんですね」 「違う。書類の確認の時便利だからだ。焼きもちを妬く必要はない」 「あぁ、そういう事ですね。焼きもちは妬いてないんで大丈夫です」 『何だァ?今呼んだか?』 不死川先生まで居るのか…。 チラリとその画面を覗き見た所、その白髪の隣、おかっぱ頭と蛇が見えて、あぁ、伊黒先生もか、と考えた瞬間、渡されたスマホに受け取るのを迷う。 「映りたくないのなら俺に向けていて良い」 それだけ言うとテーブルを挟んだ向かい側、定位置に座るのを眺めてから 「…助かります」 一言返し、そちらへカメラを向けた。 『苗字先生〜、冨岡先生〜』 可愛らしく手を振る姿に返したくなるも、あちらからは見えないため動かしかけた手を引っ込める。 「お疲れ様です。胡蝶先生、どうしたんですか?」 『今冨岡の誕生パーティーやってんだよ!派手に祝おうってな!』 「肝心な主役、此処に居ますけど…?置いてけぼり食らってますけど?」 『冨岡先生は我々が祝うより苗字先生と祝う…が…ッ…った!!』 割れたせいで最後全く聞き取れなかったけども何となくはわかった気がする。 『しかし折角なので皆でもう一度祝おうとこうして電話をかけた次第だ』 姿が見えないけれど悲鳴嶼先生の声が一番近くでする。 「…だから煉獄がずっと掛けてきていたのか」 ボソッと呟いた言葉に視線を上げる。 「わかってたんですか?」 「余りにもずっと鳴っているので先程、確認した。お前は必死に目を瞑っていたので気付かなかったのだろう」 全くそんな気配もしなかった。 しなかった、というより察する余裕すらなかった、というのが正しいか。 見つめあうのが気まずくて、画面に戻した視線に眉を上げる。 悲鳴嶼先生を除く全員が収まるよう引いた構図。 各々グラスを持っている事から次に何が起きるかは簡単に予想出来て、カメラを切り替えると画面をその人物へ向けた。 「…何だ?」 訝し気に見つめる視線は 『冨岡ァ!!』 不死川先生の呼び声に画面へ移動する。 『誕生日…』 今度はぼそりと伊黒先生の声。 『『『『おめでとう!!』』』』 ほぼ煉獄先生の声しか聞き取れなかったけども、声を揃えた後、聞こえるグラスをぶつける音に、驚いたように瞳孔を開く瞳が嬉々なものに変わっていく。 しかしそれも身動ぎひとつしないせいか不死川先生の不満げな声が響く。 『お前、何とか言えよ…』 「嬉しさの余りフリーズしてるんだと思います」 『そうなの?そんなに喜んで貰えるならやっぱり誘えば良かったんじゃないかしら〜?』 『苗字が居ないと冨岡は来ない』 『そうか!端から苗字攫えや良い話だったか!』 『今からでも遅くない!2人共来れば良い!!』 音割れしたという事で聞こえないフリをしよう。 『冨岡先生と苗字先生が良ければ暫く繋いでおきたいのだが…』 悲鳴嶼先生の言葉に主役へ視線を向けると、小さく頷くので 「構いません」 短くそれだけを返した。 今出来る最大限のお祝いを (おはようご…どうしたんですか?不死川先生と宇髄先生) (うむ!!どうやら2日酔いらしい!!) (喋んないでくんねェ?スゲー頭に響く…) [ 66/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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